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雪の下の地図

 少女は、迷子になったことを、すぐには認めなかった。

 森に入ったとき、道は、確かにあった。

 雪の上に、うっすらと踏み固められた線が続いていたし、木々の間にも、抜け道のような空間が見えていた。

 それが、少しずつ、曖昧になった。

 白さが増し、音が減り、距離の感覚が、狂い始めた。

 気づいたときには、どこを見ても、同じだった。

 少女は、足を止めた。

 息を吐くと、白くなる。

 それを見て、少しだけ、安心する。

 まだ、生きている。

 けれど、それだけでは、道は分からない。

 少女は、振り返った。

 足跡が、ひとつ、そこにある。

 自分のものだ。

 それが分かるだけで、心が、少し、軽くなる。

 その足跡を、たどろうとした。

 一歩、戻る。

 もう一歩。

 けれど、足跡は、そこから先へ、続いていなかった。

 雪が、降っている。

 強くはない。

 だが、確実に、痕跡を消していく降り方だった。

「……さっき、通ったのに」

 声に出すと、森に吸い込まれた。

 返事は、ない。

 少女は、足跡の横に、新しい足跡をつけた。

 比べる。

 同じ大きさ。

 同じ形。

 それなのに、さっきの自分は、ここにいなかったような気がする。

 少女は、胸の奥が、ひやりとするのを感じた。

 迷子になる、というのは、場所を失うことではない。

 「ここに来たはずだ」という確信が、揺らぐことだ。

 少女は、歩き出した。

 右へ。

 しばらく進んで、止まる。

 左へ。

 同じくらい進んで、止まる。

 どちらも、違う気がした。

 けれど、戻っても、正しい気はしない。

 少女は、立ち尽くした。

 選ぶ、ということが、急に、重くなる。

 少女は、昔から、選択が苦手だった。

 選べば、その瞬間に、選ばなかったものが、頭の中に浮かぶ。

 選ばなかった道。

 選ばなかった言葉。

 選ばなかった時間。

 それらは、消えずに、いつまでも、ついてくる。

 森の中で、その感覚が、強くなった。

 どの方向にも、人生がある気がする。

 そして、どの人生も、失敗のように思える。

 少女は、目を閉じた。

 耳を澄ます。

 風の音。

 枝が、わずかに、こすれる音。

 遠くで、雪が落ちる音。

 それだけだ。

 道の音は、しない。

 少女は、もう一度、息を吐いた。

 白い。

 すぐに、消える。

 その消え方を、じっと見る。

 消える。

 けれど、完全に、なくなるわけではない。

 また、息が、出る。

 その繰り返しに、しがみつくような気持ちで、少女は、歩き出した。

 どこへ向かっているのかは、分からない。

 ただ、止まるよりは、いいと思った。

 雪は、静かに、降り続ける。

 森は、何も、教えない。

 少女は、まだ、このときは、知らなかった。

 足元に、ずっと前から、地図が眠っていることを。

 雪の下で。


 少女は、しばらく歩いてから、また、足を止めた。

 見覚えがある。

 さっき、ここを通った気がする。

 木の形。

 枝の曲がり方。

 根元に、少し盛り上がった雪。

 どれも、確かに、見た。

 少女は、辺りを見回した。

 自分の足跡が、ある。

 新しいものと、少し崩れたものが、重なっている。

「……戻ってきた?」

 声に出すと、胸が、ざわついた。

 同じ道を、選んだつもりはない。

 むしろ、意識して、違う方向を選んだはずだ。

 それなのに、ここにいる。

 少女は、しゃがみ込み、足跡を見比べた。

 どれが、最初のものか、分からない。

 雪は、すべてを、同じにしてしまう。

 時間の順番さえ、曖昧に。

 立ち上がろうとして、めまいがした。

 ほんの一瞬だが、足元が、ぐらりと揺れる。

 少女は、木に手をついた。

 冷たい。

 その冷たさが、現実を引き戻す。

 少女は、息を整えた。

 白い息が、何度も、目の前に浮かぶ。

 消える。

 また、出る。

 その繰り返しに、時間を測る。

 一息。

 二息。

 三息。

 数えることで、今に、留まろうとした。

 森は、相変わらず、静かだ。

 だが、さっきよりも、静かに感じる。

 音が、減ったのではない。

 少女の意識が、内側へ引き込まれている。

 少女は、思い出す。

 選べなかった日のことを。

