第六章:本当の始まり
昼食を挟み、午後の聴取が再開された。
部屋の空気は、午前中とはまったく異なっていた。私の中にあった同情や憐憫は跡形もなく消え失せ、残っていたのは巨大な謎に挑む調査官としての冷徹な覚悟だけだ。ヴィクトリア殿下から全てを託された今、この聴取の主導権は、私が握らねばならない。
私は当たり障りのない質問から切り出した。
「イザベラ様。あなたの母国での人間関係について、お聞かせいただけますか」
「ええ。両親には愛されて育ったと自覚しておりますし、王家の皆様にも、王子殿下の婚約者として大切にしていただいておりました。国王陛下は歴代でも屈指の名君と名高く、王子殿下も……正義感が強く少々感情的な面はございますが、立派な方です」
「王子殿下とは、恋愛関係に?」
「それよりは、同じ未来を目指す『同志』に近い関係だったと存じます。だからこそ……なのでしょう。わたくしが不正を働いたとされる書類をご覧になった時、王子殿下は信頼する同志に裏切られたという強い衝撃を受けられたのだと……」
その時、私の思考が止まった。
(……書類を、目にされた?)
そうだ。証言では、王子殿下は公爵家に乗り込み、不正の証拠として書類を突きつけた。だが、それを行うにはまず書類を入手し、目を通していなければならない。話に聞いた王子殿下の様子から、ご自身で事前に調べていたとは思えない。ならば、殿下が悪意を一切疑わず信じてしまうような人物から、その書類は手渡されたはずだ。
嫌な予感が背筋を走った。私は弾かれるように背後のヴィクトリア殿下へ視線を送った。殿下もまた真剣な眼差しでこちらを見つめ返し、静かに頷いた。
「イザベラ様。一つご確認させていただきます」
私の声は自然と低く鋭くなっていた。
「その書類を、王子殿下は誰から受け取ったのですか?」
「側近の方だと、聞いておりますわ」
その一言で、私たちは重大な見落としをしていたことに気づかされた。
イザベラ様の供述通り不正が濡れ衣だとして、側近はどうやってその書類を手に入れられたのか。なぜわざわざ偽装などという手の込んだ細工を行い、イザベラ様を罪人に仕立て上げようとしたのか。
考えられることは一つ。
この物語は、王子殿下が公爵家に乗り込んだ日から始まったのではない。イザベラ様は、ただそこから語り始めただけだ。――本当の始まりは、そのさらに前にある。
私は腹を括った。
「イザベラ様。もう一度、原点に立ち返らせていただきます」
そして、この聴取で最も重い問いを投げかけた。
「この物語は、本当は、いつ、どこから始まったのですか?」
私の問いに、イザベラ様はゆっくりと目を閉じた。長い、長い沈黙が部屋を支配した。コレット嬢が息を呑む音だけが、やけに大きく響いた。
やがて彼女は、閉ざしていた瞼を静かに開いた。
それは――覚悟を決めた者の目だった。
その瞬間、私は悟った。
――日記と記録に残された、あの不自然な「空白」。
あれは、人間関係から王子殿下へ、そして書類の話へと私を導き、この最後の問いを口にさせるために、彼女が仕掛けた巧妙な道標だったのだ。
イザベラ様は、静かに告白した。
「……わたくしは、人を死なせました」
その言葉に、頭の中が真っ白になった。隣でカチン、と乾いた音が響いた。コレット嬢が思わずペンを取り落としたのだ。彼女は慌てて拾い上げたが、その顔は血の気を失っていた。
ただ一人、ヴィクトリア殿下だけが感情の色を消し、これまでにないほど鋭い視線をイザベラ様に向けていた。
イザベラ様は懺悔するかのように、静かに語り始めた。
「詳細は申し上げられません。ですが、ある貴族の子息から報告を受けました。王家に近しいある人物が……本来決して関わってはならない者と、深い関係を持っているのを知ってしまった、と」
「彼はどうすればいいかわからず、私に判断を仰ぎに来ました。本来なら、すぐ父や陛下に知らせるべきでした。ですがその時のわたくしは、公爵家と王家、両方の権威に関わるその事実を前に冷静さを失い、判断を誤りました」
彼女の顔が悔恨に歪んだ。
「自分一人で抱え込み、事実を確かめるため、信頼する近しい者に内密の調査を頼んだのです。その者は危険を承知で引き受けてくれました……。しかし、見てはならないものを見てしまったのでしょう。殺されてしまいました」
イザベラ様は一度言葉を切り、感情を押し殺すように一息ついた。
「おそらく殺害も咄嗟の判断だったのでしょう。その後、その者がわたくしに近しい人物だと気づいたのだと思われます」
そう語ると、イザベラ様は顔を上げ、その紫の瞳で背後のヴィクトリア殿下を真っ直ぐに射抜いた。
「ヴィクトリア殿下。もしあなたが最も信頼する者が危険な思想に囚われ、さらに国外の勢力と繋がっていると、あなたの父君である国王陛下が知った時……陛下は、どのような判断を下されるとお思いになりますか?」
その問いに、ヴィクトリア殿下は驚愕に目を見開いた。
「……そういうことか」
次の瞬間、殿下は凄まじい勢いで床を蹴り、イザベラ様のいるテーブルに詰め寄ると――バンッ! と両手で机を叩いた。
「お前一人の目論見ではないことは分かっている! 背後で糸を引いているのは誰だ!? 父君の公爵か、国王か、それともその両方か!」
これまでの冷静さからは想像もつかない、剥き出しの激情。
だがイザベラ様は怯まず、静かに首を横に振った。
「わたくしの口からは申し上げられません。ご想像に、お任せいたしますわ」
「貴様……!」
なおも苛立つ殿下に、イザベラ様は言葉を継ぐ。
「ただ、亡命の手引きをしてくださった方より、一つ伝言を預かっております」
凍てつくような静けさの中で、彼女は告げた。
「『こちらは、どちらでも構わない。全ては、あなた方次第だ』……と」
ヴィクトリア殿下はその言葉を噛みしめるように沈黙した。やがて大きく息を吐くと、私たちに短く命じた。
「エリアナ、コレット。来い!」
それだけ言い残し、殿下は踵を返して部屋を出て行った。
私とコレット嬢は呆然としながらも、慌ててその後を追った。




