第三話 阿和村
一年が経った。
烏兎怱怱。月日に関守なく、光陰惜しむ可し。
老いた者には一瞬、若草のような者からしてみれば、それでも人間を変えるには十分な時間だった。
毎日。
毎日毎日、毎日毎日毎日、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日絶望し、掻き毟っていたカヤの首筋も、今ではすっかりをその若さを取り戻している。
大社での日ごとの勤めも恙なくこなし、白衣に葦葉の袴も、今では墨で汚すこともなく、まるで昔からそうであったかのようにすっかりと板についていた。
けれど、そこに声はない。ただ静かに、ただひたすら静謐に毎日を繰り返していた。ゲンタには、会うことはおろか噂の一つすら聞こえてこない。
気配を殺して大社の外へ出ようと試みたこともあったが、必ずどこかで誰かに声を掛けられた。常に、見張られているのだ。人の好さそうな小間使いの女も、惚気話を聞かせてくる衛士も、みんな、みんな、巫覡部の職務を忠実に守っているのだ。
「御言女様、いよいよ民に存在を知らしめる巡行の勅許が下されましてございます」
或る日、草色の水干を纏ったあの男が、平伏しながらカヤにそう言った。
およそ一年ぶりに聞いた耳障りな声に、お前に捕まりさえしなければと思ったのだが、それをわざわざ懐紙に書いて伝えるのも面倒である。だから、薄布に隠された口を、大袈裟にへの字に曲げることをもって感情を表した。それはきっと目も歪めているのだろうが、どうせ多くの者はカヤの目を見ない。
未来を編むが故に崇められ、奉られ、未来を編むが故に畏れられ、怖れられ、そして祀られる。
もうどうしようもなく人ではなく、人でなし。
いっそ傲慢な神のふりでもしようかと。
けれど、神は示すばかりで口がない。
噤祝の儀の何が祝か。
己を屠り、神の口を作る呪ではないか。
人でなく、神でなし。
然らば己はなんであるのか。
彼ならば。
彼ならばこんな己を定義しようにも、都より後の行方は杳として知れず。
巡行の間、銀象嵌螺鈿漆塗りの女乗物に押し込められ、御簾越しに民衆を見ながらも、カヤはそんなことばかりを考えていた。
そうして二週間後、凛と構えた佇まいを演じていたカヤの巡行は、赤烏との国境にほど近い阿和村に差し掛かった。
およそ百年前に興った赤烏は、元々が白葦の一部だったため、建国以来、両国の間では戦が絶えない。そうなれば、東の峠を僅かに一つ越えれば赤烏という場所にある阿和村への巡行については、当然、朝廷内から反対の意見があった。
しかし、五十年ぶりの御言女である。巫覡部の熱意に押され、御三卿の残りの二家も警護を出すという条件で、隅々に至るまで、国内遍く村々への巡行が決定したのだった。
したがって、行列の供をする者がいつもより多かったのだが、宿ですら満足に景色を見ることがかなわないカヤが、そのことに気付くはずもなく、警護を与る武部の者の位が、それまでよりも低いことなど、尚の事である。
そしてその日はやってくる。
ほど近い大きな村落で一泊し、朝もやの晴れる前に出立した巡行の行列は、巳の刻の内には阿和村に差し掛かり、東からは夏の盛りにおいても木の少ない灰色の山が迫ってきた。
待ちきれない幾人かが、急ごしらえの道の脇でうずくまるように頭を垂れているが、その人数は他よりもやはり少ない。
百年より前であれば、この村も峠を行き来する人々でさぞかし賑わっていたであろうが、赤烏がある今となっては、その想像も詮ないことである。それでも、カヤが御簾から薄すらと覗く景色に障害物は少なく、代々にわたって挫けることなく土地を拓いてきたことが分かる。
人々の好奇の目に晒されながら、一行がやがて集落の中ほどまで進んだ頃、幾筋かの煙が見えた。
「あれは飯炊きか?」
馬に跨り得意気に先頭をいく草色の男が、手近な集落の男に問うが、「あの辺りには、確か家はなかったはずです」と、その反応は芳しくない。
「急ぎ柵を作れ! 寅より敵襲の気配有り!」
間を置かずして、武部の若い侍大将の声が木霊し、一気に慌ただしくなってきた。怒鳴るような大声とともに、多くの足音やガチャガチャとした金属の音がカヤの横を通り過ぎ、遠くからも同じような音が聞こえてくる。
「御言女様をお守りせよ! ここが命の捨て時ぞ!」
勇ましい言葉と悲鳴が交錯する。
馬の蹄の音が遠のいていく。
カヤの乗った駕籠が後退する。
けれど、彼女の耳に飛び込んでくる音は一向に小さくならない。
ときおり、火縄銃の銃声が十重に二十重に聞こえる。
阿和村の住民は無事に逃げ出せただろうかと、どこか他人事のようにカヤは思っていた。
駕籠がガクンと落ちた。先に前方、次いで後方も。
そうだというのに、カヤの心は不思議と凪いでいた。
駕籠の戸が横に動き、朱塗りの籠手が中に入ってはすぐに引っ込んだかと思うと、目の下頬を着けた鎧武者の顔が覗いた。
「御言女様にあらせられるか?」
この期に及んで何を誤魔化す必要があろうかと、カヤは動揺もせずに一つ頷く。
――この小川 霧そ結べる たぎちたる 走井の上に 言挙げせねども
どこからか声がした。
刹那、辺りに濃い霧が立ち込め、やや遅れて鎧武者が白目をむいて倒れた。それは連鎖し、駕籠の周辺にいる者たちが次々と倒れ伏す。
二人。土を踏む音が聞こえ、今度は黒い水干の男が、今なお駕籠の中で泰然自若としているカヤをギョロリと覗き込んだ。




