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第十一話 鶴屋

「兄貴たち、よくぞご無事で!」


 鶴屋という(ひな)びた旅籠(はたご)に辿り着いたのは、正午を少し過ぎた頃だった。

 愛想の良い主人に狐太郎と名乗ると、部屋では銀杏髷の小平が待ち構えていて、それはもう顔をこれでもかとくしゃくしゃにした随分な喜びようだった。

 鶴屋は、都から二十一里と十四町(およそ八十四キロメートル)ほど北の、擘浦(はくら)という大きな港町にあった。擘浦(はくら)上津(こうづ)の国に在り、その上津(こうづ)の国は都のある百穂(はくほ)の国と接している。

 通常、老沼周辺の土地は全て天領である。即ち国司(くにつかさ)を置かず、白帝が代官を任命して統治する土地なのだが、南北の幅が狭い上津(こうづ)だけは例外だった。

 現在の朝廷につながる勢力が大きくなる頃には、既に擘浦(はくら)にも力のある勢力があり、そのために今のような国分けになったとも言われているが、そのお陰で海の港で陸揚げされた商品を、少ない日数で老沼北岸の港に運び、そこからさらに(みやこ)に運んで売りさばくことができる。そうして、上津(こうづ)、ことに擘浦(はくら)は大いに栄えてきたのである。

 そしてこの上津(こうづ)も、白葦(はくい)の一部であって、朝廷から任命された国司(くにつかさ)が統治していた。だからと言って、都の兵士がずかずかと乗り込んで良い土地でもなく、更には様々な人間が盛んに出入りする。天球がここを逃げ場に選んだのはそういう理由だった。


「――カヤ、と言うのですか。(かや)は人の生活に欠かせぬもの。実に良い名ですな」


 鶴屋の一室で人心地ついた一行は、まずはカヤの名前を確認していた。着るものは今着ている小袖のようにどうとでも誤魔化せるが、流石に市中で御言女(おことめ)様などと呼ぶわけには行かない。都から離れているとはいえ、葦那言主(あしなことぬし)信仰は当然のようにあり、そこから騒動になればたちまちのうちに都に知れ渡ってしまうだろう。

 宿帳に記した(こと)という偽名を使っても良いが、天球の面々であればともかく、カヤが慣れぬ呼び名でぼろを出すよりかは、むしろ本来の名で行動した方が良いと判断したのだ。それに、今の国司は朝廷と距離を置いているという噂もある。本名で呼んだところで、御言女(おことめ)であるとは気付かれないだろう。

 そうして一頻り鹿爪らしい顔でヒソヒソと方針を確認した後、庵原が毅然と「カヤに擘浦(はくら)の町を見せてやりたい」と言い始めた。

 左兵衛は「手前はしばらくここから通りを眺めて様子を探る」と言い、図書は「荷物の確認と手入れを先に済ませるべきでは?」などと御尤(ごもっと)もなことを言うのだが、庵原はともかくカヤも両の手を握りしめて目を輝かせるものだから、仕方がない。

 結局、「庵原殿はいつもの水干では目立ちますから、小袖を着流して繰り出すのならば、無用の争いには巻き込まれないでしょう。カヤ様は頬の紋様が目立ちますので、必ず袖頭巾(そでずきん)をお召しになって下さい」と図書が折れ、庵原、カヤ、小平の三人で、物見遊山に擘浦(はくら)の町を練り歩くこととなった。


 鶴屋の前は、まずは石造りの水路がある細い道である。商売人や船乗り、荷役人足が行き交う活気のある街道からは離れていて、擘浦(はくら)の住民たちが慎ましく暮らしている、そんな雰囲気が漂ってくる静かな道だった。

 けれど、この道も緩やかな弧を描きながら、最後は港へと続いていて、そちらに近づくにつれ、どんどんと静かな雰囲気は失われ、潮の香りと共に賑わいが顔を見せてくる。それは別の感情を連れてくるもので、その切り替わりもこの港町の魅力なのだろう。

 そのように道の両側に並ぶ簡素な木戸の景色が、商品を陳列した(たな)に変わってくると、次々と乾物や、或いは珍しい調度品、螺鈿(らでん)の櫛などが現れ、カヤの眼を惹きつけていた。


「カヤ、何か欲しいものがあるか?」


 そうなってくると、つい気持ちが大きくなってしまうのが庵原狐太郎という男の良いところであり、悪いところでもあった。

 何せ、カヤが錦の反物を眺めているときに言うのである。

 天球の懐事情を知っている小平は思わず顔を青くしていたが、父親のように快然(かいぜん)とカヤに視線を送る庵原が気付きようはずもない。むしろ、カヤが小平の青い顔に気付いて遠慮している風にも見えた。

 そんなことだから、カヤは高そうなものが見える店は足早(あしばや)に通り過ぎ、何も買うことなく港の近くまで来てしまった。

 もちろん、港に来たら来たで、故郷の草浜(くさはま)村や都に居続けたのでは到底見ることができなかった、海を望むことができる。鶴屋で嗅いだものよりいっそう濃くなった潮の匂いに、カヤはどこか慣れなかったが、冬の薄灰色の空の下で大きな入り江に浮かぶ船の数々に、一際眼を大きくしてはしゃいだものだった。

 結局、一通り町を見て回ったところで、カヤが庵原に欲しいと願ったものは、干物屋で並んでいた小さなアジのみりん干しだけである。

 庵原にしてみれば「櫛や反物じゃなくて良いのか?」であり、小平からしてみればカヤを拝みたくなる行動であるのだが、当の本人からしてみれば、ただおいしそうに見えたから食べてみたいと、ただそれだけのことだった。

 そうして軽快な足取りで旅籠に戻り、暮六つ(くれむつ)の鐘をきく頃には、追手から無事に逃れられた安堵からか、こうして一日を平穏無事に終えられると、そう思い込んでいたのだが――


「もし、庵原様。お知り合いの方がお会いしたいと申しておりますが、いかがしましょう?」


 (ふすま)の向こうから、鶴屋の主人の丁寧な声がした。

 途端に庵原たちの顔は強張り、一人、カヤだけがニコニコと佇んでいる。


「小平、この場所を誰かに知らせたか?」


 たまらず小平はその手毬のように丸い顔を青くして、ぶんぶんと横に振る。


「この辺りの野祓(のはら)い屋にだって知らせておりませんよ」

「ああ、山の上の奴らか。だとしたら誰だろうな。……おい、主」

「はい」

「断ることはできないか?」

「それが、どうにも難しいお方で」

「あい分かった。この部屋に通してくれ」

「かしこまりましてございます」


 カヤを衝立に隠してすぐのこと、ぎ、ぎ、と階段を上がってくる音が二つした。

 音の一つは主人のもの。もう一つは客人のものであろう。


「庵原様、お連れしました」

「うむ」


 庵原の返事で主人がすっと(ふすま)を開ければ、そこにいたのは、どこぞの武家の隠居といった風情の、白髪の銀杏髷の男だった。


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