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転生しても君が好き

作者: いずみわか

 

『もしさ、記憶がこのままの状態で新しい自分になれたとしたら、何をする?』


 夫婦のそんな他愛もない会話をした事を、俺はいまだに覚えている。

 会話の内容や他の事は割と覚えているのに、君はその時どんな顔をしていただろうか。多分、いつものように揶揄(からか)うような表情を俺に向けていたに違いない。俺がそう思った瞬間に、目の前の彼女の顔が泣きたくなるほど懐かしい表情へと変化した。


(ああ……なんて、綺麗なんだろう)


 その瞬間、映像がかき消えてスマホのアラームがけたたましく鳴った。俺は、自分の意識が浮上するのを感じて、浅い夢から涙と共に目覚める。

 もう少しだけ見ていたかったと恨めしい気待ちで、煩いアラームを止めた。


 胸を掻きむしるような懐かしさと、底知れぬ虚しさで深いため息をついてから、のっそりと身体を起こしふと自分の手が目に入る。


 この世に生を受けてもう十七年も経つのに、この感覚はなかなか慣れない。


 晩年の節くれだち皺の目立った指は、今では苦労を知らない伸びやかな指となり、毎度見るたびに不思議な気持ちにさせられる。

 いくら寝ても痛まない腰や、どれだけ食べても太らずにしなやかな筋肉に変わる若々しさは、自分の事ながら感慨深く感じる毎日を送っていた。


 二階の自室から階段を降りて、そのまま洗面台の前に立つと、あの夢を見たせいか自分の顔にも若干の違和感を覚えてしまう。


 サラサラと流れる黒髪に、くっきりとした二重瞼。高い鼻梁に薄い唇。モデル兼女優だったという母親に似て我ながら中性的で整った顔立ちだが、今は寝起きでうっすらとヒゲが生えていた。

 ただ、そんな姿でもサマになる位には端正な顔立ちをしている。


(……どんな顔でも、髭は生えるんだよな)


 そんな益体もない事を考えて、剃刀に手を伸ばした。俺の美意識がもっと高ければ、男性用のケア用品を揃え入念に手入れをするのだろうが、あいにく自分の美醜にさほど興味はないので雑に髭を剃ってそのままにした。


「あら、洸太(こうた)。おはよう」

「おはよう、母さん」


 十七歳の息子がいる割に若々しい()()母親は、自分と同じ艶やかな黒髪を背中まで伸ばして朝ごはんの支度をしていた。


「……父さんは?」

「朝から急な撮影が入ったって言って飛び出して行ったわ。もう、朝から騒がしいったら」


 呆れたように言っているものの、言葉の端々に父親への愛情が見えて両親の仲の良さに微笑ましい気持ちになった。テレビでは何駅か先の公園で変質者からの被害者が増えているというニュースが流れていた。


「まぁ、怖いニュースねぇ……あ、そういえば。アメリカへの留学の件は先生にお話ししたの?」

「あー……まだしてない」

「先月進級したばかりで、まだクラスに慣れるの大変でしょうけど……自分の進路なんだから、早めに相談しないと。お祖父様が留学費用は全て出してくださるらしいから、お礼をちゃんと言っておきなさいね」


 女優をしていた母親と報道プロデューサーの父を持つ俺は、今の生活に何の不自由さもない。その上、母親の実家は名家で、俺は祖父母からの溺愛すら一身に受けていた。


 俺が言葉に出さずに頷き、朝食に手をつけると、それを肯定ととったのか母は洗い物をしに再び台所に立った。良い食洗機でも買えばいいのに、自分でやらないと気が済まないらしい。


「……ねぇ、ところで、どうしてもノースダコタ州の大学じゃないとダメなの? もう少し都会の方が、アジア人も多くて暮らしやすいでしょうに」

「……そこに、進みたい学部があるから」


 言葉少なに返事を返し、食べ進める手を早める。本当はもっと違う理由があるのだが、わざわざ心配させるような事を言う必要はない。

 追求されるのが面倒で、少し早めだったが制服に袖を通した。通っているのは都内でも有数の有名な進学校であり、校則はあってないようなものなのでかなり着崩し気味に制服を着ている。やる事をやっていれば教師にも何も言われないので楽だった。

 ()()()はたしか学ランで、こんなにスタイルが良くなかったので、あまり似合っていなかった記憶がある。


 しょうもない記憶ばかりで肝心な事はほとんど忘れているんだから世話ない。


 朝食と身支度を手早く済ませて、通っている高校へと向かうためにバス停へと歩く。


 ♦︎♦︎♦︎


 ここ数年の小説や漫画では、異世界転生なるものが流行っているらしいが、俺ほど奇怪な境遇にあるものもそういないだろう。


 俺は死んで日本に再び生を受けたらしい。ただ正確に何歳で死んだのか、ここが何年後の日本なのかはまったくわからない。それどころか、前の人生での自分の個人情報が全く思い出せず、結婚し子供もいたのにその名前もわからないのだ。たまに前世の情報にもならない細切れな夢を見る程度だった。

