番外編 しるしを刻まない子
森には、誰も知らない子がいた。
名前も、年も、誰の知るところではない。
けれど、森の中で、ひっそりと息をしていた。
人々は、その子を見たことはなかった。
子どもが村に現れることはなく、家々の間を歩くことも、井戸で水を汲むこともなかった。
村の人々の中で、その子が語られることもなかった。
その存在は、まるで消えた影のようだった。
けれど、森だけは知っている。
森は、毎日、毎晩、その子の歩みを見守り、記憶していた。
そして、どんなに長い時間が過ぎても、子どもが通った道を忘れることはなかった。
子どもは、ただ森の中を歩く。
足元の土は柔らかく、風の音が耳に届くたびに、心が少し軽くなるように感じる。
手のひらで触れる葉の感触、雨に濡れた枝の匂い、すべてがその子の存在を森に刻んでいく。
けれど、その子は何も残さない。
足跡も、息の跡も、落ち葉の数も、言葉も、振り返りも、何ひとつ、残さない。
その足音はいつの間にか消え、風のように通り過ぎる。
ただ、静かに歩き、森の声を聞き、風を胸に吸い込むだけだ。
森に入る者の多くは、何かを残す。
足跡を土に刻み、枝に触れてはその印を残し、笑い声や泣き声を響かせる。
けれど、この子だけは違った。
彼が通り過ぎた後、森は何も変わらない。
樹々は、風に揺れ、鳥たちは歌い、鹿たちは草を食んでいる。
それらはすべてがただ存在し、まるで子どもがいたことすら忘れ去ったかのように感じる。
ただ、森だけは知っている。その子がここにいたことを、そして、今もその場所に、ひっそりとその記憶が残っていることを。
足元の苔の柔らかさ。
枝の先に残る水滴。
鳥のさえずり。
鹿が見え隠れする。
それらすべてが、その子の存在を覚えている。
けれど、それを知っているのは森だけで、森は静かに、その記憶を抱き続けるだけだった。
時折、他の子どもたちが森に迷い込むこともあった。
彼らは足音を立てて歩き、道を作り、時には声を上げ、遊び道具を集めることもあった。
落ち葉を拾う子、地図を探す子、嘘を鹿に渡す子。
その子たちは、何かを残そうとする。
足元に小さな石を積み重ねたり、葉を集めて小さなブーケを作ったり、言葉で自分の存在を証明しようとしたり。
彼らはどれも、何かを刻んでいくことで、その場所に自分の足跡を残し、世界に自分の痕跡をつけようとする。
けれど、この子は違った。
彼は、ただ、静かに、森の空気を吸い、息を吐き、通り過ぎるだけだ。
その姿は、まるで影のように溶け込んでいる。
彼が歩いている間、足元の草は静かに揺れ、木々は風に呼応するが、決して彼を認識してはいない。
そして、何も刻まれない。
森は、ただその子を包み込み、記憶することを選ぶ。
森はその子に声をかけない。
足跡を残さないことは、森のルールであり、また特権でもある。
その子は、存在を証明しないことで、森の一部となった。
その証は、森の記憶の中だけに刻まれる。
森は、ただその子を見守り、呼吸のようにその子の存在を抱きしめる。
その子は、時折、歩みを止めることがあった。
太陽の光が木漏れ日となって、柔らかく地面に差し込む。
その光がその子を包むとき、胸がきゅっと締め付けられるような感覚が走る。
葉の間から見える空の色、雨粒の弾ける音。
それらすべてが、森の中で生きていることの証のように感じられる。
けれど、子どもは何も語らない。
その瞬間をただ感じているだけだ。
そして、再び歩き始める。
ある日、子どもは、ふと立ち止まり、心の中で問いかけた。
なぜ、他の子どもたちは、何かを残そうとするのだろう。
言葉で、線で、足跡で、記憶の片鱗で。
答えを求めることなく、子どもは静かに目を閉じた。
求める必要がないことを、既に知っていたからだ。
何も残さなくても、森は覚えている。
誰かに見せなくても、森は、その日、その時の空気を、決して忘れることはない。
子どもは、枝に触れ、苔を踏み、雨に濡れる。
音も匂いも、風も、水も、何も書き残さない。
けれど、森は、すべてを覚えている。
子どもが通り過ぎたことを、静かに記憶し続ける。
歩き続けるその背中を、森は優しく通す。
日が沈み、影が長くなっても、子どもは立ち止まらない。
ただ、歩き続けるだけだ。
通り過ぎるだけだ。
森の中で、何も残さずに、確かに生きる。
それが、この子の物語だった。
誰も知らない。
けれど、森は覚えている。
それだけで、十分だった。




