表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/16

はじめて名前をなくした日

 その朝、少女は自分の名前を呼ぼうとして、声が出ないことに気づいた。

 喉をひらいて、息を送ってみても、そこから先に進む音がない。まるで、言葉の通り道だけが、きれいに消えてしまったみたいだった。

 少女はしばらく、口を閉じたまま立っていた。

 驚きは、すぐにはこなかった。ただ、胸のあたりが少し軽い。大切なものを落としたときよりも、ずっと静かな感覚だった。


 名前がない。


 そう思った瞬間、風が窓を鳴らした。春の風だ。まだ冷たさを残しながらも、どこか遠慮がちで、これから来る季節の様子をうかがっているような音だった。


 少女は、森へ行くことにした。

 理由はなかった。ただ、そうするのが自然に思えた。

 森は村のすぐそばにある。道を少し外れるだけで、木々の影が重なり、足元の土の色が変わる。少女は、その境目を越えるのが好きだった。

 森の中では、名前を呼ばれなくてもいい。

 鳥は鳴くだけで、木は立っているだけで、こちらに何も求めてこない。少女も、そこにいるだけで許されている気がした。

 春の森は、まだ決まりきっていない色をしている。

 若い葉は、緑になる途中で、光をためらいながら受け止めている。地面には、冬の名残のかたさと、春のやわらかさが混ざり合っていた。


 少女は、ゆっくり歩いた。

 急ぐ理由も、戻る理由もない。名前がないということが、歩幅まで変えてしまったようだった。

 やがて、一本の木の前に出る。

 それは、特別に高いわけでも、太いわけでもない。ただ、そこにいることが自然な木だった。長く森に立ち、たくさんの季節を見送ってきた、そんな落ち着きがある。

 幹の中央に、小さな木の札が結びつけられていた。

 札には、何も書かれていない。

 文字も、印も、色もない。けれど少女は、なぜか目を離せなかった。

 胸の奥で、何かが、そっと動いた。


 ここだ。


 声にならない確信が、少女の中に広がる。

 この木は、名前を預かる。

 誰に教えられたわけでもないのに、そう思えた。昔から知っていたことを、思い出したような気がした。

「……こんにちは」

 少女は、名前のいらない挨拶をした。

 木は、答えない。

 けれど、風が枝を揺らし、葉のない枝同士が、かすかに触れ合った。その音が、返事の代わりのように聞こえた。

 少女は一歩近づき、幹に手を当てる。

 冷たくない。むしろ、春の日差しを抱えたような、穏やかなぬくもりがあった。

 その瞬間、胸の奥から、小さな重みが浮かび上がってくる。

 名前だ。

 形も、音も、思い出せない。ただ、それが自分の名前であることだけは、はっきりと分かる。

 少女は、しばらく目を閉じた。

 そして、静かに思う。

 今は、持てない。

 だから、預けよう。

 額を幹にそっとつけ、息をひとつ吐く。言葉にならなかった息が、ゆっくりと木に吸い込まれていく。

 札が、ほんの少し揺れた。

 少女はまだ知らない。

 名前を預けるということが、失うことではなく、いつか取り戻すための約束であることを。


 少女が木から離れると、森は何事もなかったかのように静まり返った。

 風は吹いている。鳥も鳴いている。けれど、ほんの少し前まで確かにあった「出来事」だけが、音を持たずにそこに残っているようだった。

 胸に手を当ててみる。

 さきほどまで感じていた、かすかな重みはない。代わりに、空白のようなものが広がっている。冷たくもなく、痛くもない。ただ、何かが入るはずだった場所が、そのまま空いている感覚だった。

