第十話 葦の原にて鶸の鳴く
ちゃぽん、ぎぃ、と申し訳なさそうに少しの音だけを立てて、夜更けの老沼を小舟は泳ぐ。
「丑の方角へ進め」
朝廷の追手と思われる篝火に迫られた庵原は、舟を漕ぐ左兵衛にそう指示をした。
「それでは分からん。方向を指で示してくれ」
「おう」
湖面に立ち込める深い霧により、月や星ばかりか、立てられる山も到底見つけることはかなわない。必然、夜空に式神の鷆を放った庵原が、頼みの綱になった。
緊張している庵原と左兵衛に対して、図書はどこかのんびりとしていた。
それもそのはず。鷆の視界では、西から迫っていたいくつかの朱色の光が、統制を失い、ばらばらに動いている様子が見て取れた。これも彼が呪を込めて風に流した歌のお陰であろう。もっとも、口から宙に放たれた呪は、空気に触れるとどんどんとその力を薄め、やがて自然の理のようにどこかへ吸収されてゆく。それは、もうどうしようもなく真理なのだ。
人の口から出たそれを捻じ曲げるものがあるとすれば、それもやはり人の手によるもので、呪を乗せた言葉を間断なく継いでゆけば、それはいつまでも続くものだった。
図書は思う。果たして誰がそのように決めたのだろうかと。
葦那言主。彼はふとその神の名に思い当たった。
まだこの島の民が文明を持っていなかった時代に、その男神は葦船を漕いでやって来て、畑の耕し方、葦船や紙の作り方、そして文字と言葉を伝えたと言う。恐らくそのときに言葉による呪が発明されたのだろう。或いは、この島にそのような定義がなされたと、そう言ってしまってもいいのかも知れない。
そう思えるほどに葦那言主は異質で特別で特異で異常な神だった。
例えば、この島の他の神であれば、名前に多少のばらつきがある。
例えば、この島の他の神であれば、その名を表す文字にばらつきがある。
例えば、この島の他の神であれば、その性質の一部を切り離した別の神格があることも多い。
だが、葦那言主にはそれがない。一切存在しない。徹底されている。徹底して葦那言主は葦那言主しか存在していない。神としてその性質が確立しているのだ。
故に異質、故に特別、故に特異、故に異常。
いかにその口たる御言女がいたとしても、おかしい。
図書も覡としてその身に神を降ろすことはあれども、その気配は儚く、覚束ない。だからこそ、名が揺れ、字が揺れ、性質が揺らぐのだ。
だとしたら、葦那言主とは、御言女とはいったいなんであるのか。
カサカサ、カサカサと枯れた葉が擦れる音が耳に入り、図書はハッとして顔を上げた。
舟は庵原の目論見通り、老沼北東部の広大な葦の群生地に入り込んだのだ。その広さがために岸が見えず、葦の大きさがために空も見辛く、近隣の漁師が夜中にうっかり迷い込んだならば、そのままじっとして明るくなるまで待つしかないとも言われている。
「図書、夢中に何かを思案していたようだが、大丈夫か? どこから矢が飛んでくるとも知れないから、頭は低くするんだぞ?」
「追手は御言女様を取り戻したいのでしょう。そうならば、矢を射かけられる心配はありますまい」
「そうかも知れんがな」
心配そうに顔を覗き込む庵原に、けれど、図書は吞気だった。呑気というよりは、確信していた。紺滅の空には鷆が大きく楕円に旋回し、まばらな篝火を眼下に収める。一時はばらばらに動いていたそれも、今は統制が取れているように見えるが、それでもやはり小舟には遠いままだった。庵原には「なんとしても御言女様を見つけ出せ!」と勇ましい声が聞こえるような気がしたが、これも自身の耳ではなく己の式神が拾ったものなのかもしれない。
小舟はカサカサと葦をかき分けて、すいっと北へ行く。
もう少しだ。あと少し北へ行けば逃がれられる。確証があるわけではない。願望だった。
――あれはおかしい。
初めに言ったのは誰だったろうか。
御言女を武部に引き渡した後、庵原か図書のどちらかがそう零した。少なくとも左兵衛ではない。
祝でも呪でもなく、ましてや神も降りていない。だのに言葉はしっかりと封じられている。
カヤの願いをかなえるかどうか話し合ったときも、図書は道に通じているが故に、連れ出すことに反対した。
左兵衛は武に通じている故に、連れ出すことに反対した。
不憫でしょうがないと、庵原だけが連れ出すことを強硬に主張した。
暗闇で鶸が鳴いていた。
ちゅいん、ちゅいんと鳴いていた。
カサカサと、けれど葦が道をあけてくれているかのように小舟は進み、やがて石で固められた河岸が見えてきた。
見上げれば、空はもうすっかりと東雲色になっている。
「そう言えば、御言女様のお名前を聞いておりませんでした」
「確かにその通りだ。この娘は生まれた瞬間から御言女様であったわけではないもんな。親からもらった大切な名前があるだろう。旅籠に着いたら確認しないとな」
男たちはすぅすぅと眠る娘を見ては、優しい目でこれからのことを算段するのだった。




