第十五話 惑わせ狗
左兵衛が勾配のある森の中を駆け抜け、枯れ枝の音を次々鳴らす。
庵原が飛ばした形代は、意志を持っているかのように高度を一定に保ち、右へ左へと折れてゆく。
小さな尾根を上り、再び下った先はやがて元居た場所に戻るようにも思えたが、そこには庵原も図書も小平も、ましてや海部久忠らの姿も見えなかった。
あるのは奇妙に蛇行した一本のブナの木と、その前にピタリと佇む形代だった。
左兵衛は瞼を一度固く閉じ、くわっと開いてその木に臨んだ。所々、藻のようなもので覆われている斑の木肌を、ほんの少しも見逃すまいとして、まばたきもせずに目で舐めまわす。
やがて視線が止まった先、枝の根元にあったのは、短冊のようなものだった。
けれど、それは短冊ではなく、五芒星と北斗星、その下に読み方の分からぬ字が流れるように書いてある呪符だった。小太刀の柄に巻き付けてあるものとよく似ているが、字の部分が異なっている。
目線よりはやや高いところに釘でとめられたそれに対して、左兵衛は肚に巡らせるように深い呼吸を一回。
数瞬の後、感情の無い瞳で、一突きに呪符の文字を貫いた。
――あと、二つ。
左兵衛は心の中で呟き、再び宙を滑り出した形代を追う。
恐らく敢えて選んでいるのだろう。二つ目の呪符も、一つ目と同じような外見のブナに打ち付けられていた。今度はすっと刃を通し、記号と文字のつながりを断つ。
残りは一つ。
刃物の扱いがからきしダメな庵原はともかくとして、図書や小平も呪断ちを行なえば早く済むと左兵衛は思うのだが、けれど、このような道惑いの術の中を案内する形代は庵原にしか飛ばせず、刃を交えることもある危険を考えれば、二人にはなかなか難しいことなのだろう。そもそも彼らは左兵衛と違って具足の一片も身に着けていない。細い鎖で編んだ帷子などを着こみ、図書は弓を携えてはいるが、左兵衛や捕吏のように腹巻、鉢金、籠手に臑当などという格好ではなく、元より前に立たずに事を済ませる流儀なのだ。
そんなことを頭の片隅で考えるうち、やはり奇妙に曲がったブナの木の前で形代はピタリと止まり、左兵衛に呪符があることを知らせてきた。
だが、呪符を探そうと歩を進めようとした刹那、左兵衛は後ろに飛び退いた。
見れば、足を置こうとしたその位置には、一つの小さな黒い影が牙をむき出しにしているではないか。
これが惑わせているのかと、改めて野犴をまじまじと観察すれば、耳は丸く、全体的に線は細い。狐か犬の姿形をしているものは、呪を使いこなせぬ左兵衛とて、庵原たちとともに何度も目にしてきたが、目の前で唸るようにしているのは、まるでイタチかカワウソのようである。もっとも、その目は切れ長で、それらのように円らではないから、どうにも気味が悪い。
左兵衛が様子を見ていると、黒々とした毛艶がぬるりと地面を這い、右足に猛然と近寄ってきた。わざわざ革を重ねた誂えの毛沓を履いてきたとはいえ、あの牙で咬みつかれてしまえばひとたまりもないということを、左兵衛は経験から即座に察する。
まずは分かり易い突進を足さばきだけではらりと躱す。
そして斜め下にすっと刃を突き出した。
元より当てる気などなかったが、そこに既に野犴の姿はない。けれどその目は、ぬらりとした姿を捉え続けていた。
今度は木をするすると上がる。となると、次の行動はと、左兵衛は差していた鞘を引き抜き左で構えた。
果たして、黒光りする獣は手頃な高さの枝から、踊り掛かってきた。
――好機。
予想通りの動きに左兵衛はまず鞘を振り降ろし、野犴を地面に叩き付ける。次いで小太刀を――、と思ったが件の獣は強かに叩きつけられたにも関わらず、実に素早く動き、手近な幹の裏に隠れてしまった。
