第八章:嵐のあとに
ヴィクトリア殿下が嵐のように去った翌日。
私は再び、別邸の客間でイザベラ様と向き合っていた。昨日までとは違い、背後にあの鋭い視線はない。部屋にいるのは、私とイザベラ様、そしてコレット嬢の三人だけだった。
ことり、とカップの置かれる静かな音。
なぜか、コレット嬢が自らの手で、私とイザベラ様にお茶を淹れてくれた。そのぎこちない手つきが、この場の奇妙な静けさを際立たせていた。
長い、長い沈黙。
それを破ったのはイザベラ様だった。窓の外に視線を向けたまま、ぽつりと漏らす。
「……ヴィクトリア殿下は、もう発たれたのですか」
その声に、昨日までの張り詰めた響きはなかった。
「はい。昨夜のうちに王都へ」
私は静かに答える。「あなたからお聞きしたすべてを、国王陛下に直接ご報告なさると」
その言葉に、イザベラ様は心底から安堵したように、長く息を吐いた。完璧に保たれていた姿勢が、わずかに崩れる。
顔を向けた彼女の姿に、私は息を呑んだ。
そこにいたのは鉄の仮面をかぶった交渉人でも、完璧な公爵令嬢でもない。耐え続けた重圧から解き放たれ、年相応の少女の疲れ切った素顔だった。
「……ヴィクトリア殿下は、怖い方ですわね」
その言葉に、私は答えに迷った。
「殿下は王女というお立場そのもの。そこに個人の感情、公私というものは一切ない。だからこそ、わたくしもああ振る舞うしかありませんでした」
イザベラ様はそう言うと、記録に集中しようとしていたコレット嬢に視線を向け、改めて私に告げた。
「調査官殿。もう、その記録は不要ではなくて?」
私は頷いた。
「ええ。殿下が発たれる前に、我々の任務は『聴取』からあなたの身柄を守る『護衛』へと正式に切り替わりました」
驚いた顔をするコレット嬢に、私は穏やかに言った。
「ですので、イザベラ様の一言一句を記録する段階は終わりです。コレット様、もうペンを置いて結構です」
「え……? あ、はい……」
彼女は戸惑いながらも安堵したようにペンを置いた。
そのやり取りに、イザベラ様の目に初めて純粋な驚きが宿った。計算ではなく、心が動いた者の反応だった。
そして小さく笑みを浮かべる。
「……では、安心ですわね」
その声は、穏やかで、どこか寂しげだった。
「もしよろしければ……少し、お話をしていただけませんこと?」
切実な響きを持ったその問いに、私は頷いた。
「ヴィクトリア殿下の近衛が到着するまで、数日は要するでしょう。その間はわたくしが片時も離れず、あなたを守るよう厳命されています」
私は初めて微笑んでみせる。
「ですから、その間であればいくらでも。お話なら、いくらでもお伺いします」
「わ、わたしも!」
コレット嬢も慌てて頷き、部屋の空気がわずかに和らいだ。
イザベラ様は息を吐き、子供のような顔で呟いた。
「……あの方の前では到底お話できませんでしたけれど」
それがヴィクトリア殿下を指しているのは明らかだった。そして彼女は、ぽつりぽつりと胸の内を語り始めた。
「王子殿下の側近が国を裏切ろうとしていると知った時、なぜそれをわたくしに知らせるのか、私はどうすればいいのかと、正常な思考力が失われるほど混乱していました。その様子を見かねたのでしょう、長年側に仕えてくれた使用人の一人が自ら申し出てくれたのです。『まずは確実な証拠を掴み、それから考えましょう。わたくしが動きます』と。そして…」
そこまで言い、イザベラ様は言葉を詰まらせた。
「……彼女は、殺されてしまいました。それは、わたくしが公爵家の者として、正しい判断ができなかったから。わたくしが死なせたのも、同然です」
ただ静かに、彼女はそう言った。
「そんなことありません!」
私は思わずイザベラ様の手を取り、叫んでいた。
「全ては側近と、この国の奪還派が行ったことです。あなたは何一つ悪くありません」
コレット嬢が涙を滲ませながら、コクコクと隣で首を縦に振る。
私たちの様子を見て「…ありがとうございます」とイザベラ様は呟いた。ふと私は彼女の手を握っていることに気づき、「申し訳ありません」と離そうとする。だが、イザベラ様はその手を「このままで、お願いします」と懇願するように握り返した。そして、話を続ける。
「王子殿下に身に覚えのない不正を責め立てられ、婚約破棄を宣言された衝撃も大きかったです。ですが本当に絶望したのは、その後、城に呼ばれた時でした。陛下からの叱責は、わたくしの不正についてではなく――『お前の軽率さが、この事態を招いた』と。そこで初めて、父と陛下の計画を聞かされたのです」
「そんな大役、自分には無理だと抗議しました。ですが陛下は――『お前には、もうこの道しか残されていない』と」
イザベラ様の声はか細い。
「監禁された数日間、私は亡命聴取に備えた想定問答を徹底的に叩き込まれました。いかに出方を探り、誘導し、最後のカードを切るか……。心が折れそうになるたび、殺された彼女のことを思い出し、せめて一矢報いたいと、そう自分を奮い立たせておりました」
しかし、彼女は苦く笑う。
「ですが、こうして一人になると、不安でたまらなくなるのです。果たして役目を果たせているのか。非公式とはいえ亡命という手段をとった以上、もはや故郷に居場所はない。……これから、わたくしはどうなるのでしょう」
私はその手を優しく握った。
「イザベラ様。亡命は罰ではありません。これは、あなたの命を守るために王と公爵がひねり出した策でもあるのだと思います」
驚いたように顔を上げるイザベラ様。私は続けた。
「あなたを完全に守るには、最も想定外の場所――敵国である我が国に置くのが最善です。もし万一我が国があなたを害せば、それを大義名分に戦争が始まる。ここは、あなたにとって最も安全な牢獄なのです」
「牢獄……」
「ええ。危険に晒しながらも、実は何重にも守られている。これはあなたを救うための策略です」
その言葉に、彼女の目から一筋の涙がこぼれた。
「それに……」とコレット嬢が言う。「ヴィクトリア殿下もいらっしゃいます! きっとあなたを守ってくださいますわ!」
純粋な声に、イザベラ様の表情が和らぐ。
「場合によっては、今お世話になっているベルナール家に支援をお願いするのも良いでしょう」
私が冗談めかすと、コレット嬢が「ええっ!?」と慌て、部屋の空気が和んだ。
私は最後に告げた。
「そして、もし本当に全てから解放されたいと願うなら――一切を捨てるのです。令嬢の地位も財産も国との繋がりも。そうすればあなたは政治的に無価値になり、最も強く命を守られる」
「そんな……考えたこともありませんでしたわ」
彼女は自分の手を見つめ、ぽつりと呟いた。
「……でも、それも、いいのかもしれませんわね」
その声は解放を夢見るようにか細く、晴れやかだった。
やがて彼女は、私の手をきゅっと握り返す。
「……エリアナ様。もしその時が来たら――責任、取ってくださいましね?」
私は意味を測りかねながらも、顔を赤らめ、こくりと頷くしかなかった。
そして数日後、ヴィクトリア殿下から遣わされた近衛が到着し、私のこの地での任務は終わり、王都へと帰ることになった。




