第八話 月下白息
天球の面々、とりわけ庵原の表情は更に険しくなり、その顔にはもはや微塵も余裕がない。
「おいおいおいおいおい! 外鬼法の使い手がくるなんてあんまりじゃないか。たかが田舎の野祓い屋に、なんてものを当てて来るんだよ!」
「庵原殿、外鬼法とは如何なるものでしょうか?」
こんな状況だというのに、険しかった図書の顔は、あっという間に好奇心を抑えきれないものとなっていた。
「あー……、その、なんだ。ここを切り抜けたら詳しく教えてやるよ。とりあえず、図書はこれ以上霧が晴れないように頑張ってくれ」
「承知した」
「左兵衛、仕掛けるぞ」
「おう、分かった」
「あの剣だけはまともに受けようとするなよ」
「おう」
庵原と左兵衛の二人はずいっと前に進み出で、腰に差した刀をすらりと抜いた。
左兵衛が構える刀は刀身が厚く、反りも少ない。
庵原が左手で持つ刀もほとんど反りがないが、刀身が短い脇差であった。
「春山の 霧に迷へる うぐひすも 我にまさりて 物思はめや」
図書の穏やかな歌が聞こえ、ぽっかりとした霧がない空間が少し狭まり、彼は「面白い」と呟いては、この空間を興味深そうに観察し始めた。
「ちぃ」
庵原が少し舌打ちをして、けれど隣の左兵衛を一瞥すると、すぐに短冊状の呪符を顔の前に掲げて呟く。
「火礫の法」
それをすうっと放ると足元の玉砂利が浮かび上がり、先をいく呪符に引き寄せられるように宙を流れていく。しかもその石の一つ一つが炎を纏い、赤々と輝いていた。
けれどどうだ。
自らに燃える礫が襲ってこようというのに、相手は、烏帽子から零れる尼削ぎの黒髪を揺り動かす気配もない。ただ目を逸らさず、身じろぎもせず、とうとうカヤが耐えられずに目をぎゅっと瞑った段になって、ようやく動いた。
「無極、反閇」
そう言って、どんっと左足で強く地面を叩くと、呪符も何もかもが生気を失い、次々と地面に落下した。
「甘い」
そこに、左兵衛がいた。
その声と同時、鈍く光る刃が若い男を捉えようとしている。
先ほどの茶番の間に左兵衛が肉薄していたのだ。
腰を落とした必中の横一閃。
だが、それも予期していたかのように下から弾き上げられ、錐もみに飛ばされた左兵衛の刀は、玉砂利の隙間を見つけて地面に突き刺さった。
「ちぃ」
庵原と左兵衛、二人の舌打ちが重なった。
その隙を見逃さず、若い男が青白い刃を振りおろす。
左兵衛がすんでのところでそれを躱し、刃に触れた玉砂利が切れる。もう、二撃。横一閃、そして切り上げと続いたが、左兵衛は這う這うの体ながらどうにか躱すことが出来ていた。
すると今度は図書の声が流れてきた。
「こもりくの 初瀬少女が 手に纏ける 玉は乱れて ありといはずやも。……左兵衛さん、今のうちに」
今のうちとはなんのうちか。
けれど左兵衛は言われるまま一目散に、突き刺さった刀を目指す。
本来ならば、背中をバッサリと斬られてもおかしくない状況だったのだが、剣を持つ若い男は柄を握る右手の指を左手で懸命に直していた。
感覚が戻ることを少しでも遅らせたいのか、庵原が若者に声を掛ける。
「外鬼法にその鉄剣。……お前、いったい誰だ? もしかして蒲原星辰じゃあるまいな?」
「……だとしたら、なんとする?」
「お前が蒲原星辰だったら、万が一にも殺しちゃあまずいなと、そう思っただけだ。だが、そうではないらしい。そもそも布衣の色も違うしな。これで心置きなくやれるってもんだ」
「何を……」
庵原が無造作に足元の石を拾い、そのまま投げつけた。
「無極、反閇」
若い男は当然のように勢いを殺そうとする。
が、石はそのまま彼の腹部を直撃し、「ぐぅ……」と嗚咽を漏らした。
石は次々と飛んできてその男を打ち据える。
「はははは、小童ぁ! この石には呪も何も込めていない、ただの石ころだ! 無極でも反閇でも打ち払えるものか! お前ら、やっちまえ!」
玉砂利の石といえども、砂ではない。大人三人が投げるそれは、どうにも凶器なのだ。
やがて、腕で頭を覆いうずくまる頃合いに、左兵衛が胸ぐらをつかんで無理矢理立たせ、腹に拳を叩きこんだところで、白目をむいて気を失った。
その様子に、初めカヤはどうしてよいのか分からないといった風だったが、口を真一文字にきっと結ぶと、先ずは図書、そして左兵衛、庵原の順に、固く握った拳を喰らわせた。
次いで、若い男と自らの顔を交互に指差し、懸命に何かを伝えようとする。
「あー、もしかして、この若者がゲンタ君なのでしょうか?」
左の頬をさすりながら図書が聞けば、カヤは鼻息荒く、首を何度も縦に振る。
「そうしたら、コイツも一緒に連れていくか。……痛い!」
カヤはやはり庵原の腹に拳を叩きこみ、首を何度も縦に振った。
「じゃあ、御言女様は自分で歩いてもらって、コイ……ゲンタは俺が担いで……むぐ!」
ゲンタを担ごうと庵原が近づいたそのとき、彼の身体が仰向けに倒れ、視線の先を紫電の刃が過ぎた。
「新手だ」
庵原を引きずり倒した張本人の左兵衛が、相も変わらずぼそりと言う。
最初からそこにいたのか。
つい今しがた来たのか。
白狐面と赤紫の狩衣を纏った男が薙刀を構え、そこに佇んでいた。
「今度はどちら様ですか? 俺はそこの若者を連れて行きたいんですけどねえ」
「なりませんよ」
面の奥からくぐもった、けれど粘り気のある甘ったるい声がした。
「じゃあ、少し痛いですけど我慢して下さいね」
「それも、なりませんよ」
気付けば夜霧もだいぶ薄くなり、方々から「急げ」「大鳥居だ」などと衛士の声が聞こえてきていた。
「ここは見逃してあげますから、この少年のことは諦めて下さい。その代わりといってはなんですが、御言女様のことは諦めましょう」
カヤが庵原をじっと見ては、口を開かずにものを言う。
「御言女様が仰りたいことは分かるんですがね、生憎とそれは無理ってもんです。どうかここは堪忍して下さい」
カヤは聞き入れられないという風に首をぶんぶんと横に振るが、天球からしてみれば、それも聞き入れられることではないのだ。
「ほら、早く決断なさい」
耳障りなねっとりとした甘い声が、それぞれの心を揺らす。
突如、庵原は無い髪を掻き毟り、カヤをひょいっと肩に担ぎ上げた。
衛士たちの声がだんだんと近くなる。
庵原は左兵衛と図書に目配せをすると、倒れ伏すゲンタに背を向けて、足早に歩き始めた。
カヤは肩の上でしきりにもがき、暴れ、涙を落としたが、やがて精魂尽き果てたのか。老沼の葦原に隠した小舟に乗り込む頃には、もうすっかりと眠りに落ちていた。
暗い湖面にギィと漕ぎ出す小舟の空に、冷えた月が輝いている。




