第二十三話 赤気
天球の面々は、白穂大路を東へ向けて駆けた。カヤは余程足が速いのか、その後ろ姿は見えない。けれど、向かった先はゲンタがいるであろう宮城門の前に相違ない。
雪が積もり始めた泥濘の都大路を、彼らは一心不乱に駆けた。
どれほど駆けた頃か。朱塗りの巨大な全貌が見えたとき、その前の開けた場所にある三つの人影も見えてきた。
四人は、少し離れたところにいる影の一つ、カヤの傍に陣取った。
残る二つの影は、ゲンタと白狐面の男である。二人とも具足の一つも付けずに、片や卯の花色の童水干に宝剣、片や赤紫の狩衣に太刀で激しく打ち合っていた。二人とも口が頻りに動いていて、会話をしていることを窺わせるも、打ち合う音と降り続く粉雪にかき消され、その内容は杳として知れない。
カヤは、……カヤは両の拳を固く握りしめ、不安そうにゲンタを見つめていた
ゲンタが強いことは間違いない。十日ほど前に天球とやりあったことも糧にして、更に技量を高めていることだろう。彼の持つ七星の宝剣は、そのときよりも白く青く輝き、いっそう冴え冴えとしている。
だが、白狐面のあの男。あれは得体が知れない。ゲンタがその刃に呪を込めている一方で、彼の者もまた太刀に呪を乗せ、その刃を赤黒く染めていた。二人の打ち合いを見るに、その太刀捌きは明らかに白狐面の方が上であると断定できる。
その中に自分たちが入って良いのか。入れるものなのか。ゲンタに助太刀できるものか。庵原は迷っていた。
個々の力量で言えば、明らかに城門前の二人の方が上なのだ。単純な剣術の腕前ですら、左兵衛はゲンタに劣り、白狐面の男などには到底かなわないだろう。
だが、天球は三人である。ゲンタに三人で助力すれば、さしもの白狐面の男でも退けられるのではないか?
それにしても――
「あ」
庵原は思い出した。あの太刀、あの身のこなし、あの呪の気配を。
弓削千晴。
武部家の傍流、弓削家に生まれ落ち、その刃の如く鋭い才により、蒲原天元にも認められた男。
思えばあれも弓削の紋ではなかったか。
ゲンタが声をあげ、三つ続けて突きを放つ。
弓削はすいっと後ろに二度下がってそれを躱し、三撃目を太刀で横から弾いた。
ゲンタは即座に後退し、右手で形代を二枚取り出して地面にすいっと投げる。
「よし、行くか。左兵衛、図書。ゲンタに与力するぞ」
庵原が覚悟を決めたように声を掛けた、その視界の中で、ゲンタの形代は見る間に二体の鬼となり、そして、ゲンタの左腕が斬り落とされた。
天球もカヤも、斬られた本人ですら何が起こったか分からない。それだけ、弓削の動きは素早く、微塵の躊躇もなかった。
目を見開いたゲンタに向けて、もう一撃。
弓削の赤黒い刃がゲンタの体を貫き、鬼が消えた。
太刀を抜かれたゲンタのその身が雪の上に崩れ落ち、白い地面が赤く染まり始める。
「小平! カヤを押さえろ!」
庵原は、カヤが壊れてしまうと思った。駆け出して、その目で死を認めてしまえば、人の心などもうどうしようもなく簡単に壊れて、崩れて、失われてしまうのだ。
カヤは涙を流し、音のない叫び声をあげる。庵原と小平に両腕を掴まれながらも、その小さな体を暴れさせ続けた。
「左兵衛、図書! 奴は危険だ! 奴を、弓削千晴を追い払え!」
左兵衛は無言で前に立ち、図書は「承知」と返事をする。
雪はまだ止まない。
正眼に構えた左兵衛がじりじりと間合いを詰める。
「荒たえの 布衣をだに 着せかてに かくや――」
けれど、図書が詠い終わる前、突如現れた大きな赤黒い手が、彼の頭を握り潰した。
左兵衛が異音に気付いて向き直ったとき、既に彼の体は縦に裂け、左と右がばらばらに倒れた。
一瞬だった。
「ちくしょう! ちくしょう! よくも二人を!」
庵原はまるで仁王の如くに頭まで顔を紅潮させ、カヤのことも忘れて十歩、二十歩と前に出て、一息に無数の形代を放つ。それはまるで龍のように大きなうねりを作り、庵原の周囲を回り始めた。それと同時、呪符を一枚左手で立て、右手で九字を格子に切る。
弓削は、それをじっと見ていた。
「羅睺招来!」
言い終わるや否や呪符を飛ばせば、形代もそれを追いかけ、一団は朱色の大きな炎となって、猛烈な速度で弓削に迫った。庵原は弓削を逃さぬよう、炎の後を駆ける。
だが、弓削がいた場所に炎が到達した瞬間、庵原の体は上下に分かれ、地に伏した。
その横に佇む白狐面の男が、何をするでもなく、じっとカヤを見る。
