森が春を思い出すとき
森は、ずっと、覚えていた。
けれど、それを、思い出す必要はなかった。
雪が降るあいだ、森は、静かだった。
止まっているように見えて、実際には、何も止まっていない。
根は、土の下で、水を探し、石を避け、わずかに、位置を変えている。
獣は、姿を消し、気配だけを残す。
人の足音は、減り、代わりに、雪の重さが、時間を刻む。
それが、冬だ。
森は、冬を、知っている。
何度も、越えてきた。
それでも、毎年、少しずつ、違う。
今年の冬は、〈しるし〉が、多かった。
白い息。
数えられない落ち葉。
嘘を食べる鹿。
遠雷の向こうの町。
夜長の窓辺。
それらは、出来事としては、ばらばらだ。
けれど、森にとっては、同じ層にある。
すべて、人が、立ち止まった場所。
人が、「分からないまま、生きること」を選んだ場所だ。
森は、人を、導かない。
答えを、与えない。
ただ、通す。
迷う者も。
戻る者も。
選ばなかった者も。
森は、すべてを、同じように、通してきた。
雪の下で、地図が、眠っている。
息を集める者が、今日も、歩いている。
語らなかった話が、誰かの胸に、引き渡された。
それらは、まだ、ひとつには、なっていない。
けれど、重なり始めている。
森は、その重なりを、感じ取る。
それは、音ではない。
匂いでもない。
もっと、遅いものだ。
時間が、少しだけ、緩む感覚。
森の奥で、凍っていた水が、わずかに、ゆるむ。
昼と夜の境目が、ほんの少し、ずれる。
誰も、気づかないほどの変化。
それでも、森は、知っている。
これは、始まりだ。
終わりの、続きとしての。
森は、春を、思い出そうとしている。
思い出す、という言い方は、正確ではない。
忘れていたわけではないからだ。
ただ、今は、冬だった。
それだけのこと。
人は、季節を、名前で呼ぶ。
冬。
春。
始まりと、終わりを、分けて考える。
けれど、森にとっては、すべてが、続きだ。
雪の下の地図も。
白くなる息も。
語られた話も、語られなかった話も。
どれも、春へ向かう途中にある。
森は、まだ、何も、変えない。
ただ、待つ。
人が、もう一度、歩き出すのを。
自分の足で。
選びながら。
迷いながら。
森は、春を、思い出す。
ゆっくりと。
確実に。
森の中では、時間が、ひとつずつ進むとは限らない。
同じ場所に、違う季節の気配が、重なっていることがある。
雪の下に、落ち葉の感触が残り、さらにその下に、乾いた土の匂いがある。
それらは、順番に消えたのではない。
ただ、層になった。
今年の冬、森には、いくつもの層ができた。
白い息が、立ちのぼる場所。
数えられなくなった落ち葉が、足元を覆った場所。
嘘を食べる鹿が、静かに立ち止まった場所。
遠雷の向こうに、町が見えた場所。
夜長の窓辺で、語られなかった話が、胸に置かれた場所。
そして、雪の下に、地図が眠る場所。
それぞれは、別の出来事だ。
別の人が、別の理由で、そこに立っていた。
けれど、森にとっては、すべて、同じだ。
人が、歩みを止め、考え、息をしていた場所。
森は、そこを、覚えている。
覚える、というのも、正確ではない。
刻まれる、と言ったほうが、近い。
足跡のように、深くは残らない。
けれど、完全に消えることもない。
ある日、息を集めていた少年が、森の奥で、立ち止まる。
白い息を吐き、それを、目で追わず、胸で感じる。
その近くで、少女が、雪の下に、何かがあることに、気づく。
二人は、互いを、知らない。
けれど、同じ冷たさを、共有している。
森は、それを、ひとつの層として、受け取る。
別の日、鹿が、森を横切る。
その口に、嘘が、ひとつ、運ばれる。
言葉にならなかった言葉。
軽く扱われた約束。
鹿は、それを、静かに食べる。
森は、血の匂いではなく、言葉の重さを、感じ取る。
また、別の時間。
雷の音が、遠くで、鳴る。
少年は、森の端で、立ち止まり、見えない町を、見ようとする。
行きたい、という気持ちだけが、はっきりしている。
森は、その視線の向こうに、まだ、名付けられていない道があることを、知っている。
夜が、長くなる。
語り部は、窓辺に座り、語らなかった話を、胸から取り出す。
言葉にしなかった選択。
戻ったこと。
戻らなかった可能性。
それらは、声にならないまま、森へ流れる。
森は、それを、拒まない。
語られたものも、語られなかったものも、同じように、受け取る。
これらは、ひとつひとつでは、小さい。
季節を変えるほどの力は、ない。
けれど、重なり合うと、違ってくる。
森の奥で、凍っていた水が、さらに、わずかに、動く。
