第七話 月氷る
――朧月が氷る夜、白葦の都は濃い霧に包まれていた。
昼間、気持ちよく晴れたことで、都の東隣にある大きな湖、老沼から立ち流れて来たのだ。
神の気配を身近に感じられる自然現象も、在番の衛士たちにとっては視界が悪くてたまったものではない。少しでも見通しがよくなるようにと、篝火を多く焚いてみてはいるが、大して効果があるものではなかった。
けれど、初冬の風物詩であるこの光景も、今日はどこか様子がおかしい。
音がしない。
そのことに夜番の市中見廻り組がいち早く気付いた。ただし、それはすぐに訂正された。音がしないのではなく、とても狭い範囲にしか声も音も届かないのだと。
そうなれば、市中に住まう法師陰陽師の誰それか化生の類いが、悪さの一つでもしていようかと考えるのが、武部の夜番の常であり規則であった。急ぎ卜部の陰陽師に合力を求め、同時に武部の昼番の者を叩き起こして数を増やし、碁盤のように何条もの道が交差する市中を警戒するのだ。
彼らは市中を警戒した。それが市中見廻り組に与えられた役目だからだ。
そして、武部の次席である弓削千晴は、市中見廻り組から報告を受けるとすぐに近衛に命じて、白葦の国を治める白帝が御座します宮城の守りも固めた。卜部の棟梁である蒲原天元から、その才を見込まれて娘を娶っただけのことはある見事な対応の早さだった。
だから、葦那大社に忍び込む罰当たりな人影に気付かなかったのだ。
「御言女様、これこの通り、過日のお約束に基づいて御迎えに参上仕りました」
カヤの寝所には霧を纏い、巫覡部の口覆いを着けた男が三人、彼女を囲むように片膝を立てている。
丸坊主の大男が揺り起こせば、カヤは途端に総毛立ち、その目を更に真ん丸と見開いて、今にも悲鳴を上げそうに口を開いた。
思わず短髪の男が口を覆うために手を伸ばすが、もとより悲鳴など出せないことに気付いて、すぐに引っ込める。
「驚かせてしまってすみません。庵原の狐太郎にございます。すぐにここを発ちますぞ」
寝所の外からは慌ただしい物音も聞こえてくるが、どのような塩梅か、音は聞こえるそばから過ぎ去っていく。
幾人かの気配が通り過ぎたところで、ようやくカヤは天球の面々であると思い至った。
小平はおらず、庵原、左兵衛、図書が、真剣な目つきでそこにいる。そこにいるのだが、気配は朧気で言い表せない感覚を覚えた。
「然らば御免」
もう、何かの刻限なのだろう。
庵原が手近な小袖をかけてひょいっとカヤを俵に担いだかと思うと、舞良戸を無造作に開け、そのまま庭に降りた。庭に降りたところで、巫覡部の者が廊下を歩いていたが、視界に入ったはずなのに気にした様子もない。
広い境内に出た後などは、つい先程まで慌ただしかったことなど忘れてしまったかのように、夜霧に包まれた大社はしんと静まり返っていた。
そればかりか、どれだけ目を凝らしても大社付きの衛士の影も見えない。
そのことは想定外だったのか、庵原たちの足は数瞬止まり、しきりに辺りを見回しながら再び進み始めた。
しかし――
「春の野に 霧立ち渡り 降る雪と 人の見るまで 梅の花散る」
よく通るその声は低く、それでいてほのかに甘い。
刹那、辺りの霧が次々と弾けるように紅色の花びらに変わり、舞い散った。
これもまた彼らの想定の外。
険しい顔の庵原がカヤを立たせ、背後に回るよう小声で囁く。
やがて、紅色の花吹雪が晴れると、そこに佇んでいたのは袴を括り上げ、卯の花色の童水干を纏う若い男だった。その烏帽子からは、五芒星と北斗星の描かれた札が凛として下がり、顔の右半分を覆い隠している。
「くそ。ここにきて蒲原の陰陽師かよ」
「賊徒ども! すぐに御言女様を返せ!」
庵原が小声で弱音を吐露すれば、若い陰陽師は威丈高に声を張り上げる。
それに最も反応したのは、賊呼ばわりされた天球ではなくカヤだった。
記憶の中のその声に、庵原の大きな背中からひょいっと顔を覗かせれば、すぐに向こうも気付き、視線が交差する。
カヤは相手の名を叫びたかった。
けれど、諦めた。
白い玉砂利がぎゅっと鳴る。
駆け出したかった。
けれど、左兵衛の腕に阻まれて結果を理解した。
「カ……、御言女様! すぐに俺がお助けいたします!」
若い陰陽師が再び声を張り上げ、左腰に佩いた剣をすらりと抜いた。
ほぼ同時、左手の人差し指と中指で形代を挟み、顔の前に出す。
「我、冥府の大王に願い奉る。不浄の魂を導く閻羅人を参らせたまえ」
ふいっと形代に息をかけて飛ばせば、それは見る間に膨張し、身の丈七尺にも及ぼうかという一本角の大男、有り体に言えば鬼が現れた。
次いで、冴え冴えとした月の如き輝きを放つ剣を、高々と掲げて声を出す。
「我が宝剣に宿れ」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
だが、事実としてあれほど存在感を放っていた鬼は消え、若い男が握る剣の輝きは、より強く、いっそう冷えたものになっていた。




