第二十五話 宵鶸
白葦の島には神様がいた。
八尋の神の国には数えきれないほどの神様がいて、皆がいくつかの名前、いくつかの体、いくつかの心を持っていた。
その中にあって、葦那言主だけは違った。
その神様の名前は一つだけだった。
体も、心も、一つだけだった。
それ以外は存在しないはずだった。
海内にその名を知られた佐々木図書によれば。
しかし、今、ゲンタとカヤの目の前にある祠はどうだろうか。
字も読めぬほどに苔むした石のそれを、慎重に指でなぞれば、朧気にではあるがかつて存在した祭神を知ることも叶う。
曰く、足名命と。
この島の西端にほど近く、海を臨む丘の中腹にそれはあった。
生い茂った木々に囲まれ、近隣の集落の住民にもほとんど知られていなかったが、ただ一人の老爺だけがこの祠の存在を知っていた。
ゲンタとカヤは、木々に分け入るその老爺をたまたま目撃したお陰で、そこに辿り着くことができただけだった。
「ねえ、ゲンタ。図書さん、こっちに来なかったのかな」
「……そうかも知れないな」
それからは、西の端に点在する海辺の集落のいくつかで、一部の老人だけが知っている、苔むし或いは朽ちかけた祠や社が見つかった。
その多くは、祀っている神の名が失われて久しいが、ごく一部には彫られた文字が残っているものもあった。
御言主、葦名言主、そして最初に見た足名命。
残念ながら読みは分からないが、いずれも葦那言主のことであろうと容易に推測できるものだった。
果たしてこれらはなんであろうか。
葦那言主を祀った社は、手入れがされているものが多い。
また、比較的大きなものであれば、当たり前のように弓削家から寄進された記録が残っている。巫覡部家ではなく弓削家から、という点に、ゲンタはやや違和感を覚えてはいたが、御三卿の傍系であり、家格の高い彼の家ならば、そういう付き合いもあるのだろうとも思う。
いや。そもそもが、葦那言主と同じであるというのは、思い込みなのだ。そうなれば、異なる神の可能性もあると、彼は粗雑な懐紙に記録していった。
「見つからないね」
「捜し続けるしかあるまい」
西の貧しい村々を巡る中で、この会話を何度したことだろうかと、海の彼方に見える大陸を眺めながらゲンタは思う。
もう一通り巡ったというのに、目撃情報の一つもない。
定期的に都とやり取りしている文鳥にも、他の者が見つけたとか、そういったものは一切なかった。
「次はどこへ行くの?」
海辺の少し良い宿で寛いでいたときに、カヤがいつものようにゲンタに聞く。
カヤもすっかり疲れているだろうに、それを表情に出すことはない。
「来た道を戻り、もう少し話を聞いてみようと思う」
「アタシも葦那講の人たちに声をかけてみれば良かったかなって。あの人たち、色々なところを巡っているから、何か見ているかも知れないよ」
「そうだな。そうしよう」
そのとき、ゲンタが俄かに剣を取って鯉口を切り、僅かに開いた入口を睨み付けた。
見れば引き戸の向こうから男が様子を伺っているようである。
「……誰だ」
「お二人に少々お話が」
ゲンタが問えば、どこかで聞いたことがあるようで、だけど初めて聞くような、少し低い男の声で返事があった。
「俺はない」
「そうも言っていられない。中に入ってもよろしいか?」
「刀剣の類いは?」
「今は空手にて」
「本当か?」
「襲うつもりなら、このような問答はしておらぬ」
「……分かった。入れ」
すっと引き戸を開けて現れたのは、やはりどこにでもいるような丁髷頭に筒袖の男だった。
しかし、先ほどの話し方といい、町人とも農民とも違って、どちらかと言えば武士のようだと、カヤは思っていた。
「何用か」
「拙者、赤烏が宵鶸の者」
するとゲンタは目にもとまらぬ速さで剣を抜き、片膝立ちに、その切っ先を男の喉元に突き付ける。
「赤烏の草の者が何をしに現れた」
「単刀直入に言う。白帝並びに我が君が、そなたらに会いたいとお望みだ」
「なぜそこで帝の名が出る。……カヤ、戸を閉めてくれ」
宵鶸の男は正座のまま微動だにせず、カヤの動きを目だけで追い、戸が閉まると口を開いた。
「子細は話せぬが、そちらの帝は今、こちらにおられる」
「かどわかしたのではあるまいな」
「ここでは話せぬ」
ゲンタの目つきがいっそう鋭くなるも、男は表情を崩さない。
「が、こちらは弓削千晴の情報を持っている」
「……話せ」
「先ほどの申し出を受けるなら教えよう」
「断ると言ったら?」
「お主らが弓削の手掛かりを一つ失うだけだ」
ゲンタが横目にカヤを見ると、彼女はこくんと頷いた。
それからゲンタはまた視線を男に戻す。
「分かった。赤烏に行けばいいのか?」
「話が早い」
「だが、こちらは勝手にとはいかない。上の許可を取るからそれまで待って欲しい」
「承知した。少し早いが約束を果たそう。そちらの上の許可とやらの役に立つはずだ。お主らが捜している弓削千晴だが、今は赤烏に潜んでおる」
「そうか」
「許可が出たら都の五代堂という薬屋を訪ねよ。番頭に、鶸はどこにいるか、と問えば、つないでくれよう」
「そうか」
「それでは拙者は失礼いたすゆえ、……そろそろその物騒なものをどけてくれまいか」




