最終話 噤呪
「予想以上に内府殿は危険な状況のようですので、さっさと組分けをしましょう。魂抜きは、星辰殿を筆頭として、弓削殿、私。封魂はゲンタ殿を筆頭に、左兵衛殿とカヤ様。カヤ様と庵原殿は――」
それぞれの役割を背負い、七名は再び死地に突入した。
「運べ、白鷺」
まずは庵原が大きく静かな白い鳥の式神を出す。それは音もなく凛として地面に立ち、天元をじっと見ていた。
庵原は間髪を置かずに呪符の束を構えて宙に飛ばし、再び式神を顕現させる。
「導け、死出の蝶」
声とともに無数の蝶が現れ、空間を紫黒に染める。
だが、この蝶もそこに漂うだけで、すぐに天元に向っていくわけではなかった。
では、なんのために出したというのか。
庵原が立ち止まって式神を出した後、二手に分かれた六名は天元にどんどん近づいていく。
蝶の半分は彼らの前を舞うように飛んでいて、道案内をしているようにも見えたのだが、すぐに別の目的があることが分かった。
「羅睺招来」
天元が再び黒炎の竜を放ち始めれば、それは意志を持った生き物のようにゲンタたちに襲いかかった。
そのとき、蝶が舞った。
黒々とした蝶が黒々と燃える竜に立ち塞がり、ぶつかったかと思うと、吸収していく。竜に、ではなく、次々と放たれる黒炎の竜が、無数の蝶に吸収されて消えていく。
蝶も数を減らしていくが、全体の数からすれば微々たるもの。しかし、意志を奪われているとはいえ、それでもなお同じ術を放ち続けるほど、天元は頑固者ではない。
彼は二枚の呪符を宙に放ち、静かに唱える。
「滅尽轟雷」
あろうことか、洞窟内に雷鳴が轟きわたり、全ての光を吸い込むような昏い紫電が二度迸る。それは瞬きすらも許さぬ時間で二手に分かれたゲンタたちに伸び、一瞬のうちに彼らを炎と黒煙で包み込んだ。
だというのに、その様子を眺めている庵原の顔に焦りは見えない。
なぜか。
じきに、火煙から駆け出す影があった。ゲンタたちだ。その体に傷はなく、火傷もなければ、衣も焦げていない。
しかし、彼らの前を行く蝶の数が減っていた。
天元が再び呪符を掲げ、駆け寄るゲンタたちに昏い紫電を放つ。それは一度で止まずに二度三度と続き、その度に紫黒の蝶が火煙を上げて落ちていく。
けれど、それだけだ。
「父上!」
傲慢にも紫電で対処できると思っていた天元に、星辰が一閃。
天元は予想通りに、ふわりと浮いて避ける。
そこへ狙いすました鬼の手が二つ飛ぶ。
これもストンと着地して躱された。実に人間離れした動きである。
だが、まだ仕掛けは続く。遊兵を作る余裕などあろうはずもない。
大上段に構えた左兵衛が、着地したばかりの天元の、その背後から刀を振り下ろす。
その渾身と思える一振りを避けたところへ、今度は図書が矢を放った。葦の矢ではなく、鉄の鏃の矢を。
即座にそれを見抜くも、躱すこと能わずと天元は宙に五芒結界を出現させた。仄かに光る半透明の障壁が、これまで通りに矢を弾くのだろう。
その瞬間、カヤが短く声を発した。
「アタシはそれを否定する」
消えた。仄かに光る五芒の星が、跡形もなく。まるで初めから現れていなかったかのように。
慌てて横に動く天元に、けれど矢は命中し、脇腹に突き刺さる。
いかに神に憑かれていようとも、その皮膚は人間であった。そもそも刃で傷を付けられぬのであれば、結界で防ぐ必要もないだろうという、庵原の読み通りの結果であった。
そして、天元の動きが止まり、呻く。どれくらいの時間、止まるのかは分からないし、想像もつかない。
しかし、彼の中では荒魂とヒトの呪、そして彼の魂魄がせめぎ合っていることが、容易に想像できる。
――今ならば。
星辰、弓削、図書が声を重ね、波を作るように祝詞を奏じる。その三人の中にあって、図書だけが幣帛を持ち、左右に揺らしていた。
天元を挟んで反対側では、ゲンタが両手を合わせ、彼を守るように左兵衛が前に出る。その左兵衛は左手を刀印にし、片手で刀を持っていた。カヤはゲンタの後ろで神妙な顔をして待機していたが、やがて三人声を揃えて唱え始めた。
