蝉のぬけがらは眠らない
少女は、眠れなくなっていた。
目を閉じても、夜が終わらない。闇が薄くなる気配がなく、時間だけが、そのまま置き去りにされているようだった。
家の中は静かだ。
両親の寝息も、柱のきしむ音も、すべて遠い。聞こえているはずなのに、少女の耳には届かない。
代わりに、外から、ひとつの音だけが入ってくる。
蝉の声だ。
昼間とは違う。力いっぱい鳴く声ではなく、擦れるような、途切れがちな音。数を減らした蝉が、夜の森で、順番に声を残している。
少女は、布団から起き上がった。
裸足のまま、戸を開ける。
夜の空気は、冷えている。夏の終わりが、はっきりと分かる温度だった。
森へ向かう道を、少女は知っている。
昼は通らない。夜だけ、歩く道だ。
草を踏む音が、小さく鳴る。虫の気配が、足元をすり抜ける。それでも、怖くはなかった。
眠れない夜は、何度もここへ来ている。
森に入ると、蝉の声が近づく。
木の幹、枝の裏、葉の重なり。そのどこかで、鳴いている。
少女は、一本の木の前で立ち止まった。
幹に、蝉のぬけがらが、しがみついている。
乾いて、軽く、空っぽだ。
指で触れると、かさりと音がした。
「……起きてる?」
思わず、そう聞いていた。
ぬけがらは、答えない。
けれど、少女には分かる。
眠ってはいない。
蝉は、眠らない。
少なくとも、終わりを迎える前までは。
森の奥で、またひとつ、声が鳴った。
短く、細く、それでも確かに。
少女は、胸の奥が、きゅっと縮むのを感じた。
この声は、数えている。
夜の数。
残りの時間。
終わりまでの距離。
少女は、木の根元に座り込んだ。
眠れない理由は、分かっている。
終わりを、知ってしまったからだ。
何が、とは、まだ言えない。
けれど、蝉の声は、すでに知っている。
だから、鳴る。
夜の森で、時間を刻むように。
少女が終わりを知ったのは、昼のことだった。
夏休みが、あと少しで終わる、と大人たちが話していた。その言葉自体は、毎年聞いている。けれど、その年は、違って聞こえた。
「来年は、もうーー」
その続きは、少女の耳に届かなかった。
声が、途中で途切れたように感じたのだ。言葉が消えたのではない。意味が、そこで終わった。
来年は、もう、ここにはいない。
だれが、とは言われていない。けれど、分かってしまった。
分かってしまうと、時間は、急に形を持つ。
朝と夜のあいだに、数えられる量があることに、気づいてしまう。
それから、少女は眠れなくなった。
夜になると、今日が減っていく音がする。静かなはずの暗闇の中で、確かに、何かが削れていく。
その音が、蝉の声と重なった。
森の中で、少女は、また別の木を見上げた。
そこにも、ぬけがらがある。
いくつも、いくつも。
同じ形をしているのに、すべて、別のものだ。
「……どうして、残るの?」
ぬけがらに向かって、少女は聞いた。
答えはない。
けれど、少女は、想像する。
もし、鳴き終えた蝉が、すべて消えてしまったら、夏は、どこで終わったのか分からなくなる。
ぬけがらは、終わりの印だ。
ここまで来た、という証だ。
少女は、そっと、ぬけがらを見つめた。
空っぽなのに、何かを抱えている。
眠っていないからだ。
眠るときは、明日がある。
けれど、蝉は、明日を待たない。
夜の森で、声がひとつ、途切れた。
数が、ひとつ減る。
少女は、息を詰めた。
終わりは、突然ではない。
ひとつずつ、音を失っていく。
だから、眠れない。
眠ってしまうと、その減り方を、見逃してしまうからだ。
少女は、立ち上がった。
木々のあいだを、ゆっくり歩く。
蝉の声は、もう多くない。
そのかわり、沈黙が増えている。
沈黙もまた、時間を刻む。
少女は、胸に手を当てた。
ここも、鳴っている。
終わりに向かって。
だから、眠れない。
眠らずに、聞いていなければならない。
夜の森で、蝉と一緒に。
その夜、蝉の声は、さらに少なかった。
数えようと思えば、数えられるほどだった。ひとつ鳴き、間が空き、またひとつ鳴く。そのあいだに、夜が深くなっていく。
少女は、森の中で立ち止まった。
これ以上、奥へは行かない。いつも、そう決めている場所だ。木々の重なりが濃くなり、道が道でなくなる境目。
ここから先は、終わりの近くに感じられる。
少女は、木の幹にもたれた。
冷たい感触が、背中に伝わる。昼の熱は、もう残っていない。
「……もう、すぐ?」
小さく、そう聞いた。
だれに向けた言葉なのか、自分でも分からない。
蝉かもしれない。
終わりそのものかもしれない。
返事はない。
けれど、その代わりに、ひとつの声が、途切れた。
それが、最後だった。
しばらくしても、次は鳴かない。
夜は、音を失った。
少女の胸が、静かに沈む。
終わったのだ。
何かが。
夏が。
あるいは、知ってしまった時間が。
少女は、足元を見た。
木の根元に、ぬけがらが落ちている。しがみつく力を失い、地面に横たわっている。
そっと、拾い上げる。
軽い。
あまりにも軽い。
それでも、壊れそうで、指に力を入れられない。
「……眠ってないね」
ぬけがらは、答えない。
けれど、少女には分かる。
眠らないから、残るのだ。
眠ってしまえば、終わりは、夢に変わる。気づかないまま、朝が来てしまう。
蝉は、それをしない。
終わることを、起きたまま、引き受ける。
だから、鳴く。
だから、眠らない。
少女は、ぬけがらを、木の根元に戻した。
もとの場所ではない。けれど、土の上だ。
ここまで来た、という場所。
立ち上がり、空を見上げる。
星は、いくつかしか見えない。雲が、薄くかかっている。
それでも、夜は、もう、終わりに向かっている。
少女は、深く息を吸った。
終わりを知ることは、痛い。
眠れなくなるほど、胸が冷える。
けれど、知らなければ、始まりも分からない。
蝉が鳴かなくなった森で、少女は、初めて目を閉じた。
すぐには、眠れない。
けれど、逃げるために閉じた目ではなかった。
終わったことを、胸に入れるためだ。
しばらくして、風が吹く。
木々が揺れ、葉がこすれる。
蝉の声のない音が、夜を進める。
少女は、ゆっくりと、眠りに落ちた。
眠らないものが、役目を終えたあとで。
眠ることを、選び取るように。




