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影を飼う池

 夏のはじまり、少年の影は、少し遅れて動くようになった。

 朝、戸を開けて外へ出ると、身体はもう日向に立っているのに、影だけが敷居のあたりに残っている。呼び戻そうとして足を止めると、影は、思い出したように追いついてきた。

 最初は、気のせいだと思った。

 夏の光は強い。暑さで、目も頭もぼんやりする。影が遅れるくらい、あり得ないことではない。

 けれど、それは毎日続いた。

 歩き出せば、半歩遅れ。

 振り向けば、まだそこにいる。


 少年は、だれにも言わなかった。

 影のことを話すのは、なんとなく、約束を破るような気がしたからだ。何の約束かは分からない。ただ、胸の奥で、そう感じた。

 村の夏は、音が多い。

 蝉の声、川のせせらぎ、遠くで打つ鍋の音。昼と夜の境目が曖昧になり、時間が伸びたり縮んだりする。


 少年は、池へ向かった。

 森の奥にある、小さな池だ。春は水が澄み、秋は落ち葉が浮かぶ。夏になると、影が濃く映る。

 池の前に立つと、少年は息を止めた。

 水面に映る自分の影が、二つある。

 ひとつは、いつも通り、身体にぴたりと寄り添っている。もうひとつは、少し離れて、揺れていた。

 遅れていた影だ。

 水の上では、影ははっきりと分かれ、境目を持っていた。重なろうとせず、けれど、消えもしない。

「……おいで」

 小さく言う。

 影は、揺れただけで、近づかなかった。

 少年は、池の縁にしゃがみこむ。

 水は冷たい。指を入れると、夏の熱が、すっと引いていく。

 影は、水に触れない。

 けれど、水面の揺れに合わせて、かたちを変える。

 少年は、分かった気がした。

 この影は、離れたがっている。

 逃げたいわけではない。ただ、同じ動きをするのを、やめたがっている。

 そのことが、なぜか、怖くなかった。

 代わりに、胸の奥が、少しだけざわつく。

 池の周りには、誰もいない。

 蝉の声だけが、遠くで続いている。

 少年は、池に向かって言った。

「ここに、いてもいい?」

 問いかけは、影に向けたものだった。

 水面が、かすかに揺れる。

 影は、そこにとどまった。

 少年は、立ち上がる。

 歩き出すと、影はついてこない。池の縁に、残ったままだ。

 胸が、少しだけ軽くなる。

 同時に、別の重さが生まれる。

 これは、置いていく、ということだ。

 少年は、池を離れた。

 振り返らずに。

 影は、呼ばれなかった。

 けれど、捨てられたわけでもなかった。

 池の水面で、静かに揺れている。

 まるで、そこに棲むことを、選んだかのように。


 影を池に置いてから、少年の歩幅は少しだけ変わった。

 軽くなった、というほどではない。けれど、足が地面に触れるたび、余分な重さが減った気がした。立ち止まることも、迷うことも、以前より少なくなる。

 村の中で、少年はよく呼ばれるようになった。

「手伝ってくれないか」

 そう言われると、断らずに引き受ける。考えるよりも先に、身体が動く。以前なら、足元や周囲を確かめていた場面でも、ためらいが薄い。

 うまくいくこともあった。

 作業は早く終わり、大人たちは満足そうだった。

「助かったよ」

 そう言われるたび、胸の奥に、かすかな空洞ができる。

 それは、風の通り道のようなものだった。


 ある日、少年は池の近くを通りかかった。

 通るつもりはなかった。ただ、足が自然とそちらを向いた。

 木々の間を抜けると、池は、いつもと変わらない顔をしていた。

 水面は静かで、影をはっきりと映している。

 そこに、少年の影はなかった。

 代わりに、別の影がある。

 大きさも、かたちも、少年と同じ。けれど、動かない。

 水に溶けるように、そこにいる。

 少年は、池の縁に立った。

「……元気?」

 声をかけると、水面がわずかに揺れた。

 影は、揺れに合わせて形を変えるが、近づいてはこない。

 少年は、胸の空洞を意識した。