 少女は、不思議と不安にならなかった。

 預けた、と思えたからだ。

 無くしたのではなく、置いてきた。大切なものを、きちんとした場所に。

 少女は、もう一度だけ木を振り返った。

 幹の中央の札は、相変わらず何も書かれていない。ただ、さっきよりも少しだけ、そこに馴染んだように見えた。初めからそうであったかのように。


 森を出ると、村の音が戻ってくる。

 鍋を打つ音、誰かを呼ぶ声、犬の足音。いつもと変わらない朝のはずなのに、今日は少しだけ遠く感じられた。

「おはよう」

 向かいの家のおばさんが、少女に声をかける。

「……おはようございます」

 返事はできた。声も、言葉も、ちゃんと出る。

 ただ、そのあとに続くはずのものが、来ない。

「あら」

 おばさんは、少女の顔を見て、首をかしげた。

「今日はひとり?」

 その問いの意味を、少女はすぐに理解できなかった。

 ひとり、とはどういうことだろう。少女は、ここに立っている。身体も、影も、確かにひとつある。

「……はい」

 少し考えてから、そう答えた。

 おばさんは、それ以上何も言わなかった。ただ、どこか思い出せないものを探すような目をして、少女を見送った。


 家に戻ると、母が朝の支度をしていた。

「遅かったね」

 その声は、いつも通りだ。優しくて、少し急いでいる声。

「森に行ってたの?」

 少女はうなずく。

 母は、それ以上は聞かなかった。森に行くことは、特別なことではない。村の子どもたちは、よくそうする。

 けれど、食卓についたとき、母の手が一瞬止まった。

「……」

 何かを言いかけて、やめる。

 母は湯気の立つ椀を置き、少女の顔を見る。

「今日は、なんて呼べばいい?」

 その言葉で、少女ははっきりと分かった。

 名前は、預けられている。

 母の中からも、抜け落ちているのだ。

 少女は、少し考えたあと、首を横に振った。

「まだ、いいの」

 母は驚いたようだったが、すぐに笑った。

「そう」

 それ以上は聞かない。無理に埋めようともしない。そのやさしさが、少女の胸の空白を、少しだけあたためた。


 その日、村では、小さな違和感がいくつも生まれた。

 少女を呼ぼうとして、言葉を止める人。視線だけで合図を送る人。ほかの子どもと間違えそうになって、戸惑う人。

 誰も困らないが、誰も完全には慣れない。

 少女自身も、同じだった。

 呼ばれないということは、透明になることとは違う。むしろ、存在ははっきりしているのに、輪郭だけが少しぼやける。


 夕方、再び森へ行った。

 朝よりも、木々の影が長く伸びている。あの木は、すぐに見つかった。

 少女は、そっと近づく。

「……あずかってくれてる?」

 問いかけると、札がわずかに揺れた。

 風のせいかもしれない。それでも少女は、うなずいた。

 この森には、きっと決まりがある。

 預けたものは、勝手には返ってこない。けれど、失われもしない。必要なときが来るまで、静かに守られる。

 少女は、そのことを、言葉ではなく、身体で理解した。

 帰り道、足元の土は、朝よりもやわらかかった。

 春が、少しだけ進んだのだ。


 名前のない一日は、そうして終わった。

 けれど、それは終わりではなかった。

 名前を持たずに過ごす時間が、これから何を連れてくるのかを、少女はまだ知らない。

 ただ、胸の空白が、もう怖くはなかった。


 翌朝、少女は少し早く目を覚ました。

 名前のない朝は、思っていたよりも静かだった。呼ばれることがないせいか、時間がゆっくりと流れているように感じられる。

 身支度をして、戸口に立つ。

 母は、少女を見て微笑んだ。

「気をつけて」

 それだけだった。

 少女はうなずき、家を出る。行き先は、いつも通り、村の集まりの場所だ。子どもたちは、そこで文字や数を習い、大人の話を聞く。

 道の途中で、何人かの子どもとすれ違った。

「……」

 声をかけようとして、ためらう視線。

 名前がないということは、呼びかけの最初の一歩が、踏み出せないということなのだと、少女は知る。

 集まりの家に着くと、先生が入口に立っていた。

「おはよう」

 いつもなら、そのあとに続くはずの呼び名がない。先生は一瞬だけ戸惑い、それから少女を中へ招き入れた。

「席は、あいているところに」

 少女は、窓際の席に座った。

 名前のある子どもたちは、名前で呼ばれ、名前で答える。そのやりとりが、今日はひどく遠く感じられた。

 けれど、完全に取り残されたわけではない。

 文字を書く手は、いつも通り動く。数を数える声も、間違わない。できることは、何も変わっていなかった。

 ただ、呼ばれない。

 それだけで、世界との距離が、ほんの少し変わる。

 休みの時間、隣の子が少女を見た。

「……ねえ」

 呼びかけは、そこで止まる。

 少女は顔を向ける。

「なに?」

 名前の代わりに、視線が交わる。

「きょう、いっしょに帰る?」

 少女はうなずいた。

 名前がなくても、約束はできる。そのことが、少し嬉しかった。