 あのときも、時間が、止まったように感じた。

 決めなければならないのに、決められない。

 そのあいだに、何かが、静かに、過ぎていく。

 森の中の感覚は、それに似ていた。

 立ち止まれば、雪が積もる。

 動けば、足跡が消える。

 どちらを選んでも、完全ではない。

 少女は、もう一度、歩き出した。

 今度は、数えながら。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 十歩まで行って、止まる。

 振り返る。

 さっきの場所は、もう、分からない。

 数えたはずなのに。

 距離が、信用できない。

 少女の胸に、じわじわと、不安が広がる。

 このまま、ずっと、同じ場所を、回り続けるのではないか。

 そんな考えが、頭をよぎる。

 そのとき、靴の裏に、違和感があった。

 ぎし、と、雪とは違う音がした。

 少女は、足を止め、ゆっくりと、体重を移す。

 もう一度、同じ音。

 硬い。

 自然のものではない。

 少女は、足元を見た。

 雪の下に、わずかに、色の違う部分がある。

 白ではない。

 灰色に近い。

 少女は、しゃがみ込み、手袋越しに、雪を払った。

 指先に、木の感触が伝わる。

 冷たく、乾いた感触。

 板だ。

 地面に、何かが、埋まっている。

 少女の心臓が、少し、速くなる。

 けれど、まだ、引き抜こうとはしなかった。

 なぜか、分からないが、これは、「見つけてはいけないもの」のような気がした。

 同時に、「ずっと、ここにあったもの」だとも思えた。

 少女は、立ち上がった。

 すぐに、掘り出す勇気は、なかった。

 けれど、確信はある。

 自分は、同じ場所を、回っていたのではない。

 ここに、戻ってきたのだ。

 何度も。

 少女は、息を吐いた。

 白い。

 その白さが、少し、長く残った気がした。

 足元の雪の下で、何かが、待っている。

 それが、道なのか、答えなのかは、まだ、分からない。

 少女は、その場所を避けるように、数歩、離れた。

 そして、そこで、夜が、近づいていることに、気づいた。

 空の色が、わずかに、沈んでいる。

 時間は、止まってはいなかった。

 ただ、少女が、追いつけていなかっただけだ。


 少女は、その場所から、すぐには離れなかった。

 離れたほうがいい、と頭では分かっている。

 夜が近い。

 森は、暗くなるのが早い。

 それでも、足が、動かなかった。

 雪の下にあるものが、気になって仕方がない。

 少女は、何度か、深く息をした。

 白い息が、ゆっくりと、立ちのぼる。

 それを見つめていると、胸の奥のざわめきが、少し、静まった。

 少女は、しゃがみ込み、もう一度、雪を払った。

 さっきよりも、丁寧に。

 急がず、壊さないように。

 指先に、木の感触が広がる。

 板は、思ったよりも、大きかった。

 両手で、雪をかき分けると、細い線が、いくつも現れる。

 刻まれた線。

 道だ。

 少女の心臓が、強く打つ。

 これは、ただの板ではない。

 地図だ。

 森の地図。

 しかも、新しいものではない。

 線は、ところどころ、すり減り、消えかけている。

 けれど、確かに、そこにある。

 少女は、息を止めるようにして、全体を見た。

 道が、幾重にも、重なっている。

 一本だけではない。

 分かれ道の先で、さらに分かれ、また、戻り、遠回りをしている。

 どれも、丁寧に刻まれている。

 だが、すべての線が、同じ深さではない。

 深く、はっきりした線。

 浅く、途中で消えた線。

 少女は、その「消えた線」に、目を奪われた。

 途中まで刻まれ、そこで、終わっている。

 まるで、描くのを、やめたかのように。

 少女は、指で、その線をなぞった。

 冷たい。

 けれど、不思議と、嫌ではない。

 その線に触れた瞬間、胸の奥が、きゅっと、縮んだ。

 風景が、浮かぶ。

 行かなかった町。

 話さなかった人。

 あの日、選ばなかった道。

 それらが、ぼんやりと、しかし、確かな輪郭を持って、現れる。

 もし、あのとき、違う選択をしていたら。

 そう思ったことは、何度もある。

 けれど、こんなふうに、「道」として見たのは、初めてだった。

 少女は、地図を見つめながら、気づく。

 消えた線は、途中で、無理に止められたのではない。

 引き返した跡でもない。

 ただ、先へ進まなかっただけだ。