 この現象を輪廻転生と呼ぶのか、生まれ変わりと呼ぶのかはよくわからないが、現に俺は前世の記憶を持ちながら生きている。


 前の人生で、俺と嫁が出会ったのは職場だったらしい。夢の情報を繋ぎ合わせた結果だから正確さに欠けるが、嫁との思い出は他の記憶より鮮明に覚えており、俺を余計に苦しめていた。


 地方の田舎育ちだった俺は、地元では割と有名な工学系の大学を卒業し幹部候補として、とある企業に就職をした。嫁も地元の高校を卒業してすぐにその会社に高卒枠として就職しており、年齢は違えど同期という事で互いを認知していた。


 仕事の事からプライベートな事まで、色々話すうちに彼女の明るい性格と妙に聞き上手な人柄に惹かれていったが、同じ職場で付き合うのはどうだろうと二の足を踏んでいた。

 そんな打算的で情けない俺と違い、彼女はわかりやすく好意を真っ直ぐ伝えてくれて、俺はそれに乗っかる形で告白して交際をスタートさせた。


 その後は特に大きな喧嘩もなく平穏な日々が続き、そのまま結婚。ありがたい事に子供にも恵まれた。

 裕福ではないが慎ましい生活は安定しており、一人娘も成長し、外国籍の男と結婚をして妊娠を機にアメリカのノースダコタ州への移住を決めたという矢先に、嫁の癌が見つかった。

 女性の平均寿命にしてはだいぶ早い六十歳で彼女は逝去し、俺自身も彼女の後を追うように死んだ。多分、元々弱かった心臓が原因だろうが、今となってはわからない。


 どこにでもあるような平凡な人生であり、あっという間に駆け抜けたが、我ながらいい人生だったと思う。


 ♦︎♦︎♦︎


「……あのっ!! バ、バスでいつも見てました! カッコいいなって思ってて……良かったら、あの……お付き合い、してくれませんか?」


 バスを降りて定期券をしまおうとした時に、ふいに肩を叩かれ、イヤホンを外しながら振り向くと女の子に突然告白された。


 一生懸命巻いたんであろう長いくるくるとした黒い髪と、気合いを入れたネイルが視界に映り、照れや嬉しさよりも微笑ましい気持ちが湧いた。

 きっと、この娘は一番可愛いと思う自分で、この告白に臨んだんだろう。

 バスから降りてくる人達の邪魔にならない位置に避け、高校生の決死の告白現場を皆が興味なさげに通り過ぎていく。


「……ありがとう。でも俺、好きな人いるから。ごめんね」


 自分に嘘は吐けない。このままの気持ちで付き合う方が相手に失礼だ。女の子は、分かりやすくしょんぼりと肩を落とした。


「あっ……そうですか……じゃ、じゃあ! 友達からでも、全然いいので……! よければ、連絡ください!!」


 どちらかと言うと大人しそうだと思っていた少女は、俺に連絡先の紙を押しつけるとそのまま走り去っていった。可愛い花がプリントされた小さなメモに電話番号とメッセージアプリの連絡先が丸い字で可愛らしく書いてあった。


(……最近の若い子は、タフなんだなー)


 呆然と少女の背中を見送っていると、肩にズシリと重さを感じてそっちを見る。


「ぅおーい、洸太!! なーに朝から告白されてんだよぉ〜! さっきの()菫坂(すみれざか)高校の制服じゃん」


 この声は同じクラスの城田だ。一年の時から同じクラスで、頭がよく気のいい奴なのにいつもモテないと嘆いている。制服だけでよく学校名がわかるなと、いつもながら感心してしまう。同じ学校に通う城田相手に立ち止まって話す必要はないので二人で歩きながら話していく。


「めちゃくちゃ可愛いかったじゃんか。今月何人に告白されて振ってんだよ」

「……ん〜? 五人、かな」

「爆ぜろッッ!」


 そんな事を言われても、肝心の心が動かないんだからどうしようもない。


「俺から見れば、城田こそ本気になればモテると思うよ。明るくて気もよく回るし……」


 ただ、見た目が派手で少々軽薄そうなのが玉に瑕ではある。それも若さゆえだと思うし、一概に悪いとも言えないからもちろん本人には言わないが。


「かーーっ!! お前に何を言われても嫌味にしか聞こえねーッつーの! お前に好きな女子がいるなんて初耳だぞ。どれどれ、稀代のモテ男くんは一体どんな曲を聴くんですかね」


 城田は被せ気味に俺の耳元で叫び、あまりのうるささに思わず抗議の目線を送るもまったく意に返さない。それどころか、俺の首元にぶら下がっていたイヤホンをひょいと拾って耳に着ける。