 帰り道、二人は並んで歩いた。

 話す内容は、いつもと同じだ。天気のこと、先生の癖、森で見た鳥のこと。けれど、途中で何度か、会話が途切れる。

 呼びかけられない沈黙。

 それは、重たい沈黙ではなかった。ただ、今までなかった間が、生まれているだけだった。

「ね」

 隣の子が言う。

「名前、どうしたの?」

 少女は少し考えた。

「あずけたの」

「どこに?」

「森の木に」

 隣の子は、驚いたような顔をしたが、笑わなかった。

「……そっか」

 それ以上、聞かなかった。


 森に近づくと、少女の足取りは自然と変わる。胸の空白が、ここでは違う意味を持つ。

 名前のない自分は、森とよく似ている。

 呼ばれなくても、そこに在る。

 あの木は、今日も同じ場所に立っていた。

 札は、相変わらず白い。

 少女は、そっと近づく。

「まだ、いらない?」

 問いかけると、風が吹いた。枝が揺れ、札がかすかに鳴る。

 それは、否定でも肯定でもない音だった。

 少女は、分かった気がした。

 この木は、答えをくれない。

 答えは、持ってくるものなのだ。

 名前を取り戻すには、条件がある。けれど、それは急いで探すものではない。

 少女は、木の前でしばらく立っていた。

 やがて、深く息を吸い、吐く。

 胸の空白は、まだそこにある。けれど、その中に、少しずつ、別のものが溜まりはじめている気がした。


 呼ばれない時間。

 自分で選ぶ時間。

 名前のない自分として過ごす、春の日々。

 少女は、森を出る。

 その背中を、木は何も言わずに見送った。

 札は、まだ白いままだ。


 それから、いくつかの日が過ぎた。

 名前のない生活は、思っていたよりも、普通だった。朝は来て、夜は終わる。ごはんは温かく、水は冷たい。笑うことも、考えることも、変わらずできた。

 ただ、呼ばれない。

 それだけが、静かに続いていた。

 村の人たちは、少しずつ工夫を覚えた。視線で合図をしたり、肩に手を置いたり、用件だけを先に言ったりする。少女も、それに慣れていった。

 名前がなくても、世界は続く。


 けれど、ある日の夕方、ひとつの出来事が起こった。

 村のはずれで、小さな子が転んだのだ。

 泣き声が上がり、何人かが駆け寄る。その中に、少女もいた。膝をすりむいた子を前にして、誰かが叫ぶ。

「だいじょうぶかーー」

 その声は、途中で止まった。

 呼ぶべき名前が、出てこない。

 一瞬の迷い。その一瞬が、空白を作る。

 少女は、気づくより早く動いていた。

「だいじょうぶ?」

 名前を使わずに、声をかける。手を差し伸べる。目を合わせる。

 転んだ子は、少女の顔を見て、うなずいた。

 その場は、それで収まった。けれど少女の胸には、別の感情が残った。

 名前がないと、呼べないときがある。

 それは、優しさが届くまでの時間を、少しだけ遅らせる。


 その夜、少女は森へ行った。

 空は薄暗く、春の星がまだ弱く光っている。森の中は、昼よりも静かで、音がやわらかく溶け合っていた。

 あの木は、すぐに見つかった。

 少女は、木の前に立つ。

「ねえ」

 名前のいらない呼びかけ。

「わたし、少しだけ、困った」

 木は答えない。

 それでも少女は、続けた。

「名前がないと、遅れることがある」

 胸の奥が、ほんの少しだけ、重くなる。

「でもね」

 少女は、幹に手を当てた。

「名前がないから、考えた」

 どう声をかけるか。どう伝えるか。どう近づくか。

「前より、ちゃんと見た」

 札が、かすかに揺れた。

 風は吹いていない。それでも、確かに動いた。

 少女は、深く息を吸う。

「もう一度、名前、持てる気がする」

 その言葉は、お願いではなかった。報告に近かった。

 幹に額をつけると、胸の奥から、あの重みが戻ってくる。最初よりも、少しだけ増している。

 名前だ。

 ただの音ではない。呼ばれるためだけの印でもない。

 考えた時間、待った時間、選んだ時間が、折り重なった重み。

 少女は、目を閉じる。

 息を吐くと同時に、胸の中に、確かな輪郭が戻ってきた。

 札に、何かが浮かぶ。

 文字ではない。けれど、少女には分かった。

 これは、自分の名前だ。

 木は、何も言わない。

 ただ、預かっていたものを、返しただけだった。


 森を出ると、夜風が頬に触れた。胸の重みは、心地よい。

 村の灯りが近づく。

「ーー」

 少女は、自分の名前を、小さく呼んでみた。

 声は、ちゃんと音になった。

 その名前は、前よりも、少しだけやさしく響いた。


 翌朝、母が少女を呼ぶ。

 その声は、迷わない。

 少女は、振り向いて答えた。

 名前は、戻った。

 けれど、森の木も、白い札も、少女の中に残っている。

 預けることができると知ったこと。

 そして、取り戻すには、時間がいること。

 春は、そういうことを、静かに教えてくれる季節だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