第二章:最初の対峙
完璧な気品を漂わせ、静かに微笑む公爵令嬢イザベラ。その姿に私とコレット嬢が圧倒されていると、不意に彼女の唇がほころんだ。その視線は私ではなく、隣に立つヴィクトリア殿下に向けられている。
「まあ、ヴィクトリア殿下。ご機嫌麗しゅう。こんな辺境の地で再びお目にかかれるとは、光栄ですわ」
その言葉は、まるで王宮の夜会で旧知の友人に再会したかのような自然で優雅な響きだった。亡命者と亡命先の王女――そんな緊張した関係性を微塵も感じさせない。
ヴィクトリア殿下はその挨拶に動じることなく、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ああ、久しぶりだな、イザベラ嬢。国を追われたと聞いて、さぞかし憔悴しているかと思っていたが……思ったよりずっと元気そうで何よりだ」
その棘のある言葉に、私は思わず息を呑んだ。
「あ、あの……お二人はお知り合いで?」
我慢できずに尋ねると、殿下は「ああ」と短くうなずき、面倒そうに付け加えた。
「国同士がいくら仲が悪かろうと、王族や貴族同士の交流が途絶えることはない。イザベラとも、そうした場で何度か言葉を交わしたことがある」
二人の間に流れる、見えない火花のような空気に、その場の誰もが息を詰めた。耐えかねたように、コレット嬢が慌てて口を開いた。
「あ、あの、お茶の準備を――」
「いや、結構」
ヴィクトリア殿下は手で制した。
「今日は顔合わせ程度だ。長居はしない」
その言葉を受け、これまで穏やかに微笑んでいたイザベラ様の瞳が、すっと殿下に向けられた。
「では、これから私の『相手』は……殿下、あなたですの?」
その問いは、私やコレット嬢など存在しないかのように、真っ直ぐに権力の頂点へと向けられていた。しかし、ヴィクトリア殿下は楽しげに首を振る。
「いいや。私はあくまで『助言役』だ」
そう言って殿下は、私へと視線を流した。
「お前の聴取を担当するのは、こちらだ」
促され、私は一歩前に進み出た。完璧な公爵令嬢と対峙し、緊張で心臓が早鐘を打つ。
「王国調査局所属、調査官のエリアナ・グレイと申します。以後、よろしくお願いいたします、イザベラ様」
深く頭を下げ、私は役職と名を告げた。
「聴取は明日からだ。本日はここまでにしよう」
ヴィクトリア殿下が、唐突にそう告げた。
「もう少しお話ししたかったのですが」
笑みを崩すことなくイザベラ様が言う。それが本心か探りかは、私には判断できなかった。
「ほう、よく言う」
ヴィクトリア殿下は面白そうに呟いた。「案ずるな。明日からは嫌というほど話すことになる」
そう言って、殿下はくるりとイザベラ様に背を向けた。一方的な幕引き。しかしイザベラ様は気にした様子もなく、優雅な微笑みを浮かべたまま私たちを見送っている。まるで、すべてが彼女の想定内だと言わんばかりに。
---
私たちは再び渡り廊下を通り、本邸の客間へ戻った。部屋では、緊張した面持ちのコレット嬢が、お茶の準備を整えながら待っていた。
殿下はソファに深く腰を下ろし、まず彼女へ尋ねた。
「コレット嬢。お前は、あの女をどう思う?」
突然の問いに、コレット嬢は「えっ」と小さく声を上げた。しかしすぐに、先ほどの夢見るような表情を取り戻した。
「ど、どうと申しますと……やはり、とてもお美しくて、気品のある方だと。物語のお姫様、そのものでございます」
「ほう」
殿下は楽しそうに相槌を打ち、次に私へ鋭い視線を向けた。
「では、調査官。お前はどう見た?」
試すような目。ごくりと喉を鳴らし、私は正直な感想を口にした。
「はい。まず……コレット様がおっしゃる通り、お美しい方だと思います。ですが、それ以上に……」
一度言葉を切り、慎重に続けた。
「とても、婚約を破棄され、国を追われた令嬢には見えませんでした。あまりにも落ち着き払っているように思えます」
私の答えに、ヴィクトリア殿下は満足そうに口元をほころばせた。
「同感だ。コレット嬢には『物語のお姫様』に見えるらしいが、私とお前の目には、ただの食わせ者にしか見えんな」
殿下は組んでいた足を解き、身を乗り出した。
「あれは悲劇のヒロインの顔ではない。自分の置かれた状況を正確に把握し、むしろそれを手札として利用しようとしている顔だ。あの女には、この亡命を利用した別の企てがある」
その言葉は、場当たり的な推測ではなかった。むしろ、以前から抱いていた予感が、今日の対面で確信へと変わったかのように響いた。
