番外編 はじめての春
森は、冬の眠りから目を覚ます。
冬の寒さに閉ざされていた世界が、少しずつ動き出す。
雪は溶け、枯れた枝や葉に残るしずくは、ゆっくりと土に落ちていく。
冷たい風が吹き抜け、まだ凍てついた大地を撫でるが、その冷たさの中に、確かに春の気配が忍び寄っている。
流れは凍っていた時の記憶を抱え、かすかな光を反射しながら、再び動き出す。
その流れに触れた風は、まだ冷たいけれど、どこかやわらかさを帯びて、森の奥まで届く。
春が戻ってくる。
誰も、その変化に気づくわけではない。
森の中で生きた子どもたちのうち、まだ戻っていない者もいる。
けれど、森は知っている。
すべての〈しるし〉は、土の中、風の中、雨の音や落ち葉の間に、静かに溶け込んでいることを。
かつて息を集めた少年の吐息は、森の空気に混ざり、雪の下に地図を残した少女の記憶も、ゆっくり溶けていく。
雨の季節に生まれた子の存在は、雨の中の匂いとして、村の外にいた子の一日は、丘の風として、森に残る。
そして、何も刻まなかった子は、影のように森に歩きながら、森の奥で確かに息をしていた。
その息が、冬の名残を少しずつ解きほぐし、春の訪れとともに新たなリズムを生み出していく。
森の中で、それぞれの存在は、互いに交わり、静かに響き合う。
春の到来は、ただ季節の変化ではない。
それは、森が過去のすべてを引き受け、再び循環させる始まりの瞬間だ。
木々の芽が膨らみ、土の匂いが立ち、光が森の奥まで差し込む。
枝に溜まった雪のかけらが一つずつ解け、ぽたり、ぽたりと音を立てる。
鳥たちは、低く、しかし確かな歌を歌い、枝の先で小さな葉が揺れる。
小川の水面は、光を反射し、流れる音は、森の息遣いのように、静かに、そして確かに響く。
過去に歩いた者たちは、それぞれが、自分の時間を取り戻す。
息を集めた少年は、森の奥で、深く息を吸い込み、吐く。その息は、雪の名残に触れ、やがて消える。
少年が歩んだ道の端に、僅かに残った足跡は、もう消えかけているが、その場に残された空気の震えは、森の深層で静かに共鳴している。
少女は、雪の下に隠した地図を思い出し、微かに笑う。
地図の線は消えたように見えるが、森の記憶の中で、確かに存在している。
少女が描いた小さな印や、彼女が足を止めて感動した風景の一つ一つが、今も森の片隅で息づいている。
雨の季節に生まれた子は、静かに歩き、雨上がりの土の匂いを胸に吸い込む。
雨の季節の匂いは、春の風と交わりながら、体の中で新たな思い出を作り始める。
その匂いが、ゆっくりと村の外にあった一日の記憶と重なり、子どもはその中で安らぎを感じる。
村の外にいた子は、一日を抱きしめ、何度も深呼吸しながら、丘から見えた森の輪郭を思い出す。
その輪郭は、今も心の中でくっきりと残り、春の光の中でその形を変えていく。
何も刻まなかった子は、影のように森を通り抜け、誰にも知られず、けれど森の一部となっている。
影の子は、足音を立てずに歩き、風に溶け込み、木々に隠れながらその存在を過ごしていく。
そして、その足跡のない歩みは、森にとって唯一無二の静けさを生んでいる。
森の時間は、人の時間とは異なる。
直線ではなく、層になり、循環する。
昨日と今日と明日が、同時に存在する。
選ばなかった道も、迷った時間も、語られなかった言葉も、森の中では、すべてが重なり合い、溶け合う。
時間が重なることで、そこに存在したすべての記憶が、かけがえのないものとして結びついていく。
森は、それを静かに見守り、すべての歩みを引き受ける。
そして、森の奥で、冬を越えた水が、ゆっくりと流れ始める。
凍っていた小川は、光を反射しながら、音を立てずに進む。
小さな水しぶきが葉に触れ、枝の間を流れる水が、ひとときの清らかな音を奏でる。
風は、枝や葉を揺らし、森の奥の空気を撫でる。
この音も匂いも、森の記憶として、再び循環する。
過去の季節が、そのまま春の中で再生され、子どもたちの姿がその中に溶け込む。
子どもたちは、春を迎え、立ち止まり、そっと息を吐く。
白い息は、空気に溶け、再び森の一部になる。
森の中での一呼吸が、どれほど大きな意味を持つかを、子どもたちはまだ知らない。
けれど、森はそのすべてを見守り、答えを与えることなく、ただ通す。
迷った者も、立ち止まった者も、選ばなかった者も、通り抜けた者も。
すべてが、春の一歩を踏み出すために。
森の時間は、ゆっくりと、人々の歩みと呼吸に合わせて流れる。
その時間は、決して急ぐことなく、静かに流れていく。
そして、森の中のすべての〈しるし〉が、互いを照らし出す。
雪の下の地図、雨の季節の子、丘にいた子、影の子。
そのすべてが、今ここで、森の中に共存している。
春の匂いが、風とともに広がる。
森の中では、終わりも始まりも、分かれてはいない。
長い冬を越えたものも、まだ歩き始めたばかりの者も、誰も置き去りにはされない。
春は、森の中で、もう一度、はじめてのように、訪れる。
子どもたちは、森の息遣いの中で、それを感じる。
長く続いた季節が、静かに、循環する。
森は微笑むようにざわめき、すべての〈しるし〉が、再び芽吹く準備をする。
そして、森の中で、はじめての春は、静かに、確かに、何度でもやってくる。