式神の白鷺が舞い始める。大きく翼を広げ、彼らの上をゆっくりと旋回する。
「掛けまくも畏き、葦那言主。諸々の禍事罪穢有らんをば、祓え給い清め給えと白す事を聞こし食せと、恐み恐み白す。
ちはやぶる神の御恵のかたじけなしとて、いと貴きその御名、天地のむすびに恐み恐み、お返し白す」
「ノウモボタヤ、ノウモタラマヤ、ノウモソウキャ、タニヤタ」
この広い空間を満たすのは、神へ捧げる声の波と、呪を祓い、呪を喰らう言の葉。それらは呻き声を吸収して、反響を繰り返す。
やがて、白鷺が低く、短く、「クァー」と鳴いた。
天元の体がビクンと跳ね、その口から白い靄が湧き出る。それは白鷺を追いかけるように、ぐるりと一回りすると、吸い込まれるようにカヤの中に消えた。
しかしカヤは一瞬、呆けたように虚空を見つめただけで、動じなかった。
次に、死出の蝶が鳴いた。
庵原の周囲に屯していた蝶も、いつの間やら天元の周りを飛び回り、「ぎゃあ、ぎゃあ」という不吉な鳴き声とともに、黒光りする鱗粉をまき散らす。
そして、天元が右腕を上げた。
その手に持つは二枚の呪符。
「滅尽霹靂神の法」
すぐに男のものとも女のものとも知れぬ二重の声がして、天元の周囲に紫電が降り注ぐ。
直後に立ち昇るは黒い火煙。
天元に群がっていた死出の蝶の、その悉くが、一瞬にして焼き尽くされたのだ。
間を置かず、天元が再び呪符を掲げた。
「させるか!」
言うが早いか、星辰が天元に向けて形代を放つ。しかし天元はそれを予期していたかのように、五芒星の結界を盾とした。
形代はバタバタと音を立て、結界に貼り付くだけに終わる。
「アタシはそれを否定する」
カヤの声がしたが、今更結界を解除したところで手遅れで、はらはらと落ちてゆく形代をよそに、天元は再び呪符を掲げようとしていた。
だが、その直後に天元は目を見開いた。
力なく落ちてゆく形代を、別の形代の群れが突き破ったのである。その白い紙の群れは瞬く間に目を塞ぎ、口を止め、更に腕や脚に貼り付いて天元の動きを封じる。放ったのは弓削だった。
それでもなお、形代を剝がそうとともがく天元に星辰が太刀を振るう。本気で斬ろうとしているわけではない。あくまでも、ゲンタたちの術が成就するまでの時間稼ぎであった。
天井近くを飛ぶ白鷺が、「クァー」と鳴いた。
成ったのだ。
天元が再びピタリと動きを止めた。
彼の臍の辺りから、ずるりと黒い靄が這い出す。
「ノウモラカタン、ゴラダラ、バラシヤトニバ、サンマンテイノウ、ナシヤソニシヤソ、ノウマクハタナン、ソワカ。オン、マユラギランデイ、ソワカ。オン、マユラギランデイ、ソワカ。オン、マユラギランデイ、ソワカ!」
両の手をピタリと合わせたゲンタとカヤと、片手で刀印を作る左兵衛の声が、大きく速くなる。
天元が、膝から崩れ落ち、地面に倒れ伏す。
天元から漏れ出た黒い靄は、女人の形をなした。長い髪に丸みを帯びた体は、けれど、呪を封じる言の葉によって、地面に沈み込んでいく。
このまま順調にいくと、誰もがそう思っていた。
「怨」
黒い靄が、哭いた。
白鷺が落ちていく。
「怨」
黒い靄が再び哭いて、左兵衛が吹き飛ばされた。
「怨」
三度哭いたその声で、庵原を除く全員を、洞窟の固い地面に叩きつけた。
「くそったれ!」
庵原が叫び、ゲンタたちに駆け寄ろうとするも、近づけば近づくほど、その足は重くなり、やはり地面に伏した。
黒い靄は立ち上がり、夢の中のようにゆっくり歩き始める。
その先には、気を失ったカヤが倒れていた。
「カヤ! 起きろ!」
庵原の呼びかけに、カヤはピクリともしない。
「くそ! ゲンタ! カヤを起こせ!」
ゲンタが目を開いた。起き上がれぬままに、のそりのそりと動く黒い靄を見た。庵原、カヤの順番に視線を送る。
次にゲンタは剣があるかどうか、左手だけで確認した。
剣はあった。
鬼の手はどうか。鬼の手は、問題なく出せる。試しに、黒い靄を殴ってみたが、虚しく通り過ぎるだけだった。
あれは、在り方が違うのだとゲンタは悟る。