音は、しない。
誰も、気づかない。
それでも、確かに、変化は、起きている。
森は、人の感情を、理解しない。
悲しみや、後悔や、希望を、区別しない。
けれど、人が、そこに立ち、息をし、迷ったことは、分かる。
それだけで、十分だ。
森は、答えを、結ばない。
ただ、層を、重ねる。
選ばれた人生も。
選ばれなかった人生も。
止まった時間も。
続いた時間も。
それらが、同じ場所に、存在できるように。
雪は、まだ、地面を覆っている。
だが、その下で、重なった層が、ゆっくりと、春の形を取り始めている。
人は、時間を、前へ進むものだと考える。
昨日があり、今日があり、明日が来る。
戻ることはできない。
やり直すことも、基本的には、できない。
だから、人は、選ぶ。
選び、進み、振り返る。
森は、違う。
森の時間は、前へも、後ろへも、同じように、広がっている。
春は、夏の前にあり、同時に、冬の後にもある。
終わりは、始まりの反対側ではない。
隣に、並んでいる。
この冬、森を歩いた人々は、それぞれ、人の時間を生きていた。
息を集める少年は、昨日の自分と、今日の自分を、比べていた。
感情が、戻ったのかどうか。
生きていると言えるのかどうか。
少女は、雪の下の地図を見て、選ばなかった人生を、数えていた。
数えきれないものを、数えようとしていた。
語り部は、過去を、言葉にするかどうかで、迷っていた。
雷の町を見た少年は、外へ行く未来と、ここに残る未来を、天秤にかけていた。
鹿に嘘を渡した少女は、言葉が戻らないことを、初めて、知った。
落ち葉を数えた子は、数えられないものが、あることを、覚えた。
それぞれが、違う時間を、生きている。
前へ進もうとする時間。
立ち止まる時間。
戻りたいと願う時間。
森は、それらを、区別しない。
同じ場所に、同時に、置く。
人が立ち止まった場所では、時間が、少しだけ、ゆるむ。
息を吐いた場所では、空気が、その形を、覚える。
選ばなかった道の上では、雪が、少し、薄くなる。
それらは、目には、見えない。
けれど、森の中では、確かに、起きている。
森は、時間を、結び直す。
昨日と今日を、結ぶ。
今日と明日を、結ぶ。
選ばなかった過去と、これからの一歩を、結ぶ。
その結び目は、固くない。
ほどける。
また、結ばれる。
人が、呼吸をするたびに。
森の奥で、雪解け水が、さらに、動く。
凍っていた流れが、完全に戻るには、まだ、時間がかかる。
けれど、方向は、決まった。
止まっていたものが、再び、巡り始めている。
森は、人に、気づかせない。
変化は、いつも、小さい。
昨日より、ほんの少し、空気が、やわらかい。
息が、わずかに、長く続く。
それだけだ。
それで、十分だ。
人は、気づかないまま、次の季節へ、足を運ぶ。
自分で選んだつもりで。
迷いながら。
森は、そのすべてを、通す。
時間を、ほどいたまま。
次に、結ぶために。
森の雪が、少しずつ、溶け始めた。
白さの下で、土の匂いが、ふわりと立ちのぼる。
水音が、かすかに、響く。
凍っていた流れは、再び、動き出す。
森は、春を、思い出す。
思い出す、というよりも、再び、生き始める。
雪の下に隠れていた地図の線も、息の跡も、落ち葉も、嘘も、雷も。
すべてが、ひとつの層として、重なりながら、春へと溶けていく。
少年も、少女も、語り部も、鹿も、落ち葉を数えた子も。
それぞれが、歩んできた道は、森の中で、静かに結び直される。
誰も、気づかないままに。
森は、答えを与えない。
けれど、すべてを、通している。
迷った者も、戻った者も、選ばなかった者も、歩き続ける者も。
すべてが、春の一歩へと導かれていく。
雪が消え、土の色が、少しずつ見え始める。
葉が芽吹き、枝が揺れる。
風は、冷たくもなく、暖かくもない。
ただ、やさしく、森の奥を撫でる。
森は、ここに立つすべての者の時間を、循環させる。
昨日と今日と明日が、同時にある。
終わりは、始まりの隣にある。
森は、気づく者だけに、見せる。
雪解けの水面に、光が映る。
それを見た者は、少し、足を止める。
迷いを抱えながらも、歩き出す。
森の中で、季節は、静かに、循環を始めた。
春の匂いが、風とともに運ばれる。
森は、笑うように、ざわめく。
すべての〈しるし〉が、ひとつになったわけではない。
それでも、循環は、始まった。
終わりと始まりの間に、静かで確かな歩みがある。
森は、その歩みを、祝福する。
雪が消え、風が枝を揺らし、森の中に、ほんの少しの光が差す。
春が、ここに、戻ってきた。




