花を踏まない約束
その子は、走るのが速かった。
村の中でも、森の中でも、だれよりも先に前へ出る。転んでも泣かず、転んだままでも前を見る。膝についた土や傷を、誇らしげに見せるような子だった。
春になると、その速さは、さらに目立った。
道ばたの草が伸び、花が咲きはじめると、ほかの子どもたちは足元を気にする。けれど、その子は違う。踏めば倒れる花よりも、先に行くことのほうが大事だった。
「また踏んだ」
そう言われても、気にしない。
「だって、戻らないし」
その子は、そう言って笑った。
花は、また咲く。踏まれても、折れても、春が来れば戻ってくる。だから、気にする必要はないのだと、本気で思っていた。
その日も、子どもたちは森の入口まで走った。
道の脇には、小さな白い花が並んでいる。だれかが気をつけて避け、だれかが踏まずに跳び、そして、その子は、迷わず踏み抜いた。
足の裏に、やわらかい感触。
けれど、次の一歩を出そうとしたとき、その子は止まった。
足元から、声がしたのだ。
「……いたい」
とても小さな声だった。
風の音かと思った。葉の擦れる音かもしれない。けれど、確かに、足の下から聞こえた。
その子は、ゆっくりと足をどける。
踏まれていた花は、折れたまま、こちらを向いていた。白い花びらが、土に触れている。
「きこえた?」
その子が言うと、花は、かすかに揺れた。
「いたい」
もう一度、同じ声。
その子は、息をのんだ。
花は、話さないものだと思っていた。咲いて、枯れて、また咲く。それだけの存在だと。
けれど、今は違う。
「……ごめん」
思わず、そう言っていた。
花は、それ以上何も言わなかった。
ただ、揺れるのをやめ、静かになった。
胸の奥が、ざわつく。
その子は、急に走る気をなくした。先へ行く理由が、見えなくなった。
ほかの子どもたちは、すでに森の中へ入っている。笑い声が、遠くから聞こえる。
その子は、花のそばにしゃがみこんだ。
折れた茎を、どうすればいいのか分からない。元に戻せないことだけは、はっきりしている。
「……どうしたらいい?」
問いかけると、花は、しばらく黙っていた。
やがて、弱い声で言う。
「ふまないで」
その言葉は、願いのようでもあり、約束のようでもあった。
その子は、うなずく。
「わかった」
理由は、まだ分からない。ただ、その言葉を、胸に入れた。
立ち上がり、足元を見る。
花は、たくさん咲いている。
今まで見えていなかった数の、多さ。
その子は、深く息を吸った。
そして、初めて、歩いた。
走らずに。
花を踏まないように。
それから、その子は走らなくなった。
正確には、走れなくなった、のかもしれない。足を出そうとすると、自然と地面を見るようになったからだ。土の色、草の向き、花の位置。今まで一瞬で通り過ぎていたものが、ひとつひとつ目に入ってくる。
歩くのは、遅い。
ほかの子どもたちは、すぐに先へ行ってしまう。呼ばれることもあった。
「はやく来いよ」
その声に、答えようとして、足が止まる。
踏まないで。
あの小さな声が、胸の奥で響く。
「先に行ってて」
そう言うと、相手は不思議そうな顔をしたが、すぐに走り去った。
ひとりになる。
そのことは、さみしいはずだった。けれど、その子の耳には、別の音が届いていた。
風に揺れる草の音。
虫の羽音。
そして、ときどき、花の小さな声。
すべてが話すわけではない。ただ、踏みそうになったときだけ、かすかに、何かが伝わってくる。
「そこ」
「ちょっとだけ」
「よけて」
言葉というより、合図に近い。
その子は、足の置き場を変える。
跳ぶこともある。遠回りをすることもある。急いでいたころなら、考えもしなかった動きだ。
村では、その変化に、すぐ気づく者がいた。
「最近、おとなしいね」
そう言われると、その子は肩をすくめる。
自分でも、どう説明していいか分からない。ただ、以前のように走ると、胸の奥がざらつくのだ。
