表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/16

つばめ色の手紙

 春の終わり、少年の家には、毎朝一通の手紙が届いた。

 白い封筒に、細い紐。宛名は、いつも同じ字で書かれている。けれど少年は、その文字を読むことができなかった。

 少年は、字を知らない。

 正確には、知ろうとしても、頭の中で形がほどけてしまう。線が線として結びつかず、音にも意味にもならない。

 大人たちは「そのうち分かる」と言ったが、少年は、その「そのうち」が、どこにも見えないまま、春を迎えていた。

 手紙は、門の前に落ちている。

 気づくと、そこにある。誰が置いたのか、いつ来たのかは分からない。ただ、朝の光の中で、静かに待っている。

 少年は、それを拾い上げる。

 封筒は軽く、温度はない。中に入っているものが、紙一枚であることは、指先の感触で分かった。

 開けても、読めない。


 それでも少年は、毎朝、封を切った。

 紙を取り出し、じっと眺める。黒い線が並んでいる。その並び方が、日によって少しずつ違うことだけは、分かった。

 今日は、線が多い。

 昨日は、少なかった。

 それが、手紙の内容だと、少年は思っていた。

 読み終えると、紙を折り、封筒に戻す。そして、家の引き出しにしまう。引き出しの中には、すでに何通もの手紙が重なっていた。

 母は、何も言わない。

 手紙について聞かれることも、咎められることもなかった。母は、少年が文字を読めないことを、急がせなかった。

「分からないことがあるのは、悪いことじゃない」

 そう言って、パンを焼き、水を汲み、毎日を進めていく。


 ある朝、手紙を拾おうとしたとき、少年は気づいた。

 封筒のそばに、小さな影がある。

 見上げると、つばめが一羽、門の上にとまっていた。喉元に、青い色が差している。空の色を少しだけ濃くしたような、つばめ色。

 つばめは、少年を見ると、短く鳴いた。

 それは、挨拶のようにも、合図のようにも聞こえた。

 少年は、手紙を手にしたまま、立ち尽くす。

 つばめは飛び立たない。

 逃げもしない。

 まるで、手紙が読まれるのを、待っているかのようだった。

「……もしかして、これ、きみ?」

 少年は、つばめに向かって言った。

 名前ではない呼びかけ。

 つばめは、もう一度鳴いた。

 少年は、胸の奥が、少しだけ温かくなるのを感じた。

 読めない手紙。

 話さない鳥。

 それでも、何かが通じている気がした。


 その日、少年は、手紙を引き出しにしまわなかった。

 代わりに、胸の内側に、そっと置いた。

 文字の代わりに、重さとして。

 意味の代わりに、気配として。

 春の空で、つばめが低く円を描いた。

 その影が、手紙の上を、静かに横切っていった。


 次の日も、その次の日も、手紙は届いた。

 少年は、朝起きるとまず門へ向かう。地面を見下ろし、白い封筒を探す。

 それは、探すというより、確かめるに近かった。あると分かっているものを、もう一度見るための動作だった。

 つばめも、そこにいた。

 ときには門の上、ときには近くの木の枝。少年が外に出ると、必ずどこかで待っている。


 少年は、つばめに話しかけるようになった。

「きょうは、線が多い」

 返事はない。けれど、つばめは首をかしげたり、羽をすこし膨らませたりする。それだけで、会話は十分だった。

 少年は、手紙を胸に入れて歩く。

 村の道を抜け、森の入口まで行くのが、いつの間にか日課になっていた。

 森は、春から初夏へと変わりつつある。若い葉は色を深め、影は濃くなる。鳥の声も増え、足元の土は、乾いたところと湿ったところが入り混じっていた。

 少年は、森の中で手紙を取り出す。

 木の根元に座り、紙をひらく。文字は、相変わらず読めない。ただ、黒い線の流れが、前よりも、少しだけ違って見えた。

 これは、急いでいる。

 今日は、そう思った。

 理由は分からない。けれど、線の並びが、風のように速く感じられた。

 つばめが、少年の肩に降りる。

 軽い。

 羽の重さは、ほとんど感じられないのに、そこにいることだけは、はっきり分かる。

「これ、なに?」

 少年は、紙を持ち上げる。

 つばめは、紙ではなく、少年の顔を見た。

 その目は、小さくて黒く、空を映しているようだった。

 少年は、ふと気づく。

 自分は、答えを待っていない。

 分からなくてもいい。そう思っている。

 ただ、届けられていること。それだけで、十分なのだと。

 森の奥で、風が動いた。

 葉が揺れ、音が流れる。その中に、何か、聞き覚えのある気配が混じっていた。

 少年は、立ち上がる。

 足が、自然と進む方向があった。


 しばらく歩くと、一本の木が見えてくる。幹の中央に、白い札が結びつけられた木。文字も印もない札。

 少年は、その前に立ち止まった。

 つばめが、ひと鳴きする。

 少年は、胸の内側にしまっていた手紙を取り出す。

「ここ?」

 問いかけると、風が吹いた。札が、かすかに揺れる。

 少年は、分かった気がした。

 この手紙は、読まれるためだけのものじゃない。

 ここへ、運ばれるためのものなのだ。

 少年は、木の前に座り、手紙をひらいたまま、しばらく黙っていた。

 文字は、相変わらず、意味を持たない。けれど、線の重なりが、森の音と重なって、ひとつの流れのように感じられた。

 つばめは、少年の肩を離れ、木の枝へ移る。

 そして、じっと待つ。