呪符があると目されるブナは左兵衛の背中にある。そちらを優先すれば野犴に襲われ、野犴を優先すれば素早く立ち回って、呪符を破壊させないようにする腹積もりなのだ。
だから左兵衛はそのまま後ずさりした。野犴が隠れた木を正面に見据え、じわりじわりと移動して、そうしてブナの木の半分以上が視界に入る位置まで後退することに成功した。野犴の姿は見えない。
さて、ここから野犴に備えつつ、呪符を探すかと左兵衛が気持ちを切り替えた頃、左耳が聞き馴染みのある音を拾い始めた。
ホー、という高い音。
それはどんどんと大きくなり、やがて眼前のブナにコンと当たって砕けた。
左兵衛が当たったところを探せば、目線よりもかなり低い、それこそ木の根本付近に呪符がある。蟇目鏑矢が当たったせいか、少し破れてはいるが、恐らくこれでは充分ではないだろうと一突きに文字を壊せば、野犴がポトリと落ちてきた。それは毛氈の如く動かず、やがて霧散するように消えた。
「左兵衛さん、大丈夫ですか?」
気付けば背後に図書がいて、更に庵原、小平、海部の捕吏たちも追い付いていた。
「ああ」
左兵衛が野祓い屋崩れに気取られないように静かに首を縦に振るも、一人、静寂が苦手な男が気遣いごと打ち破る。
「庵原とやら、賊はまだか。まだ見つけられぬのか?」
「海部様、もう少しで見つかりますから、それまではどうか声を潜ませてください。向こうに見つかれば、逃げられてしまいます」
相手は度々捕物から逃げおおせてきたというのに、この海部という若造はどうしてこうも堪えられぬのかと、庵原は今も冷や冷やしている。うっかり賊の一人でも見つけようものなら、この若武者はろくに策も練らずに正面から突っ込めなどと言いかねず、それをどうやって押しとどめようかと、庵原はそればかりを考えているのだ。
「庵原、呪符だ」
そのとき、左兵衛が破壊した呪符を庵原の手のひらにひらりと置いた。どれも穴が空いたり、斬られた箇所こそあるが、紋様や文字らしきものを読めるほどには状態が良い。
それらを一頻り見た庵原は眉根を寄せたかと思いきや、俄かに表情を明るくして、海部と話し始めた。
「海部様。賊の居場所がわかりそうですぞ。この辺りの地図はございますかな?」
「無論だ。ほれ」
「峰がここで、呪符のあった場所が、この三カ所と。ふむふむ。そうすると……」
「おお、なるほど。そういうことか」
それを傍らで眺めていた海部も何か閃いたようで、顎に手を当てて頷き始めた。
「呪符は擘浦の町と比良峰の頂、そのどちらから来ても対応できるように貼られておりました。となれば、その奥に連中の塒があると見るのが妥当でしょう」
「うむ。拙者もお主と同じ意見だ。そうすると、尾根を一つ越えた先、ここの沢伝いが怪しいのう」
「そのようですね。早速、参りましょうか」
「うむ。しかし、また法師陰陽師が罠を仕掛けているのではないか?」
「ご心配には及びませんよ。向こうはあれが精一杯でしょう。となれば、後は言わずもがな」
「拙者の出番というわけだな。よし。皆の者、もう少しだ。ここより北、尾根向こうの沢をあたるぞ」
大きかった海部の声も、ここへきて流石に学習したのか小さくなり、配下の捕吏たちを鼓舞すれば、疲労の色が見えていた者たちにも生気が宿った。
そうして僅か一刻半の後、比良峰を騒がせていた野祓い屋崩れは、一刀のもとに海部久忠に斬り伏せられた頭目と思しき男を除き、全員御用となった。
庵原の言う通り、塒を襲撃されるに至ってもなお、呪の一つも漂わず、これも名前ばかりの野祓い屋によくある末路だった。




