第七章:盤面の全て
ヴィクトリア殿下に引きずられるようにして、私たちは本邸の一室に戻った。
殿下が部屋に入るなり、背後で扉が荒々しく閉められる音が、張り詰めた空気をさらに硬くした。
その場に立ち尽くす私と、壁際で小さくなっているコレット嬢。部屋の中は、息が詰まるほどの重い沈黙に満ちていた。
やがて、窓の外の暗がりをじっと眺めていたヴィクトリア殿下が、ゆっくりとこちらに振り返った。先ほどまでの剥き出しの激情は消え失せ、静かでありながら、鋭く穿つような眼差しが私を射抜いた。
そして殿下は、小さく、しかし明確に頭を下げた。
「……エリアナ。すまなかった」
「え……?」
「感情的になった。お前の役割を蔑ろにし、助言役の立場を超えて踏み込みすぎた。謝罪する」
殿下の口から告げられる、あまりに真摯な謝罪の言葉。私はどう返すべきかわからず、ただ曖昧に首を振るしかなかった。
「い、いえ……滅相もございません」
そんな私を見て、殿下はふっと自嘲するように笑った。だが、次の瞬間、その瞳には再び獰猛な光が宿り、低く唸るような声で言った。
「……やってくれたな。まんまと一杯食わされた」
静かな声だったが、地の底から響くような冷たい怒気を孕んでいた。
「あれは亡命者などという生易しいものではない。使者だ。それも最後通牒を突きつけるためだけに送り込まれた、な」
殿下は一度言葉を切り、今度は別の対象――この事態を招いた張本人たちへと矛先を向けるかのように、ギリリと奥歯を噛み締めた。
「……とんでもないことをしてくれたものだ」
その言葉の誰に向けたものか、流石の私にも理解できた。
しかし、コレット嬢には理解できなかったらしい。震える声で疑問を口にした。
「あ、あの……殿下? どういうことでしょうか……? 使者とは……最後通牒とは……?」
ヴィクトリア殿下は一度深く目を閉じ、思考を整理するように、ゆっくりと、しかし明確に話し始めた。
「前に話したな、コレット。我々の国にも、イザベラの国にも厄介な派閥がいると」
殿下は混乱する彼女にもわかるように、一つ一つ言葉を区切る。
「イザベラの国の『合一派』。そして我が国の『奪還派』だ。……イザベラの証言を信じるなら、王子の側近がその『合一派』であり、さらに我が国の『奪還派』と繋がっていた。全てはそこから始まったということだ」
殿下は忌々しげに言葉を続ける。
「おそらくその側近、いやその一族は、長い年月をかけて思想を偽り、イザベラの国の王家の信頼を得ることに成功したのだろう。そしてついに、王子が最も心を許す立場にまでたどり着いた」
私は思わず言葉を継いだ。
「そして、その陰謀を……イザベラ様が知ってしまった」
「そうだ」
ヴィクトリア殿下は強く頷いた。その瞳は、まるで光景を目の前で見ているかのように鋭く冴えている。
「イザベラが放った調査員は、側近と我が国の奪還派の密会でも押さえたのだろう。だから連中は突発的にそいつを始末した」
「ひっ……!」
コレット嬢が鋭く息を呑む音が響いた。
「そして、始末した後で気づいたのだ。殺した相手がただの間者ではなく、ヴァレンティス公爵家――すなわち王子の婚約者の直属の者だったと」
殿下の声は冷徹そのものだった。
「連中はよほど慌てただろう。下手をすれば、公爵家と王家の両方を敵に回すことになる。これまで秘密裏に進めてきた計画が、露見しかねないと踏んだのだ」
私は自らの推理を口にした。
「だから、側近は先手を打った…。偽造した不正の証拠を王子殿下に渡し、イザベラ様に罪を着せることで信用を失墜させ、証言を無力化しようとしたのですね」
「…それはあくまで時間稼ぎだろうな」
ヴィクトリア殿下は断じた。
「世間の注目をイザベラの『不正』に集めることで、自分たちが犯した殺人を隠蔽し、国外へ逃亡するための時間を稼ぐ。それが真の狙いだったはずだ」
「だから側近は独断で噂を流した…」
コレット嬢の呟きに、殿下は短く肯いた。「そういうことだ」
そして、最後のピースをはめるように全体を総括する。
「イザベラの手の者が殺された時点で、国王や公爵にも事態は伝わったはずだ。だが彼らが対策を練るより早く、自己保身に走った側近の動きの方が一歩早かった」