 少年は、紙を折りたたみ、札のそばに、そっと添えた。

 預ける、というほど大げさではない。ただ、置く。

 すると、胸の奥が、少しだけ軽くなった。

 代わりに、別のものが残る。

 読めないけれど、分かっている、という感覚。

 森を出るころ、つばめは、もういなかった。

 けれど、少年は振り返らない。

 明日も、手紙は来る。

 そして、自分は、それを受け取る。

 読むためではなく、つなぐために。


 次の朝、門の前に、手紙はなかった。

 少年は、しばらく地面を見つめていた。昨日まで、そこにあるのが当たり前だった白い封筒が、今日はどこにも見当たらない。

 胸の奥が、少しだけ、きゅっと縮む。

 けれど、それは不安というほど強いものではなかった。予感に近い。いつか来ると、どこかで分かっていた朝が、静かに訪れただけだった。

 つばめも、いない。

 門の上にも、近くの枝にも、影は見えなかった。

 少年は、空を見上げる。

 春の終わりの空は、高く、風がよく通る。つばめの姿を探して、しばらく目を細めたが、黒い点は見つからなかった。

 その日、少年は森へ行った。

 手紙を持たずに歩くのは、少し久しぶりだった。胸の内側が軽く、その軽さに、まだ慣れない。

 森の入口で、足が止まる。

 来てもいいのだろうか。

 そんな考えが、ふと浮かぶ。

 けれど、森は何も変わらず、そこにあった。鳥は鳴き、葉は揺れ、土は踏めば音を立てる。

 少年は、歩き出した。

 あの木の前に立つと、白い札は、相変わらず何も書かれていなかった。

 少年は、幹に手を当てる。

 今日は、胸に入れるものがない。

 そのことを、木に伝えるように、しばらく黙って立っていた。

「もう、来ない?」

 誰にともなく、そう言った。

 風が吹く。

 札が、かすかに揺れる。

 それは、答えではなかった。けれど、否定でもなかった。

 少年は、地面に座る。

 ここで、何度も手紙をひらいた。読めない文字を眺め、つばめの影を感じ、森の音に耳を澄ませた。

 今日は、何もない。

 けれど、その「何もない」が、昨日までの時間を、はっきりと浮かび上がらせていた。

 少年は、気づく。

 手紙は、文字を教えに来たのではない。

 読めないままでも、受け取れるものがあると、教えに来たのだ。

 誰かの思い。

 運ばれてくること。

 つなぐこと。

 少年は、立ち上がり、木に向かって、深く息を吐いた。

「ありがとう」

 誰に言ったのかは、分からない。

 つばめかもしれないし、手紙かもしれないし、森そのものかもしれない。

 帰り道、空の高いところで、短い鳴き声がした。

 少年は立ち止まり、見上げる。

 一羽のつばめが、遠くを横切っていく。

 近づいては来ない。ただ、飛んでいく。

 少年は、手を振らなかった。

 代わりに、胸の内側に、あの日々を置いたまま、歩き出した。

 読めない文字の重さ。

 運ばれてきた時間。

 それらは、もう、どこへも行かない。


 その日の午後、少年は家の机に向かった。

 机の上には、紙と、鉛筆が一本置かれている。どちらも、いつも使っているものだ。けれど今日は、触れ方が少し違った。

 少年は、紙を前にして、しばらく動かなかった。

 書けないことは、分かっている。

 文字を並べようとすると、線はばらばらになり、音にも意味にもならない。それでも、今日は、紙をしまわなかった。

 鉛筆を持つ。

 指に、木の感触が伝わる。

 少年は、息をひとつ整え、紙に先を当てた。

 線を引く。

 それは、文字ではなかった。けれど、ためらいのない線だった。長さも、向きも、意味を持たないまま、紙の上を進んでいく。

 もう一本、線を引く。

 交わるところと、離れるところ。重なるところと、止まるところ。

 少年は、ふと思う。

 これは、知っている。

 手紙の中で、何度も見た流れだ。

 読めなかった線たちが、今、手の中から出てくる。形は違う。けれど、速さや、間の取り方が、どこか似ていた。

 少年は、何本も線を引いた。

 紙がいっぱいになるまで。

 それを、折りたたむ。

 封筒はない。宛名もない。それでも、これは手紙だと、少年は思った。


 夕方、少年は森へ行った。

 空は、少しずつ色を変え、春の終わりの匂いが濃くなっている。あの木は、変わらず、そこに立っていた。

 少年は、木の前に座る。

 そして、折りたたんだ紙を、札のそばに、そっと置いた。

 預ける、というより、返す。

 運ばれてきたものを、次へ渡すように。

「読めないけど」

 少年は、小さく言った。

「分かった」

 風が、葉を揺らす。

 札が、わずかに音を立てる。

 それだけだった。

 帰り道、空を見上げると、つばめが何羽も飛んでいた。

 高く、遠く、同じ方向へ。

 少年は、立ち止まり、しばらく見送った。

 つばめ色とは、あの喉元の青だけではない。

 空を渡るときの、速さ。

 迷わず進む線。

 届くと信じて、放たれるもの。

 少年は、歩き出す。

 文字は、まだ読めない。

 けれど、届くものがあることを、もう知っている。

 それを受け取り、手放すことも。


 翌朝、門の前に、何もなかった。

 けれど少年は、もう探さなかった。

 胸の内側には、確かな重みがある。

 読めない手紙と、つばめの影と、書けない線たち。

 それらは、春の終わりに、静かに結ばれた。

 そして、夏が来る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