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遠雷の向こうの町

 雷の日だけ、その町は見えた。

 少年がそれに気づいたのは、偶然だった。空が暗くなり、森の上に低い雲が垂れこめる午後、雷が鳴るまでの、あの短い時間。

 世界が、待っている時間だ。

 少年は、森の端に立っていた。

 いつもは、ここまでしか来ない。木々が切れ、道が細くなり、外へ続く気配だけが残る場所だ。向こう側は、見えない。見えてはいけない、と、だれにも言われていないのに、そう感じていた。

 その日、遠くで、雷が鳴った。

 低く、長い音だった。

 少年は、顔を上げる。

 雲の切れ間が、一瞬だけ光る。

 そのときだった。

 森の外に、町が見えた。

 家が並び、道が走り、屋根が連なっている。村よりも大きく、知らない形をしている。音はない。人の姿も、はっきりとは見えない。

 けれど、確かに、町だった。

 次の雷が鳴ると、景色は消えた。

 少年は、息を止めたまま、立ち尽くす。

 見間違いではない。

 雷が、もう一度鳴る。

 光と音のあいだで、町が戻る。

 遠い。

 けれど、ここから続いている。

 少年の胸が、強く鳴った。

 森の中で生まれ、村で育ち、同じ道を歩いてきた。外へ出たい、と思ったことは、何度もある。けれど、それは、想像だった。

 今は、違う。

 見えてしまった。

 少年は、森の中へ戻った。

 走らなかった。足元を確かめながら、けれど、迷いはなかった。胸の奥に、雷の音が残っている。

 家に戻っても、町のことは言わなかった。

 雷の日のことを話すのは、なぜか、ためらわれた。影のことや、蝉の声と同じだ。言葉にすると、消えてしまいそうだった。

 夜、雨が降った。

 雷は、もう鳴らない。

 少年は、眠れずに、耳を澄ませた。雨音の向こうに、昼間の音を探す。

 けれど、聞こえない。

 雷がなければ、町は現れない。

 翌日から、少年は、空を見るようになった。

 雲の厚さ、風の向き、湿った匂い。雷の気配を、身体で覚えようとする。

 村の大人たちは、天気を見て、畑や仕事を決める。少年は、別の理由で、空を見ていた。

 また、雷の日が来る。

 確信があった。

 そして、その日、また、見える。

 遠雷が鳴った午後、少年は、森の端に立った。

 町は、前よりも、はっきりしている。

 屋根の色、道の曲がり方。

 少年は、一歩、前に出た。

 森の外へではない。

 境目へだ。

 雷が、近づく。

 音が、空を割る。

 町は、確かに、そこにあった。

 少年は、知った。

 外の世界は、想像ではなく、条件つきで、ここに現れる。

 雷の向こうに。


 雷の日は、村の時間が少しだけずれる。

 朝はいつも通り始まるのに、昼に近づくにつれて、人の動きが早くなる。洗濯物が引き上げられ、道具が片づけられ、言葉が短くなる。

「降るぞ」

 それだけで、十分だった。

 少年は、家の手伝いをしながら、空を見ていた。雲は低く、重なり合い、色を失っている。雷は、まだ鳴らない。けれど、近づいている。

 胸の奥が、じっとしていない。

 雨が来る前の、あの静けさ。音が減り、代わりに、遠い振動だけが残る時間。

 少年は、その振動の向こうに、町を思い描いた。

 午後、最初の雷が鳴った。

 遠く、低く、長い音。

 少年は、用事を終えると、森へ向かった。だれにも声をかけず、呼び止められもしなかった。雷の日は、みな、自分のことで手いっぱいだ。

 森の端に立つ。

 風が、葉を裏返す。湿った匂いが、強くなる。

 雷が、もう一度鳴る。

 町が、現れた。

 昨日よりも、近い。

 屋根の形が分かる。道の幅が見える。村よりも広く、森よりも整っている。

 少年は、息をのむ。

 あちらには、道がある。

 森の道とは違う。迷わない道。目的に向かって、まっすぐに続く道。

 少年は、知らない感情を覚えた。

 怖さではない。

 憧れでもない。

 呼ばれている、という感覚だった。

 雷が鳴るたび、町は、少しずつ、はっきりする。

 けれど、境目は越えられない。

 少年は、何度も足を出そうとして、止めた。

 外へ出たい、と思うことと、外へ行くことは、違う。

 森は、静かだった。

 木々は、何も言わない。ただ、そこにある。

 少年は、ふと、森に問いかけた。

「どうして、隠すの?」

 雷が、答えるように鳴った。

 町が、揺れる。

 その一瞬、少年は気づく。

 町は、固定されていない。

 雷の音に合わせて、近づいたり、遠ざかったりする。まるで、見せる距離を、選んでいるようだった。

 雷は、橋だ。

 音と光で、こちらと向こうを、一瞬だけつなぐ。

 けれど、橋は、渡るためにあるとは限らない。

 見せるために、かけられることもある。

 少年は、歯を食いしばった。

 見るだけでは、足りない。

 見てしまった以上、戻れない。

 雷が、次第に近づく。

 音が、鋭くなる。

 町の輪郭が、崩れはじめる。

 雨が、落ちてきた。

 大粒の雨だ。地面を叩き、視界を曇らせる。

 町は、消えた。

 少年は、雨の中に立ち尽くす。

 外の世界は、確かにあった。

 条件つきで。

 そして、その条件は、自分では選べない。

 家へ戻る道で、少年は、初めて、苛立ちを覚えた。

 森は、守っているのか。

 それとも、閉じ込めているのか。

 その違いが、分からなかった。

 夜、雷は、まだ鳴っている。

 少年は、布団の中で、目を閉じる。

 音の向こうに、町を探す。

 眠りの縁で、また、あの景色が揺れた。