ある日、森の中で、雨が降った。
細い雨だ。土の匂いが立ちのぼり、花びらに、水滴がたまる。
その子は、雨の中を歩いた。
足元は、さらに見えにくい。花も草も、濡れて倒れ、境目が分からなくなる。
慎重に、慎重に、足を運ぶ。
けれど、どうしても避けられない場所があった。
ぬかるみの中に、花が固まって咲いている。
どこを踏んでも、何かに触れてしまう。
その子は、立ち止まった。
胸が、きゅっと縮む。
「……ごめん」
小さく言ってから、そっと足を置く。
やわらかい感触。
けれど、あのときのような声はしなかった。
代わりに、別の声が届く。
「だいじょうぶ」
驚いて、足元を見る。
花は、雨に打たれながらも、静かに揺れている。
「え?」
思わず、声が出た。
「ちゃんと、見てくれたから」
その声は、弱いけれど、はっきりしていた。
その子は、息をのむ。
踏まないことだけが、約束じゃない。
見ようとすること。
迷うこと。
選ぶこと。
それらが、花にとっては、大切なのだと、初めて分かった。
雨が、少し強くなる。
その子は、空を見上げ、また歩き出した。
遅くてもいい。
間違えてもいい。
足を止めることを、覚えたから。
森の奥で、白い花が、静かに揺れていた。
それからしばらくのあいだ、その子は、みんなの後ろを歩くようになった。
先頭には立たない。競いもしない。ただ、足元を見ながら、静かに進む。ほかの子どもたちは、最初こそ不思議そうにしていたが、やがて気にしなくなった。
「遅いな」
そう言われることもある。
けれど、その子は急がなかった。
急ぐ理由が、もう、速さの中にはなかったからだ。
ある日、村の大人たちが、森の奥へ行くことになった。
木を切る場所を決めるためだ。子どもたちも、後ろについていく。森の中は、いつもよりにぎやかだった。
その子は、集団の端を歩いていた。
大人たちは、足元をあまり見ない。目的の場所へ行くことで、頭がいっぱいだ。踏み固められた道を外れると、花や草が密集している場所もある。
そのときだった。
前を歩いていた大人が、道を外れ、花の群れへ足を踏み入れようとした。
白い花だ。
あの日、声を聞いた花と、同じ種類。
その子の胸が、強く鳴った。
「まって」
思わず、声が出た。
大人が振り返る。
「どうした?」
その子は、言葉を探す。
花が泣く、とは言えない。踏まれると、いたい、とも言えない。
けれど、胸の奥には、確かな感覚があった。
「そこ……」
足元を指さす。
「たくさん、咲いてる」
大人は、地面を見た。
一瞬、困ったような顔をして、それから歩みを止める。
「ああ」
小さく、そう言って、道を戻った。
その一歩で、花は踏まれずにすんだ。
その子は、ほっと息を吐く。
その瞬間、胸の奥に、あの声が届いた。
「ありがとう」
小さく、けれど、はっきりと。
その子は、足元を見下ろした。
花は、何も言わず、ただ揺れている。けれど、その揺れ方が、どこかやわらかい。
歩き出すと、後ろから声がした。
「さっきの、よく気づいたな」
大人の声だ。
その子は、肩をすくめる。
「見てたから」
それだけだった。
走っていたころは、見えなかったもの。
速さの中では、聞こえなかった声。
それらは、立ち止まったときに、ようやく届く。
森を抜け、村へ戻る途中、その子は、また白い花の前で立ち止まった。
しゃがみこみ、そっと言う。
「ふまないよ」
花は、答えない。
けれど、その子には分かった。
約束とは、守り続けるものではない。
守ろうとし続けることだ。
その日から、その子は、道の真ん中ではなく、少し後ろや、少し端を歩くようになった。
速くはない。
けれど、足元を見ている。
花は、春が終わっても、そこに残る。
踏まれないことよりも、見られることを覚えて。
そして、その子は知った。
やさしさは、生まれつきのものではない。
立ち止まり、迷い、選び続けることで、少しずつ身につく、技術なのだと。




