つばめ色の手紙
春の終わり、少年の家には、毎朝一通の手紙が届いた。
白い封筒に、細い紐。宛名は、いつも同じ字で書かれている。けれど少年は、その文字を読むことができなかった。
少年は、字を知らない。
正確には、知ろうとしても、頭の中で形がほどけてしまう。線が線として結びつかず、音にも意味にもならない。
大人たちは「そのうち分かる」と言ったが、少年は、その「そのうち」が、どこにも見えないまま、春を迎えていた。
手紙は、門の前に落ちている。
気づくと、そこにある。誰が置いたのか、いつ来たのかは分からない。ただ、朝の光の中で、静かに待っている。
少年は、それを拾い上げる。
封筒は軽く、温度はない。中に入っているものが、紙一枚であることは、指先の感触で分かった。
開けても、読めない。
それでも少年は、毎朝、封を切った。
紙を取り出し、じっと眺める。黒い線が並んでいる。その並び方が、日によって少しずつ違うことだけは、分かった。
今日は、線が多い。
昨日は、少なかった。
それが、手紙の内容だと、少年は思っていた。
読み終えると、紙を折り、封筒に戻す。そして、家の引き出しにしまう。引き出しの中には、すでに何通もの手紙が重なっていた。
母は、何も言わない。
手紙について聞かれることも、咎められることもなかった。母は、少年が文字を読めないことを、急がせなかった。
「分からないことがあるのは、悪いことじゃない」
そう言って、パンを焼き、水を汲み、毎日を進めていく。
ある朝、手紙を拾おうとしたとき、少年は気づいた。
封筒のそばに、小さな影がある。
見上げると、つばめが一羽、門の上にとまっていた。喉元に、青い色が差している。空の色を少しだけ濃くしたような、つばめ色。
つばめは、少年を見ると、短く鳴いた。
それは、挨拶のようにも、合図のようにも聞こえた。
少年は、手紙を手にしたまま、立ち尽くす。
つばめは飛び立たない。
逃げもしない。
まるで、手紙が読まれるのを、待っているかのようだった。
「……もしかして、これ、きみ?」
少年は、つばめに向かって言った。
名前ではない呼びかけ。
つばめは、もう一度鳴いた。
少年は、胸の奥が、少しだけ温かくなるのを感じた。
読めない手紙。
話さない鳥。
それでも、何かが通じている気がした。
その日、少年は、手紙を引き出しにしまわなかった。
代わりに、胸の内側に、そっと置いた。
文字の代わりに、重さとして。
意味の代わりに、気配として。
春の空で、つばめが低く円を描いた。
その影が、手紙の上を、静かに横切っていった。
次の日も、その次の日も、手紙は届いた。
少年は、朝起きるとまず門へ向かう。地面を見下ろし、白い封筒を探す。
それは、探すというより、確かめるに近かった。あると分かっているものを、もう一度見るための動作だった。
つばめも、そこにいた。
ときには門の上、ときには近くの木の枝。少年が外に出ると、必ずどこかで待っている。
少年は、つばめに話しかけるようになった。
「きょうは、線が多い」
返事はない。けれど、つばめは首をかしげたり、羽をすこし膨らませたりする。それだけで、会話は十分だった。
少年は、手紙を胸に入れて歩く。
村の道を抜け、森の入口まで行くのが、いつの間にか日課になっていた。
森は、春から初夏へと変わりつつある。若い葉は色を深め、影は濃くなる。鳥の声も増え、足元の土は、乾いたところと湿ったところが入り混じっていた。
少年は、森の中で手紙を取り出す。
木の根元に座り、紙をひらく。文字は、相変わらず読めない。ただ、黒い線の流れが、前よりも、少しだけ違って見えた。
これは、急いでいる。
今日は、そう思った。
理由は分からない。けれど、線の並びが、風のように速く感じられた。
つばめが、少年の肩に降りる。
軽い。
羽の重さは、ほとんど感じられないのに、そこにいることだけは、はっきり分かる。
「これ、なに?」
少年は、紙を持ち上げる。
つばめは、紙ではなく、少年の顔を見た。
その目は、小さくて黒く、空を映しているようだった。
少年は、ふと気づく。
自分は、答えを待っていない。
分からなくてもいい。そう思っている。
ただ、届けられていること。それだけで、十分なのだと。
森の奥で、風が動いた。
葉が揺れ、音が流れる。その中に、何か、聞き覚えのある気配が混じっていた。
少年は、立ち上がる。
足が、自然と進む方向があった。
しばらく歩くと、一本の木が見えてくる。幹の中央に、白い札が結びつけられた木。文字も印もない札。
少年は、その前に立ち止まった。
つばめが、ひと鳴きする。
少年は、胸の内側にしまっていた手紙を取り出す。
「ここ?」
問いかけると、風が吹いた。札が、かすかに揺れる。
少年は、分かった気がした。
この手紙は、読まれるためだけのものじゃない。
ここへ、運ばれるためのものなのだ。
少年は、木の前に座り、手紙をひらいたまま、しばらく黙っていた。
文字は、相変わらず、意味を持たない。けれど、線の重なりが、森の音と重なって、ひとつの流れのように感じられた。
つばめは、少年の肩を離れ、木の枝へ移る。
そして、じっと待つ。