殿下の瞳の奥で、冷たくも楽しげな光が揺らめいていた。隣でコレット嬢が信じられないといった顔で私たちを交互に見ていたが、殿下は気づきもしない。
彼女は視線を、テーブルの上に置かれた木箱――イザベラ様の日記の写しなどが入った箱へ移した。
「ああいう手合いは、時に意図的に手掛かりを示すことがある。自分に有利になるようにな。もしかしたら、その箱の中にも何か仕掛けがあるかもしれん」
「……私も、そう思います」
私は静かにうなずいた。あの余裕の裏には、何かがある――そう思えてならない。
ヴィクトリア殿下はにやりと笑い、私に言った。
「じゃあ、頑張ってくれ。調査官殿」
「えっ……私だけで、ですか?」
思わず声を上げると、殿下は当たり前だろうと肩をすくめた。
「聴取の担当官はお前だ。違うか?」
言葉に詰まる私を見て、殿下はわざとらしく手を打った。
「ああ、そうだ。聴取には記録係が必要だな。いくら最高機密とはいえ、国王陛下へ報告を上げる以上、正式な報告書がなくては格好がつかん」
その言葉にはっとした。そうだ、聴取の内容は逐一記録し、報告書を作成しなければならない。
聴取の主担当は私。ヴィクトリア殿下は助言役。しかし、任務は最高機密――これ以上、事情を知る人間を増やすわけにはいかない。
どうすべきか答えが出ず焦る私を楽しむように、殿下はちらりとコレット嬢へ視線を向けた。
「さて、どうしたものかな……」
その意図を悟ったのだろう。コレット嬢の顔がみるみる青ざめていった。
しばらくの逡巡の後、彼女は諦めたように、おずおずと手を挙げた。
「……わ、わたくしが、やります」
蚊の泣くような、消え入りそうな声だった。それを聞いたヴィクトリア殿下は、満面の笑みを浮かべた。
「おお、やってくれるか!助かるぞ、コレット嬢」
こうして、半ば強制的に、私たちの聴取チームの最後の一人が決まったのだった。
役割が定まり、部屋に奇妙な一体感が生まれたその時。私は意を決して、胸の内にあった最大の疑問を口にした。
「ヴィクトリア殿下。ずっと気になっていたことがございます。お尋ねしてもよろしいでしょうか」
殿下はソファにもたれたまま、面白そうに眉を上げた。
「私は『助言役』だ。そのためにここにいる。遠慮なく聞け」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
咳払い一つし、核心を突いた。
「なぜ、王女である殿下ご自身が、この任務に同行されているのでしょうか。そして……なぜ、担当官が、平民である私なのでしょうか」
私の問いに、殿下は初めて少しだけ考える素ぶりを見せ、やがてぽつりと呟いた。
「……そうだな。その問いには、答えておくべきか」
組んでいた足を解き、まっすぐに私を見据える。
「イザベラとは数度言葉を交わしたことがあると言ったな。その時の印象は聡明だが、何かを企むようなものではなかった。だが今回亡命してきた彼女の様子……事前に受けた報告とどうにも食い違う。それが気になった」
一度言葉を切り、続けた。
「だから、面識のある私が直接確かめたかった。そしてもし彼女が意図的に『悲劇の令嬢』を演じていないのだとすれば、それはこの状況を利用する企てがあるはずだ。それを確かめるために、私が来た」
そこまで言い切ると、殿下は今度は私個人に視線を合わせた。
「お前を選んだ理由も同じだ。もし私の予想が当たりなら、型通りの貴族的な聴取では絶対に尻尾を捕まえさせないだろう。だから、貴族とは全く違う価値観を持つ者が必要だと判断した。お前の『平民としての常識』が、奴の化けの皮を剥がす武器になるやもしれん」
全てを聞き終え、私はようやく自分がここにいる意味を理解した。
私は王女殿下が投じた、定石外れの一手――一枚の切り札だったのだ。
「……さて」
ヴィクトリア殿下は話を打ち切るように立ち上がった。
「明日からの本番に備え、準備も必要だろう。今日はここまでにしよう」
殿下が「私の部屋はどこだ?」とコレット嬢に尋ねると、彼女は弾かれたように立ち上がり、慌てて侍女を呼んで案内をさせた。
私も木箱を抱え、別の侍女に案内されて自室へ向かう。
そのすれ違いざま、小さな、しかし心の底からの嘆きが聞こえた気がした。
「……私たちベルナール家は、一体、何に巻き込まれてしまったのかしら……」
コレット嬢が絞り出した悲痛な呟きだった。




