番外編 村の外にある一日
村のはずれに、小さな丘があった。
その丘は、村の人々にとっても、あまり馴染みのある場所ではない。いつも誰かが通るわけでもなく、ただ、静かに風が吹き抜けるだけの場所だった。丘に登るための道は、あまり整備されていない。村の道と違って、雑草が生い茂り、何度も足を踏み外すような場所もあった。けれど、それでも子どもは迷わず、その丘へ向かった。
村の家々や井戸、道を一度も振り返らずに、まっすぐに丘へ向かう。
歩くうちに、村の喧騒は次第に遠くなり、静けさが広がっていく。
木々の間を抜けると、丘の上に到達した。子どもは、そこで足を止め、風景を見渡した。
空が広く、村の屋根が小さく、整然と並んでいるのが見える。
道は、ゆるやかに曲がりくねりながら、どこか遠くの森に続いているようだった。
その景色を眺めていると、村の中では感じられなかった広がりが、胸の中に広がるようだった。
丘に腰を下ろすと、子どもは両手で膝を抱え、目を閉じて深く息を吸った。
日差しは柔らかく、風がそっと髪を撫でる。
鳥の声が、遠くでさえずり、空気の中に溶けていく。
村の中では、誰も気に留めない日常の音も、丘の上では特別に感じられる。
牛の鈴の音。
鍛冶屋のハンマーの軽い打音。
誰かの笑い声。
それらすべてが、ひとつの時間として、子どもの中に流れ込む。
子どもは静かに目を開け、丘の上の世界と、自分とが、少しだけ溶け合っているような感覚を味わった。
ここでは、何も急ぐことはない。
誰も、何も、求めていない。ただ、静かな時間が流れている。
森の中で迷った子たちのように、ここには選ばなかった道も、迷いも、残されていない。
ただ、この一日があるだけだ。
丘の上では、時の流れが、まるで水のように滑らかで、深く感じられる。
空気の匂いが、土の匂いが、遠くで揺れる葉の匂いが、すべてがひとつになって、子どもの体に染み込んでいく。
目に見えないものも、耳に届かないものも、体全体で感じることができる。
ここでは、すべてが、自分の時間だ。
森の奥で足を止める者の時間とは違う。
そこには、迷いも、記憶の重さも、置いていける。
それを感じるたび、子どもは小さく笑みを浮かべた。
昼が過ぎ、日差しが少し傾く。
影が長くなる。
遠くの森の端に、うっすらと風が揺れるのが見えた。
村の外にある、この一日も、森の時間と、ほんの少しだけ重なっている。
誰も気づかないけれど、確かに、重なっている。
村では、誰もが日々の忙しさに追われているけれど、丘の上では、時間がゆっくりと流れ、風景が静かに変わり続ける。
子どもは、立ち上がり、ゆっくりと歩き始める。
坂を下り、草の香りを踏みしめ、道の端を辿る。
村に戻る道は、どこまでも続く。けれど、この日、この瞬間の道だけは、自分のものだ。
誰かの足跡に惑わされず、森のしるしに導かれることもなく、ただ、自分の足で進む。
その足取りが、世界の中で唯一無二のものに感じられる。
静かな一日が、子どもの中に深く刻まれていく。
この一日が、何ものにも替えられない、自分だけの時間だと確信しながら、歩みを進める。
ふと、空を見上げると、雲が流れ、日差しが少し赤く染まっている。
明日も、森に入るかもしれない。けれど、今日は、この丘の上で感じたすべてを大切に抱きしめる。
帰る道の途中、子どもは、丘を振り返ることなく、ただ歩き続けた。
その背中には、確かな誇りと、少しだけ満ち足りた気持ちが漂っていた。
村の外にあるこの一日は、今日しかない。
そして、この一日は、森の記憶の一部として、そっと残るのだろう。
今日という一日が、未来のどこかで、もう一度、森の奥に響くことを、子どもはどこかで感じていた。
その日、森の時間と、村の時間は、ほんの少しだけ交わった。
けれど、交わったことに気づいたのは、子どもだけだった。
風が静かに丘を抜けて、森と村の間を通り抜けていく。
それは、森の声でもなく、村の声でもなく、ただ、ここにある時間の証だった。
子どもは、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
そして、ひとり、歩みを続けた。