少年は、紙を折りたたみ、札のそばに、そっと添えた。
預ける、というほど大げさではない。ただ、置く。
すると、胸の奥が、少しだけ軽くなった。
代わりに、別のものが残る。
読めないけれど、分かっている、という感覚。
森を出るころ、つばめは、もういなかった。
けれど、少年は振り返らない。
明日も、手紙は来る。
そして、自分は、それを受け取る。
読むためではなく、つなぐために。
次の朝、門の前に、手紙はなかった。
少年は、しばらく地面を見つめていた。昨日まで、そこにあるのが当たり前だった白い封筒が、今日はどこにも見当たらない。
胸の奥が、少しだけ、きゅっと縮む。
けれど、それは不安というほど強いものではなかった。予感に近い。いつか来ると、どこかで分かっていた朝が、静かに訪れただけだった。
つばめも、いない。
門の上にも、近くの枝にも、影は見えなかった。
少年は、空を見上げる。
春の終わりの空は、高く、風がよく通る。つばめの姿を探して、しばらく目を細めたが、黒い点は見つからなかった。
その日、少年は森へ行った。
手紙を持たずに歩くのは、少し久しぶりだった。胸の内側が軽く、その軽さに、まだ慣れない。
森の入口で、足が止まる。
来てもいいのだろうか。
そんな考えが、ふと浮かぶ。
けれど、森は何も変わらず、そこにあった。鳥は鳴き、葉は揺れ、土は踏めば音を立てる。
少年は、歩き出した。
あの木の前に立つと、白い札は、相変わらず何も書かれていなかった。
少年は、幹に手を当てる。
今日は、胸に入れるものがない。
そのことを、木に伝えるように、しばらく黙って立っていた。
「もう、来ない?」
誰にともなく、そう言った。
風が吹く。
札が、かすかに揺れる。
それは、答えではなかった。けれど、否定でもなかった。
少年は、地面に座る。
ここで、何度も手紙をひらいた。読めない文字を眺め、つばめの影を感じ、森の音に耳を澄ませた。
今日は、何もない。
けれど、その「何もない」が、昨日までの時間を、はっきりと浮かび上がらせていた。
少年は、気づく。
手紙は、文字を教えに来たのではない。
読めないままでも、受け取れるものがあると、教えに来たのだ。
誰かの思い。
運ばれてくること。
つなぐこと。
少年は、立ち上がり、木に向かって、深く息を吐いた。
「ありがとう」
誰に言ったのかは、分からない。
つばめかもしれないし、手紙かもしれないし、森そのものかもしれない。
帰り道、空の高いところで、短い鳴き声がした。
少年は立ち止まり、見上げる。
一羽のつばめが、遠くを横切っていく。
近づいては来ない。ただ、飛んでいく。
少年は、手を振らなかった。
代わりに、胸の内側に、あの日々を置いたまま、歩き出した。
読めない文字の重さ。
運ばれてきた時間。
それらは、もう、どこへも行かない。
その日の午後、少年は家の机に向かった。
机の上には、紙と、鉛筆が一本置かれている。どちらも、いつも使っているものだ。けれど今日は、触れ方が少し違った。
少年は、紙を前にして、しばらく動かなかった。
書けないことは、分かっている。
文字を並べようとすると、線はばらばらになり、音にも意味にもならない。それでも、今日は、紙をしまわなかった。
鉛筆を持つ。
指に、木の感触が伝わる。
少年は、息をひとつ整え、紙に先を当てた。
線を引く。
それは、文字ではなかった。けれど、ためらいのない線だった。長さも、向きも、意味を持たないまま、紙の上を進んでいく。
もう一本、線を引く。
交わるところと、離れるところ。重なるところと、止まるところ。
少年は、ふと思う。
これは、知っている。
手紙の中で、何度も見た流れだ。
読めなかった線たちが、今、手の中から出てくる。形は違う。けれど、速さや、間の取り方が、どこか似ていた。
少年は、何本も線を引いた。
紙がいっぱいになるまで。
それを、折りたたむ。
封筒はない。宛名もない。それでも、これは手紙だと、少年は思った。
夕方、少年は森へ行った。
空は、少しずつ色を変え、春の終わりの匂いが濃くなっている。あの木は、変わらず、そこに立っていた。
少年は、木の前に座る。
そして、折りたたんだ紙を、札のそばに、そっと置いた。
預ける、というより、返す。
運ばれてきたものを、次へ渡すように。
「読めないけど」
少年は、小さく言った。
「分かった」
風が、葉を揺らす。
札が、わずかに音を立てる。
それだけだった。
帰り道、空を見上げると、つばめが何羽も飛んでいた。
高く、遠く、同じ方向へ。
少年は、立ち止まり、しばらく見送った。
つばめ色とは、あの喉元の青だけではない。
空を渡るときの、速さ。
迷わず進む線。
届くと信じて、放たれるもの。
少年は、歩き出す。
文字は、まだ読めない。
けれど、届くものがあることを、もう知っている。
それを受け取り、手放すことも。
翌朝、門の前に、何もなかった。
けれど少年は、もう探さなかった。
胸の内側には、確かな重みがある。
読めない手紙と、つばめの影と、書けない線たち。
それらは、春の終わりに、静かに結ばれた。
そして、夏が来る。