 雷は、夜になっても止まなかった。

 空の奥で、低く鳴り続けている。眠りに落ちるには、少しだけ音が多い夜だった。

 少年は、何度も目を覚ました。

 目を閉じるたび、森の端が浮かぶ。境目に立つ自分と、その向こうに現れる町。近づいたと思えば、離れ、はっきりしたと思えば、崩れる。

 朝になっても、空は暗かった。

 雲は薄くなったが、重さは残っている。雷は遠ざかり、音は小さく、長く伸びている。

 少年は、決めていた。

 今日は、行く。

 町へ、ではない。

 森の外へ。

 それだけでいい。

 家を出るとき、だれにも声をかけなかった。止められる理由を、作りたくなかった。森の外へ行きたい、と言えば、心配される。危ない、と言われる。それは、正しい。

 けれど、正しさは、少年の胸を満たさなかった。

 森の端に立つ。

 雷は、まだ鳴っている。

 町は、見えない。

 それでも、少年は、一歩、前に出た。

 足元の感触が、変わる。

 土が固くなる。草が減り、踏みしめる音が、乾く。

 森の中とは、違う。

 少年の胸が、強く鳴った。

 もう一歩。

 雷が、鳴る。

 町が、現れた。

 今までで、一番近い。

 少年は、足を止めた。

 町の入口が、見える。道が、森の端から、まっすぐに伸びている。境目は、消えていた。

 行ける。

 そう思った瞬間、足が動かなかった。

 森が、音を立てたわけではない。

 木々が、揺れたわけでもない。

 ただ、少年の中に、重さが戻った。

 これまで、森は、すべてを教えてきた。

 足元を見ること。

 影を持つこと。

 終わりを知ること。

 それらは、外へ出るための準備だったのか。

 それとも、ここに留まるための理由だったのか。

 分からない。

 雷が、もう一度鳴る。

 町が、揺らぐ。

 少年は、声を出した。

「行きたい」

 小さな声だった。

 けれど、確かだった。

 森は、答えない。

 代わりに、雷が鳴る。

 町が、遠ざかる。

 少年は、歯を食いしばった。

 このまま戻れば、森は、何も言わないだろう。守られ、育てられ、同じ道を歩き続ける。

 それも、悪くない。

 けれど、少年は知ってしまった。

 外があることを。

 雷の向こうに、別の町があることを。

 それを知ったまま、何もなかったふりをすることは、できない。

 少年は、足元を見た。

 境目の地面は、踏み荒らされていない。だれも、ここを越えていない。

 初めての足跡は、重い。

 少年は、ゆっくりと、足を出した。

 雷が、鳴る。

 町が、揺れる。

 足は、地面についた。

 その瞬間、町が、消えた。

 少年は、森の外に立っていた。

 町はない。

 道もない。

 ただ、知らない地面が、続いている。

 胸が、強く鳴る。

 それでも、少年は、振り返らなかった。

 森は、そこにある。

 戻る場所として。

 外は、まだ、何もない。

 行き先として。

 雷が、遠ざかる。

 町は、もう、見えない。

 けれど、少年の中には、残った。

 外を、求める気持ちが。

 雷の日だけ見える町は、約束ではない。

 可能性だ。

 少年は、知らない地面に、もう一歩、足を出した。

 遠雷は、まだ、空の奥で鳴っている。


 森の外の地面は、思っていたよりも静かだった。

 草は短く、土は固い。森の中のように、踏むたびに音が変わることはない。足音は、同じ調子で、ただ前へ続いていく。

 少年は、立ち止まった。

 町は、もう見えない。

 雷も、遠ざかっている。音は薄れ、雲の切れ間から、少しだけ光が落ちてきた。

 それでも、戻ろうとは思わなかった。

 戻る理由が、なくなったわけではない。家も、森も、村も、すべて、まだそこにある。ただ、少年の中で、ひとつの位置が変わった。

 ここに、立ってしまった。

 その事実だけが、残っている。

 少年は、振り返った。

 森は、境目を越えても、森のままだった。木々は、並び、影を落とし、いつものように、そこにある。

 閉じてはいない。

 拒んでもいない。

 ただ、見送っている。

 少年は、初めて、そのことに気づいた。

 森は、外を隠していたのではない。

 準備ができるまで、見せなかっただけだ。

 雷の日だけ、町が見えたのは、その合図だった。

 行け、という命令ではない。

 行きたい、という気持ちを、自分で確かめるための光だった。

 少年は、息を吸った。

 胸の奥に、ざらりとした感触がある。怖さと、期待と、名前のつかない重さが、混ざっている。

 それが、外へ向かう感覚なのだと、分かった。

 遠くで、最後の雷が鳴った。

 短く、低い音。

 それを合図に、空が、少しずつ明るくなる。

 町は、もう現れない。

 けれど、少年は、がっかりしなかった。

 町は、行き先ではない。

 向こうにある、という事実だけで、十分だった。

 少年は、歩き出す。

 どこへ、という目的はない。

 ただ、森の外を、歩く。

 一歩ごとに、知らない景色が増える。振り返れば、知っている場所が、少しずつ遠くなる。

 それでいい。

 外の世界は、最初から、完成しているわけではない。

 歩くことで、できていく。

 少年は、もう一度、空を見上げた。

 雲は流れ、雷の気配は消えている。

 それでも、胸の奥では、まだ鳴っていた。

 遠雷は、町を見せるためだけのものではない。

 外を、思い続けるための音だ。

 少年は、歩き続ける。

 森を背に。

 町を胸に。

 雷の向こうを、忘れないまま。

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