殿下の瞳に底冷えする光が宿る。
「しかし国王と公爵も、ただでは転ばなかった。彼らはこの最悪の事態を逆手に取り、とんでもない一手を思いついた。それが――イザベラの『亡命』だ」
「で、ですが……殿下。なぜ亡命に?」
コレット嬢のもっともな疑問に、殿下は頷いた。
「まず国王と公爵は、側近の策略に表向きは乗った。イザベラを拘束し、エリアナの指摘通り異例の速さで沙汰を下した。これだけの不祥事の真実が他国に伝わる前に決着をつけたかったのと、合一派に余計な時間を与えず混乱させ、尻尾を掴むためだ。――実際、我が国には婚約破棄のことだけで、それ以上の詳細は伝わっていなかった」
「……そしてイザベラだ。合一派が王子のすぐ側まで迫っていた以上、王城ですら安全ではない。全ての発端である彼女は、逆恨みによって暗殺されかねなかった。だからこそ『追放』という形で外へ出す必要があった」
「さらに、ただ逃すのではない。国王と公爵は、その追放にもう一つの役目を与えた。亡命という形で我が国に送り込み、内政干渉の生きた証人としたのだ。あの最後通牒を突きつけるために」
「で、ですが殿下……それならば、直接抗議をすればよかったのでは……?」
「王子のすぐ側に裏切り者がいたなど、王家の威信に関わることを公にしたくないというのもあるだろう。だが、真の理由は別にある」
「王子殿下の側近に、我が国の『奪還派』が接触していたという事実……」
私の言葉に、殿下は深く頷いた。
「イザベラの国の王も判断に迷ったのだろう。王子の側近への接触が、奪還派の独断なのか、それとも我が国そのものが指示した国家的工作なのか、と」
「他国の勢力が王家の側近に接触し、将来の王を操ろうとしていたなどと公になれば、戦争は避けられなくなる。だが、幸いにも彼らも確信が持てるまでは一線を超えるつもりはないようだ」
「だから……イザベラ様の亡命で、我々の反応を引き出そうとしたのですか」
「そういうことだ」
そして、イザベラ様が口にした伝言の真の意味が、冷たい水のように私の背筋を伝った。
「殿下。『こちらは、どちらでも構わない。全ては、あなた方次第だ』という言葉は…」
「我が国が奪還派を厳しく処断するなら、この件は闇に葬る。しかし、イザベラ様を亡き者にし、事実を隠蔽し、奪還派を野放しにするなら…」私は息を詰まらせながら結論を口にした。「……彼らは躊躇わず事実を公表し、最終手段に出る。どちらを選ぶかは我々次第だ、と」
「……ああ」
殿下は頷き、言葉を続けた。
「証言にヒントを散りばめられれば、我々は立場上、それを追及せざるを得ない。そうして我々自身が導き出した結論によって、彼らは一言も明言せず、我が国の公式記録には一切残らない形で、こちらを糾弾することができる。……ここまで計算された、空恐ろしい策を、よくも思いついたものだ」
しばし重い沈黙が流れた後、殿下は目を閉じ、そして決然と見開いた。
「これはもはや、私一人で判断できる範疇を超えている」
ヴィクトリア殿下はコレット嬢に命じた。
「コレット、これまでの調書を」
「は、はいっ! こちらに……!」
コレット嬢は慌てて羊皮紙の束を差し出す。殿下はそれを受け取ると、一刻の猶予も許されないという口調で続けた。
「これを纏めて報告書を作成している時間すら惜しい。私は今すぐ城に戻り、陛下に直接伝え、判断を仰ぐ」
殿下は矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「コレット! 別邸にはお前の肉親以外、決して誰も近づけるな! 使用人たちにも口外すれば家族もろとも処罰すると伝えろ!」
「は、はいぃっ!」
そして最後に、私へ。
「エリアナ! 私の名で信頼できる近衛を数名寄越す。それまでイザベラを監視せよ。決して一人にするな。決して目を離すな! 彼女は我が国にとって、もはや最大級の重要証人だ!」
「御意!」
それだけを言い残し、殿下は嵐のように部屋を飛び出した。
廊下を駆けていく足音が遠ざかり、やがて静寂が訪れる。残されたのは、呆然と立ち尽くすコレット嬢と、戦争の火種になりかねない秘密を抱え、その重責と対峙を強いられることになった、ただ一人の調査官――私だけだった。




