第三十三話 千明岳
その御山は、名を千明岳と言った。
赤烏の記録によれば、上古より噴煙を上げ、ときにその滾りにより、周囲を煉獄の大地に変えてしまうこともあった。その猛々しい在り様は、人々から千明様などと呼ばれて畏怖され、信仰を集めていたのである。
けれど、五〇年前のある日を境に突如として煙を吐かなくなり、噴火することもなくなった。同時に、近くの温泉も徐々に温度を失いつつあるが、信仰は失われておらず、今も崇敬を集めている。
その黒い山肌をゲンタとカヤが登っていた。
ガレ場が多いにもかかわらず、この五〇年の間に木道が整備され、歩くのに難儀することは少ない。それは頂上付近に在るというお宮に詣でるための道であり、今でも御師などが整備しているのだろう。
出立の朝、「社や祠、それ以外に建物などはあるか」とゲンタが問えば、途中まで随行する宵鶸の男は「山頂に石の祠が一つ、その手前の青釜に奥宮が一つ」と答えた。
「奥宮には宮司は在しておるのか?」
「おりませぬ」
「祭事のときのみであるか?」
「然り」
このようなやり取りがあり、まずは青釜を目指すことにした。
道中は弓削が潜んでいるだろうという予測を裏切るように何事も無く、妖も、行方不明の宵鶸も、そればかりか他の人間も、その一切が見当たらない。
風は弱く、空は薄墨色。
見えるのは、気泡のようなものが無数にある不思議な形の岩と、灰褐色の土、それと薄っすら赤く色づいた低木に、規則正しく板が並ぶ木道だけであった。
そうであるから、青釜と思しき場所に辿り着いたときには、二人はすっかり気疲れしてしまっていたのかも知れない。なにせ、青く澄んだ池だと聞いていたその青釜が、まるで干上がっていたのにも拘わらず、なんとも思わなかったのだから。
その代わり、二人そろって一つ息を大きく吸い込んでから、畔にある建物を目指した。
奥宮ではない。
少し離れたところにある、もう一つの建物だ。
宵鶸から聞いていない、彼らが把握していない庵が、まるで昔からそこに存在していたように、枯淡として佇んでいる。
となれば、そこに弓削千晴の存在を思うは必然。
まだ庵まで四〇間はあろうというのに、ゲンタは鳥の嘴を模した面頬を着けて剣を抜き身で持ち、カヤは声を小さく鳴らし始めている。
そのまま如何なる兆しも見逃すまいとして、瞬きもろくにせずに近づいたが、いよいよ木戸に指を掛けようとしたそのとき、中から声がした。
「どうぞ、お入りなさい」
それはゲンタが蒲原天元の下で修練を積んでいたときに、よく聞いた声。
それは、雪が降り積もる中でカヤが聞いた敵の声。
カヤの唇が微かに震えたことをゲンタは見逃さなかった。
けれど、二人が躊躇しているところで、もう一度中から声がした。それは甘くて、粘り気のある声。
「罠などありませんよ。どうぞ、中へ」
ゲンタは剣を鞘に戻し、カヤを手で押さえながら間口の広い木戸を開ける。
そこから見えたのは、気持ちばかりの三和土と上がり框。その向こう、茶室の炉よりは大きく、しかし、東国の一般的なものよりも小さな囲炉裏の端に、その男は座していた。
内部は、障子を通った光だけがさし、薄暗い。
黄緑色の水干に、口から下がない小尉面と、あの頃とは身なりが違うが、ゲンタもカヤも一目見て、この男が弓削千晴であると確信した。
「ご無沙汰しております」
「息災そうで何より」
感情を隠して挨拶をしたゲンタに対し、カヤは睨め付けるように弓削を見ている。きっと、どの口が言うのかとはらわたを煮えくり返らせているのだろう。
そんな視線に一瞥をくれてやることもなく、弓削は茶筅を回し終え、「どうぞ。毒は入っておりません」と静かに茶を並べた。
ゲンタは何も疑わず、「頂戴します」と茶碗を回して飲み干し、カヤは何も言わずに片手で呷って、鼻息荒く床に置く。
彼女はどうしたって憎いのだ。ゲンタを殺した目の前の男への憎しみは、そう簡単に消えるものではない。だけど、今ではないと、じっと我慢する。爆発してしまうかもしれない感情を、じっと抑えつけて、漏れ出てしまわないようにする。
ゲンタも弓削をじっと見ていた。
そして、先に口を開いたのは弓削だった。
「ゲンタくん、君は用事があってここにきたのでしょう?」
「あなたは……あなたは、いったい何を成そうというのか」
問い詰めるような声でもなく、かと言って穏やかな調子でもなく淡々と。
それを聞いた彼が、面の奥で何を思ったのかはゲンタには分からない。少し微笑んだように見えたのも、きっと気のせいなのだろう。
「それほど難しいことではありませんよ。私が目指すのは、葦那言主様による白葦の統治です。そもそも君は、葦那言主様がどのような神であるのか知っていますか?」
「葦の船でこの島へ来て、島の民たちに農耕の知識、紙と葦の船の製法を授けた男の神だと」
「万神始末草子の通りですね。佐々木殿はよく調べたものです。しかし、弓削家に伝わっている話はそれとは少し違うのです」
ゲンタもカヤも頷くことなく、ただじっと、口から下がない老爺の面を眺めていた。
「弓削の家では葦那言主様を御祖様として祀っています。そして御祖様は神ではなく、大陸から渡来した修験者でした。
その法力は凄まじく、日照りに悩む村があれば自在に雨を降らせ、道を通したいときには山を割り、田畑を拓くにあたっては、一晩にして根や石を山にするほどだったのです。
そこに、白葦の島を統一したばかりの初代白帝が目を付けました。民草のためと称して召し抱え、各地の難工事にあたらせたのです。
次々とそれらを成功させた御祖様の名声は、身分の上下を問わず自然高まり、ついには朝廷から内大臣の位を授かるにまで至りました。
しかし、順調な日々は五年も経たずに終わりを迎えます。
急に出世した者は必ず妬まれるもので、その名声を恐れた白帝が巫覡部と謀り、御祖様を陥れたのです。
そのとき何の濡れ衣を着せられたのかは定かではありませんが、御祖様は、今の火輪の辺りに追放。彼の一族もその悉くがこの島の至る所に流されたのだとか。
そうして御祖様は、朝廷への呪詛を練りながら即身成仏となったのです」
「それで、その末裔である弓削家のあなたが朝廷を打倒し、先祖の恨みを晴らしたいと?」
「いいえ、違います。あなたは何か勘違いしているようですが、弓削家だけが御祖様の子孫であるわけがないでしょう。彼は各地を飛び回った末に東国に、一族はばらばらに流されたのですから」
「……まさか」
「その通り。御祖様の血は、我が一族のみならず、今やこの島の多くの民に流れている。それは、彼を裏切った白帝や巫覡部とて例外ではないでしょう。つまり朝廷への復讐は、既に血によって終わっているとも言える。だから、朝廷などどうでもよいのです」
「だったら――、いや」
だったらどうして巫覡部正永を刺したのか。しかし、ゲンタはその問いごと自分を飲み込んだ。今は聞かねばならぬのだと、拳を握りしめ、開きかけた口を噤んだ。
「ふむ。君は……君たちは、なぜ葦那言主様の御名が揃っているのか、考えたことはありますか?」