「カヤ! 起きろ!」
今度はゲンタが叫んだ。
叫び、器用に鬼の手でカヤの体を揺する。
黒い靄がのそりのそりと近づいて、もうあと数歩もない。
そこで、カヤが目を覚ました。バタバタと手足だけを動かしている。
「カヤ! なんでもいいから否定しろ!」
そんなゲンタの言い草に、しかし、カヤは彼が想像していなかった言葉で実行に移した。
「噤め!」
一瞬、ゲンタはどうしてカヤがそんなことを言ったのか分からなかった。
だが、今まで押さえつけていた力は完全にではないが消え失せ、どうにか立てるようになっていた。
他の面々もよろよろと立ち上がる。
しかし、もう時間がないのだ。
よろよろと立ち上がる最中のカヤに、黒い靄が今にも届かんばかりであった。
「うおぉぉぉ!」
ゲンタが雄叫びを上げ、気力を奮い起こす。
そして、鬼の手に剣を持たせた。青白く輝く青星を。
剣を持った黒く大きな手は、黒い靄の頭上を舞う。
「カヤ、避けろ!」
カヤは反射的に後ずさり、目の前を鬼の手がかすめる。
青白く輝く青星は、黒い靄を脳天から刺し貫いていた。
黒い靄が青星に押され、どんどん沈んでいく。
そうして最後に頭だけとなったとき、その靄は、カヤを見ては何かを話そうとして口を開け、けれど何も言葉を紡げないまま、地中に消えた。
ついに、終わったのだ。
「弓削千晴、いいな?」
「ええ、約束通りに」
庵原と左兵衛が天元を担ぎ始めたのを横目に、すっかり体が軽くなったゲンタは皆に目配せをして、弓削の手を縛り縄につないだ。
白葦と赤烏を騒がせた大悪党も大人しく従い、ゲンタに促されるままに、洞窟を出ようとゆっくり歩き始める。
そのときカヤが不意に弓削にぶつかり、よろよろと後ずさった。その手に握られているのは、黒漆に蒔絵の拵えの短刀。刃に残るは赤黒い血。
「父ちゃんと母ちゃんの仇だ! 思い知ったか!」
カヤが涙をこぼしながら叫び、唇を噛みしめて震える。
ゲンタはカヤから反射的に短刀を取り上げようとして、弓削から離れた。
後ろでゴトリと音がした。
ゲンタが振り返ると、弓削の体から離れた首が、地面に転がっていた。
傍には星辰が立っていて、感情のない顔で、首をじっと眺めている。
ゲンタは突然のことに、何をすべきか分からなくなり、一瞬立ち尽くした。
天井から水滴が落ちてきて、彼の項を濡らす。
水滴はあっという間に滝となり、川となり、大きな音とともに天井が割れた。
「カヤ、掴まれ!」
「ゲンタ!」
大量の水が流れ込み、七人も、弓削の頭も、かつて葦那言主だったかもしれないものも、何もかもが飲み込まれ、押し流された。
* * *
それから三年が経った。
白葦と赤烏は白帝の号令の下、再統合され、今は赤烏と称している。
政の頂には相変わらず白帝がいて、そして相変わらず勝手気ままに各地を漫遊しているらしい。
実際の政治は太政大臣に任命された丹王と、その下に置かれた軍部、星読方、それと老中たちが執り行なっている。
軍部の初代長官には武部一胤が、星読方の初代長官には蒲原星辰がそれぞれ就任。老中には大久保暁鶏、擘浦長元、巫覡部正白が就任したのだから、丸く収めるために、白帝の思惑と異なる形で、統合が進められたことが窺い知れる。
なお、大久保暁鶏直下の宵鶸は、老中の預かりとなり宵雀と名前を改めた。
天球は相変わらず擘浦長元に気に入られていて、高給をもってお召しの話もあったのだが、性に合わないと固辞した。元より、役所勤めが嫌いな者たちの気楽な集まりだったのだから、やむを得まい。
争乱に巻き込まれた都も村々も、この三年の間で復興が進み、それは草浜村も例外ではない。
「ゲンタ、アタシと勝負しろ!」
「あたしとしょーぶしろ」
「お前も母親になったんだから、少しは大人になれ」
草浜村では今日も青空の下、カヤがゲンタに勝負を挑んでいた。
けれど、その手は別の小さな手を握っていて、勝負の後は三人で決まって詣でるのだ。御言女が封じられ、何もかもが流されたあの祠に。
『噤呪の巫女』 ―完―