 選ばなかった。

 それだけのこと。

 少女の胸に、少し、痛みが走る。

 後悔とは、違う。

 懐かしさとも、違う。

 もっと、静かな感情だ。

 「あったかもしれない」という事実を、初めて、きちんと見たときの感覚。

 少女は、雪を払いながら、地図の全体を露わにした。

 板は、地面に、しっかりと埋まっている。

 引き抜くことは、できない。

 持ち帰ることも、できない。

 けれど、それでいい、と、思えた。

 この地図は、ここにあるべきものだ。

 雪の下に。

 踏まれず、消されず、ただ、残るもの。

 少女は、立ち上がり、少し、距離を取った。

 地図を、全体として見る。

 今、自分が立っている場所は、はっきりとは示されていない。

 けれど、どこかの線の、途中だ。

 それだけは、分かる。

 少女は、思う。

 選ばなかった人生は、失われた人生ではない。

 進まなかっただけで、消えてはいない。

 雪の下で、静かに、重なっている。

 それを、知ってしまった以上、もう、知らなかった頃には戻れない。

 けれど、それは、怖いことではなかった。

 夜の気配が、濃くなる。

 森の色が、少しずつ、深くなる。

 少女は、最後に、もう一度だけ、地図を見た。

 消えた線。

 深く刻まれた線。

 どれも、自分のものだ。

 少女は、息を吐いた。

 白い息が、地図の上を、すっと、流れる。

 そして、消える。

 地図は、何も、言わない。

 けれど、確かに、見せた。

 選ばなかった道が、ここにあることを。


 少女は、地図のそばに、しばらく立っていた。

 夜の気配が、はっきりと、森に降りてくる。

 空の色は、もう、昼の名残を持っていない。

 青とも黒ともつかない色が、木々の間に、満ちていく。

 このまま、ここにいれば、夜になる。

 それは、危険だ。

 けれど、急がなければならない理由が、見つからなかった。

 少女は、もう一度、地図を見下ろす。

 線は、静かだ。

 何も、主張しない。

 ただ、そこにある。

 選ばなかった道が、責めてくることはない。

 「こちらへ来ればよかった」と、囁くこともない。

 それが、少女には、少し、意外だった。

 後悔とは、もっと、騒がしいものだと思っていた。

 もっと、胸を引き裂くものだと。

 けれど、実際は、違う。

 選ばなかった人生は、静かだ。

 雪の下で、眠っている。

 少女は、しゃがみ込み、地図に、そっと、雪を戻した。

 最初は、ためらいがあった。

 せっかく、見つけたものを、また、隠してしまうことに。

 けれど、雪をかける手は、次第に、落ち着いていく。

 線が、少しずつ、白に覆われる。

 消えていくのではない。

 見えなくなるだけだ。

 少女は、手を止めた。

 地図は、完全には、隠れていない。

 輪郭が、かすかに、分かる。

 それで、十分だった。

 すべてを、はっきりと見続ける必要はない。

 知っている、ということだけで。

 少女は、立ち上がった。

 足元を、踏みしめる。

 雪が、きし、と、鳴る。

 その音が、今、自分が、ここに立っていることを教える。

 少女は、ゆっくりと、歩き出した。

 どこへ向かっているのかは、まだ、分からない。

 けれど、さっきよりも、足取りが、確かだ。

 迷っている。

 それは、変わらない。

 けれど、迷っている自分を、置き去りにはしなくなった。

 歩きながら、少女は、思う。

 選ばなかった人生が、もし、言葉を持つなら、こう言うだろう。

 「ここにいるよ」

 それだけだ。

 連れて行け、とも、戻れ、とも、言わない。

 ただ、存在を、知らせるだけ。

 それを、知った今なら、進める気がした。

 森の中で、微かな風が、吹いた。

 枝が、触れ合い、低い音を立てる。

 それは、道を示す音ではない。

 けれど、拒む音でもなかった。

 少女は、息を吐いた。

 白い息が、夜の空気に、溶ける。

 消える。

 けれど、次の息が、すぐに、出る。

 選ばなかった人生も、同じだ。

 消えたように見えて、どこかで、息をしている。

 少女は、もう、振り返らなかった。

 振り返らなくても、地図は、そこにある。

 雪の下で。

 森は、何も、言わない。

 ただ、通す。

 今を、生きる者を。

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