 この軽さは、影を置いたからだ。

 影は、重さだった。

 迷い、ためらい、立ち止まる時間。それらが、影の中にあった。

 池は、それを受け取った。

 だから、ここは、影を飼う池なのだ。

 そう理解すると、急に、暑さが増した気がした。

 夏の光が、鋭くなる。

 影が薄い場所では、光は容赦しない。

 少年は、目を細めた。


 その日の帰り道、村の端で、争いが起きていた。

 年上の子どもたちが、言い合いをしている。声は荒く、周囲の空気が張りつめている。

 少年は、足を止めた。

 以前なら、近づかなかっただろう。危ないことからは、距離を取っていた。

 けれど、今は違う。

 軽さが、背中を押した。

「どうしたの?」

 声をかけると、皆が振り向く。

「関係ないだろ」

 そう言われても、少年は引かなかった。

 間に立つ。

 言葉を選ばず、感情を測らず、ただ、止めようとした。

 その瞬間、胸の奥が、ひりついた。

 影が、ない。

 だから、距離が分からない。

 言葉が、刃になる。

 少年は、はっとする。

 争いは収まった。けれど、残ったのは、冷えた視線だった。

 少年は、その場を離れた。

 夕方の光の中、影は、短い。

 足元に、寄り添う影が、ひどく薄い。

 その夜、少年は眠れなかった。

 暗い天井を見つめながら、池の水面を思い出す。

 影は、そこにいる。

 けれど、自分の中には、もう、戻らない。

 そのことが、急に、怖くなった。


 夜が明けても、暑さは残っていた。

 少年は、朝早く家を出た。眠れなかった身体は重いはずなのに、足取りは妙に軽い。影は、相変わらず薄く、短い。

 池へ向かう道は、静かだった。

 蝉はまだ鳴いていない。風も弱く、空気が止まっている。

 池の前に立つと、少年は息を整えた。

 水面は、昨日よりも濃く影を映している。そこには、確かに、あの影がいた。

 少年の形をした影。

 けれど、よく見ると、少し違う。輪郭が、わずかに揺らいでいる。

「……帰りたい?」

 問いかけると、水面が波打つ。

 影は、初めて、はっきりと動いた。

 少年に近づこうとする。けれど、水の縁を越えられない。

 池は、影を飼う場所だ。

 勝手には、返さない。

 少年は、しゃがみこんだ。

 水に手を伸ばす。指先が、冷たさに触れる。

「全部、戻ってくる?」

 迷いも、ためらいも、怖さも。

 影は、答えない。

 代わりに、水面に、少年の顔が映る。そこには、軽さだけが残った目をした自分がいた。

 少年は、ゆっくりと息を吐いた。

 軽いままでは、測れないものがある。

 言葉の距離。

 相手の痛み。

 踏み出す前の、一瞬。

 それらは、重さがあってこそ、分かる。

「返して」

 静かに、そう言った。

 池は、すぐには応えなかった。

 風が吹き、木の葉が揺れる。水面がざわつき、影が歪む。

 やがて、池の底から、声がした。

「……また、置いていく?」

 それは、池の声だった。

 少年は、首を振る。

「今度は、ちゃんと、持つ」

 影は、ためらうように揺れる。

 池は、影を飼う。

 けれど、返すことも、知っている。

 水面が、大きく波打った。

 影が、縁を越える。

 少年の足元へ、戻ってくる。

 その瞬間、身体が、ずしりと重くなった。

 胸の奥に、空洞がなくなる。

 代わりに、熱と痛みが戻ってきた。

 少年は、目を閉じる。

 影は、影だった。

 捨てるものではなく、預けるものでもない。

 持って歩くものだ。

 目を開けると、足元に、はっきりとした影がある。

 濃く、揺れ、確かに寄り添っている。

 少年は、立ち上がった。

 歩き出す。

 影は、遅れない。

 同じ速さで、ついてくる。

 村へ戻る道は、相変わらず暑い。

 けれど、少年は、足元を見る。

 影を踏まないように。

 影を置き去りにしないように。

 夏の光の中、影は、静かに伸びていた。

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