第九話 老沼
白葦と赤烏の国は、世界の隅に浮かぶ、東西に長い大きな島に存在していた。
昔、この島に名前はなかったが、千五百年ほど前に白葦の初代の帝――白帝が島を統一してからは、島の名前も白葦とするよう布告した。
と、正伝にあるが、この島は葦が多く茂ることから、元々白葦の国と呼ばれていたのを、初代かその後の朝廷が都合よく組み込んだだけの話である。
そして、この島のちょうど中心に老沼と呼ばれる大きな湖があった。老沼の由来は大沼から来たものか、それとも白い葦の穂を白髪になぞらえたものか定かではないが、ともかく島の中心に老沼はあった。
小高い山から見たその形は、人によればダイダラボッチの右足の跡だと言い、また別の者によれば、巨大な勾玉だとも言う。つまり、南は幅が狭く、北にいくにつれて幅が広くなり、その中ほどで西側が大きくくびれているのだ。
その干上がらぬ水があれば、飲むにも食糧にも事欠かず、老沼の周辺には昔から集落が集中していたが、やがてその中から島を統一する勢力が現れ、故郷に政治の中心を置き続けたと、恐らくこういうことであろう。
けれど、長く続いた帝――代々、白帝と名乗っている――の温和な統一支配も、つい百年ほど前に突如崩れ去った。
島の東端、とある貧しい集落を丸ごと移転させるという仕置きにその端を発した反乱は、やがて手が付けられないほど大きくなる。朝廷が手をこまねいている間に、反乱の首謀者は遂に王を名乗り、赤烏の国号を使い始めるに至った。
以来、百年もの長きに亘り、白葦と赤烏は対立を続けてきた。
けれど、赤烏が統治している土地は、実は島の三割ほどでしかないのだ。
だからと言って、白葦が簡単に勝てるというわけでもなく、畢竟、どちらも決め手に欠ける状態で、老沼の東を巡って奪い奪われるということを繰り返していた。
この百年間、ただそれだけのことだった。
* * *
「参れ、鷆。北辰を追え」
坊主頭の庵原狐太郎が、形代に息を吹きかけ空に放つと、褐色斑の鳥となって夜空に吸い込まれていく。
彼ら野祓い屋の天球と、五十年ぶりに現れた葦那言主の口を持つ巫女――御言女のカヤを乗せた小舟は、暗闇の老沼を進んでいた。
進んでいたというと何やら勇ましいものだが、朝廷の追手から逃亡している、という言い方が適切だろう。
月明かりも白けるほどに夜霧が残る老沼の上は、逃げる彼らにとってはお誂え向きに視界が悪い。しかし同時に、月も星も見るに難く、油断をしているとすぐにどこへ進んでいるのか分からなくなる危険も孕んでいた。
だから法師陰陽師の庵原は、形代に鷆を纏わせ、空を見た。それに比べれば大して期待はしていないのだが、あわよくば水面の追手も監視したいと思っていた。
その甲斐あってか、舟を操っている剣士の左兵衛にたまに指示が出るくらいで、船旅は順調に進んでいた。カヤも疲労のせいか、ぐっすりと寝入っている。
「庵原殿、大社で言っていた外鬼法なるもの、約束通り、小生にお話し頂きたい」
そのように発言したのは、覡の佐々木図書であった。覡と言っても特定の社に所属しているでも、特定の神を奉じているでもなく、ただ、野祓い屋らしく、頼まれればどんな神にでも畏むことを良しとしていた。それがたとえ、特定の地域でしか祀られていない淫祀の神であってもだ。
それ故に、神や祭祀に関わる彼の知識の量は人並みではなく、尋常ではなく、修めるべき型も既にない。
だからこそ、己の学の範疇であると思った事物に対しては、並々ならぬ好奇心を抱くのだ。
信仰に篤い者など、それだけで尊敬してやまないであろうし、事実、庵原も左兵衛も、大変に図書の知識を頼りにしているのだが、どんなものにも程度というものがある。
彼の普段の行状をよく知る庵原などから言わせれば、頼りにしてはいるが、図書はやはりどこまでも奇人なのだ。
それだけに、知識を求められたときの返答には気を遣わなければならない。矢継ぎ早に質問を繰り出されれば、いかに長いこと寝食をともにしている仲と言えど、どちらかが癇癪を起して関係がおしまいになってしまうこともないとはいえない。
庵原としては、図書も含めて今の天球をとても気に入っているからして、誰かがいなくなることはご免こうむりたい。
「……外鬼法というのは、残念ながら俺も詳しくは知らん。意地悪で言っているわけじゃあないぞ。本当に子細は知らんのだ。というのも、あれは蒲原の秘儀でな、限られた者にしか伝えられない」
「それで、ゲンタを蒲原天元の長子と疑ったと」
「その通りだ。なぜゲンタに伝えられたのかは分からぬが、だが、効果のほどは見たそのままだ。鬼の力を借りて外に宿す。見た目は分かり辛いが、それだけに実戦に向いている」
「外に宿す……とすると内に宿すことも?」
「あるにはあるが、そいつは外法だ。人の身で内に鬼を宿すなど、鬼人の類いでなければ破裂して終わりだろう」
「ふむ。御言女様の内に鬼を宿して、口を封じているものを追い出せるやもと思案しておりましたが、実に難しいことのようですな」
「あ、……ああ、そうだな」
「もしや、庵原殿、忘れていたので?」
「そ、そ、そんなことはないぞ?」
庵原とて忘れていたわけではないが、原因が分からないこともあって、頭の片隅に追いやっていたことは否めなかった。だから胸を張って忘れていないと言うこともできず、狼狽してしまうのだ。対して図書は、未知のものが目の前に現れたときからずっと気にかけていたのだろう。それが善意ではなく、純然たる好奇心からくるものであったとしても、大したものだと庵原は感慨深く思った。
けれど、それも中断された。
何かを感じ取ったのか、庵原の顔はすぐに険しいものへと変わる。
左兵衛が「どうした?」と無造作に問えば、空へ放った鷆の眼下に、西から迫るいくつかの朱色の光が見えたのだと、庵原が言う。
こちらは火も焚かずに鷆の眼を頼りに、そろりそろりと舟を進めていたというのに、追手だとしたらどうして嗅ぎつけられたのだろうかと、当然の疑問が湧くものではあるが、今は見つからずにやり過ごすことが最善である。
「追手か?」
自然、天球の面々は小声になろうというもの。
「それは分からん。だが、この時期に集団で漁を行なうことなどは聞いたことがない。ならば、見つからないに越したことはないだろう」
「埴安の 池の堤の 隠り沼の 行方を知らに 舎人は惑ふ。――これでしばらくは大丈夫でしょう。この間に身を隠す場所でも見つけましょうか」
庵原の言に、図書はすぐ歌に呪を込め、風に流した。




