第四話 天球
「えーと、どこぞの姫さん……、いや。いずこかの大社の巫女様ですかな? この庵原狐太郎が助けに来たからにはもう安心ですぞ。ささ、この霧もじきに晴れ申す故、すぐに立ち去りましょうぞ」
坊主頭に無精ひげの男がニッコリと微笑めば、自然、カヤは頷き、飛ぶように駕籠から出た。
外は鉄と木が焼け焦げた臭いが立ち込め、今なお戦闘の音が聞こえてくる。
「前を行くあの男についていきますぞ」
カヤは坊主頭の庵原に指示された方向に駆けた。千早が枝に引っかかり、裂けるのも構わずに藪に分け入り、霧の向こうに薄っすらと見えるもう一人の男についていく。
カヤの後ろを歩く大男の庵原に比べれば、前を行く総髪の男は小ぢんまりとはしていて、白い小袖の上に着ている狩衣も若草色だが、それでも見失うことはない。
やがてすっかりと霧が晴れ、なおも歩いたところでは不自然に大きな板が立ち塞がっていた。前を行っていた男はそこでカヤの方を向いて立ち止まっているが、その表情は好悪の分からぬもので、無理に口元を緩めているとするのが適切だろう。
ともかくなんとも判断が付かない表情で、天を衝き、海まで続いているかと思わせる巨大な板の前に、涼しげな顔の男が佇んでいた。
「お初にお目にかかります。小生、佐々木図書と申します。説明する暇もございませぬが、これよりこの結界を越えます故、小生の袖をしっかと掴んで下さい」
カヤが袖を握ったことを確認すると、図書は板に向けて声を当てる。
「ちはやぶる 神の斎垣も越えぬべし 今は我が名の惜しけくもなし」
ああ、駕籠の中に聞こえてきたのはこの声だ。そう思ったときにはカヤも、そして図書も板の向こう側にいた。
驚いて振り返れば、今度は庵原が事もなげに板を通り抜けてくる。
その光景に好奇心を隠しきれず、けれど、カヤは声が出せずに、ただもどかしく思うだけだった。
そうして板の先、ありふれた獣道を歩くと、じきに小屋が見えてきた。
屋根から煙が立ち上っていることから、誰かが中で火を焚いていることが想像できる。
果たしてカヤが図書に続いて土間に踏み入ると、上がり框に腰をかけ、腕組みをして竃を見つめている男の姿が在った。
男の髪は短くて柔らかい。まるで猫のような頭だとカヤは思った。
「左兵衛さん、戻りました」
「これこの通り、無事に戻ったぞ。おかしなことはなかったか、左兵衛」
「……うむ」
図書と庵原が喜びを顔に表して話しかけるも、短く頷いただけで、反応は実に素っ気ない。だからといって、他の二人の機嫌が悪くなるわけでもなく、これがいつも通りなのだろう。
「あー、小平は……、薪でも拾いに行かせてんのか?」
「ああ」
口振りからして、丸坊主の庵原がこの集団の頭目で、あと一人、小平という者がいるようだ。図書は既に足を拭いて上がり込み、小屋の奥へと去っている。
「ところで、今日の成果ときたら、まったく大したものだったよ。赤烏の軍勢に襲われていたどこぞの大社の巫女様をお助けできたんだからな。ほら、この娘さんだ」
言われて左兵衛はカヤを一瞥したが、興味なさそうに竃に近づき、火かき棒を手に消火にかかった。
「どこの巫女様か――」
「大社だ」
庵原が言い終わらぬうちに左兵衛が口を挟む。
「は?」
「都の葦那大社。……その口覆いの紋様を見ろ。巫覡部の者に相違あるまい」
「……それはまた随分と」
「しかも並の者ではないな。その娘御の声を聞いたことがあるか?」
「いや、ないな。ないが、だとしたら……」
「御言女だろうな」
「でしょうな」
いつの間に戻ってきていたのか、佐々木図書が板間にストンと腰を下ろして胡坐を作ると、未だ土間でぽつねんとしているカヤを手で招く。
庵原は目を白黒させて他の三人を交互に見るばかりで思考が追い付かないようである。
「おいおいおい……、どこぞの大身に名でも売れればと思っていただけなのに、よりによって、都の巫覡部とは随分じゃあないか。で、誰が交渉するんだ? 俺はやらねえぞ」
「庵原殿が言い始めたことなのですから、最後までやり遂げて頂きたく存じます。……ときに御言女様、懐紙はお持ちですか?」
図書の前にちょこんと正座したカヤは、コクリと首を縦に振る。
「矢立、墨壺などはございますか?」
今度はぶんぶんと横に振る。
それではと、彼は手提げの付いた盆を前に出し、彼女に示した。見れば盆の上には使い込まれた筆、墨と硯に硯屏など、書くに足りる物が揃っている。
「どうにも粗末な物でお恥ずかしいものですが、どうぞこちらでご容赦下さい。いずれ買い求めて参りますので」
カヤは、今度はぶんぶんと手を横に振った。
「お心遣い痛み入ります。さて、急なことで自己紹介が充分ではありませんでしたな。我ら三人、間の野にて祓いを生業とする者なれば、号して天球と申します。お見知りおきの程、何卒よろしくお願い申し上げます」




