序章:招かれざる客人
王都の心臓たる王宮の最深奥。
窓の外を夜の闇が覆う頃、宰相の執務室だけが、眠りを拒むかのように蝋燭の灯を揺らめかせている。
古びた羊皮紙と、溶けた封蝋のかすかな香り。
そして、言葉にはならない重い緊張が、肌に触れるだけで刺すようだ。
宰相の前に置かれたのは、一通の報告書。
特別な紙に、特殊なインクで記され、解読には王家制定の最高位の暗号鍵を要する――王国最高の機密文書である。
伝令はとっくに立ち退き、この内容を知る者は、玉座の国王、宰相、そして指で数えるほどの側近だけとなった。
報告の内容は、簡潔でありながら、破滅的だった。
――隣国より、"保護を求める重要人物“が来訪。
その一行が意味するものは、単なる亡命者の受け入れなどではなかった。
国境を越えてきたのは、隣国きっての名家、ヴァレンティス公爵家の令嬢であり、ついこの間まで同国王子の公認された婚約者であった、イザベラ・ド・ヴァレンティスその人なのである。
婚約破棄という醜聞の渦中にある彼女が、なぜこの国へ?
しかも、正式な外交ルートを一切経ず、密入国も同然の形で現れた真意は何か。
宰相の脳裏に、両国の間に燻ぶり続ける無数の火種がよみがえる。
かつては自国の一地方に過ぎなかった隣国が、忌まわしい動乱の末独立して以来、領土を巡る軋轢は絶えることがない。
さらに、「失地回復」――旧領土の奪還を掲げる強硬派の存在が、状況を一層複雑にしていた。
この一件は、危険なまでにデリケートだ。
公爵令嬢を保護すれば、隣国は「不当な拉致」と非難し、開戦の大義名分を得かねない。
かといって、追い返せば非人道的と内外の批判を浴びるだろう。
何より、亡命の背後に潜む重要情報を見逃す危険も孕んでいる。
いずれを選んでも国益を損なう危険な賭け。
下手を打てば、大陸全土を巻き込む戦火の導火線となりうる。
「……ゆえに、機密とする」
陛下の静かでありながら、絶対的なその声が、宰相の耳裡に蘇る。
事実はあらゆる公式記録から抹消され、公爵令嬢は「存在しなかった」こととされる。その身は王都から遠く離れ、中央の政争とは縁遠い地へ、密やかに移されることになった。
関わる者は最小限に抑えられ、王の名の下、絶対の箝口令が布かれる。
王宮は静寂に包まれている。
だが《水面下》では、国家という巨大な生物が、未知の脅威に息を殺していた。
この前代未聞の事態を調査する任に、誰もが経験豊富な貴族出身のベテランが就くと信じ疑わなかった。宰相自身、当初はその考えに同調していた。
しかし、その常識を覆すものが現れた。ただ一人、あまりに型破りな進言とともに。
第一王女、ヴィクトリア殿下である。
彼女は国王と宰相を前に、普段の軽薄な振る舞いを封印したように、瞳に聡明な光を宿して、こう言い放った。
『陛下。私に一案がございます。この件、調査官の人選を含め、私にお任せいただけませんでしょうか』
宰相は思わず眉をひそめた。しかし、陛下はその願いを聞き入れた。
こうして、宰相が陛下の裁可を得て最終的な辞令に署名した調査官の名は――いずれの貴族名鑑にも記載されていない。
それは、新時代の象徴たる「平民登用制度」で登用されたばかりの、未だ若き一人の女性の名であった。