真っ白な雪は、まだ降り止まず、いよいよその勢いを増す。
小平は真っ青な顔で卒倒した。
カヤは膝を抱えてしゃがみこみ、涙も枯れたというのに、唇を震わせて泣いていた。
「叫べ!」
そのとき声がした。
「君の心を叫べ! 君はどうしたい? 叫ぶんだ、君の心を!」
二度目。
カヤは顔を上げ、視線を彷徨わせる。
上からだ。上から聞こえた。
見れば、宮城門の高欄から一人、身を乗り出している者が在るではないか。
顔は影になって分からない。けれど、カヤには聞き覚えがあった。擘浦の茶屋で一度だけ会ったあの声だ。
弓削は変わらず、血に染まった雪の上で、じっとカヤを見ていた。
「叫べ! 想いがあるのなら!」
三度目。
けれど、叫んだところで、この状況が変わるとは思えなかった。
庵原狐太郎、佐々木図書、古江左兵衛。つい先刻まで三人だった骸が白に沈んでいく。
皆、優しかった。素朴に生きていた。悪人ではなかった。我儘をきいてくれた。
そして、ゲンタ。
草浜村で共に育った唯一の幼馴染。
朴訥としているくせに、顔にはどこか気品が漂っていた。ゲンタもまた優しかった。会えなくて寂しかった。想いを素直に伝えられなかった。添い遂げたかった。村でずっと一緒に生きていくんだと想っていた。
――想いが、あった。
叫べ。叫べ。その想いが雪で凍えてしまう前に。
口を開く。
喉に空気を通す。
声が出ない。
雪が降る。
涙が零れる。
大きく、大きく息を吸い込む。お腹など破れてしまったって構わない。
赤ん坊の頃はどうやって泣いていたのだろう。
両親にどうやって気持ちを伝えていたのだろう。
ゲンタと何を話していたのだろう。
声を、どうやって出していただろう。
カヤの目からはポロポロととめどなく涙が溢れ始め、しゃっくりが出た。
赤子のようにうわんうわんと大きな声で泣いた。
「会いたい」
会いたいんだ。
「もう一度、会って話をしよう」
寂しい思いをさせてごめんって謝ろう。
「それから、それから、それから沢山話をしよう」
だって、結婚の約束をしたのだから。
「好きだったんだから、ずっと一緒にいたかったんだから」
涙もろい狐太郎さんも、理屈っぽい図書さんも、不愛想な左兵衛さんも、みんな、みんな笑顔でお祝いしてくれるんだ。
だから。
「どうして皆、アタシを置いて行っちゃうのよ。置いていかないでよお……」
泣きながら、まるで子供のように大きな声で零したカヤに、いつの間にかゲンタが手を差し伸べ、立っている。
カヤはその手を取って立ち上がり、涙に霞む視界で周囲を見れば、三人の骸はその傷痕から触手のような肉芽が無数に生え、肉体を再生せんと蠢いていた。
白狐面の男はすっかりと姿を消していた。
否。
頭上から甘く酷薄な笑い声がした。男は宮城門の屋根の上にいたのだ。
「弓削千晴! 貴様の目的はなんだ!」
ゲンタが叫ぶ。
赤輝の空の下で、弓削は嘯く。
「いよいよ白葦は真に葦那言主様のものとなるのだよ! それこそが我が弓削家の、私の悲願! 喜ぶがいい。ただ神に縋ることしかできない凡愚ども!」
直後、弓削は空に溶けた。終わらない悪夢のような赤昏い空に。
「あ痛たたた。おい、こいつはいったいどうなってるんだ」
「ゲンタ君が生きているとは……。小生は夢でも見ているのか」
「図書。お前さん、確か頭を潰されて死んだはずじゃあ……」
庵原、図書、左兵衛は、狐につままれたような顔で立ち上がり、ゲンタとカヤに釣られて空を眺めた。どこまでも赤く舞う薄衣の空を。
* * *
あれから一ヶ月が過ぎた。
都の反乱勢力と妖は粗方排除されたが、なお予断を許さない状況が続いていた。
朝廷は今上帝の雲隠れと、巫覡部正永の死により当初は混迷を極めたが、武部一胤、蒲原天元の健在と、都に居座り続ける擘浦長元の助力により、政務を通常通りに行なえるまでに、その機能を回復させた。
天球はそのまま都に拠点をおき、未だ被害の絶えない妖退治に追われる毎日だった。
カヤは御言女の役目を解かれ、ゲンタと共に旅に出た。
草浜村に落ち着きたいカヤをゲンタが説得した、と表向きにはなっているが、実際は蒲原天元の命で弓削千晴を追討することになったゲンタに、カヤが勝手を言って同行しているのが現状だった。
果たして二人の道行きには何があるのか。
きっと困難が待ち受けているに違いない。
それでも、今の二人の空は青く輝いていた。