 ……あとで、念入りに掃除しよう。


「んー? なんで、こんな古い曲ばっか聞いてんだよ」

「いいだろ、別に。好きなんだから」


 プレイリストの中は城田が産まれる遥か前の曲ばかりで怪訝な顔をされた。困ったように苦笑いを浮かべると、神妙な表情をした城田が近づいてきて思わずたじろぐ。


「そんな事より、飛鳥洸太(あすかこうた)君よ。君は俺に多大な借りがあるな?」


 両肩に手を置かれ詰め寄られるが、身に覚えが全くない。


「借り? ……えーと、なんだっけ?」

「ニヶ月前の学年末テストの時に、お前に消しゴムをあげた」

「はぁ? あれは、余ってるからって城田が……」

「頼むっ! 一生のお願いだ!! 今日、鈴蘭女子との合コンがあって、幹事の子に『お前が来る』って言っちゃったんだよー!」


 城田は俺の顔面にスマホの画面を突きつけて、幹事の子とのやりとりを見せてくる。鈴蘭女子高等学校は都内の公立高校で制服も通う女の子も可愛いで有名だった。


「……なんで、急に言うんだよ」

「前から言ってたら学校自体を休むだろ、洸太は」


 まぁ、確かに……


 正直勉強だけなら塾で十分ついていけてるし、事前に言われていたら確実に学校はサボっていた。


 これまで何度もこういう合コンはセッティングされた。俺自身のスペックに加えて実家が金持ちだというのを餌に城田が女の子を集めるから、俺がいないとかの合コン自体が成立しない。

 普段憎めない城田の人柄に流されて断り切れずに毎度渋々参加していたが、最後までいた事はなくすぐに帰っていた。


「……今日は塾もないし、一時間位なら付き合うよ」

「うおおっ! マジで助かるーーー!」


 暑苦しく抱きついてこようとする城田をヒョイッと避けて、学校へと急いだ。


 ♦︎♦︎♦︎


「ミホでーす!」

「マイです、よろしくぅー!」


 続々と自己紹介がされていき、カラオケボックスの部屋が賑わう。

 男側が五人なのに対して、女の子は八人も来ており、嗅ぎ慣れない香水の匂いが鼻につく。

 キラキラとした陽キャの気に当てられて、光は出ていないはずなのに妙に眩しく感じて目を細めてしまう。

 俺はいつでも逃げられるように入り口付近を陣取っていると、髪をシャンパンゴールドに染めたギャルが左隣に座り先程の自己紹介で『マイ』と名乗っていた子だな、と心の端で思った。


桐堂(きりどう)高校との合コンとか、本当に競争率高いんだよぉ。特に今日はめちゃくちゃイケメンが来るって聞いてたから、絶対参加したくってぇ。リカに頼んでおいて良かったぁ」


 俺はマイに腕を絡められそうになるのをそっと避けながら、口角だけをあげて話を聞いていた。

 彼女の制服のワイシャツはボタンは上から三つほど外されており、これでもかと襟元が開いていて高校生が身に着けるには高めの高級ブランド品のネックレスが揺れる。

 今にも下着が見えそうで、俺はそれをただただ「……なんか、寒そうだな」と、温度なく思いながらそっと視線を逸らした。


 肝心の城田は奥の席に座り、鈴蘭女子の幹事の子と飲み物の注文を率先してとっている。

 デレデレと鼻の下を伸ばしてその子に絡んでいるのを見るに、今回もおそらく彼に春はやってこないだろう。


「ねぇねぇ、アタシもコウタって呼んでいい?」

「……うん、いいよ」


 カラオケボックス特有の薄暗さの中で光るスマホは、女の子らしくピンクとゴールドのビーズでデコレーションされている。

 スマホをいじる指先は綺麗で水仕事ひとつした事がないのだろう。いや、学生なんだからそれでいい。逆に水仕事で手が荒れている学生がいたとしたら、それこそ問題なのだから。


 ──ただ、俺の愛していた女性の手は、皺も多かったし水仕事で荒れもしていた。


「コータぁ、連絡先交換しよーよ」


 思考の海に沈みそうになった所で、マイに話しかけられて再び意識が浮上した。あの夢を見たせいか、今日は特に調子が出ない。


「あー……交換してもいいけど、俺ほとんどレスしないよ。それでもよければ」


 あらかじめ用意してある捨て垢の番号を彼女に教える。捨て垢にきた連絡は基本確認しないので、時間がたてばアカウントごと削除していた。

 そうでもしないと四六時中電話が鳴りっぱなしになり、スマホの電池の減りが早くなってしまっていざという時に非常に困るのだ。かと言って、このご時世「スマホは持ってない」という嘘は通用しないから、多少手間はかかるがそうしてる。


 そうこうしているうちに曲が流れ始め、城田を筆頭にして流行りの歌をみんなが歌っていく。女の子達も次々と曲を入れていき、女の子同士で歌ったりして盛り上がっていた。


 こういう時に感じるのは、圧倒的な孤独感だった。みんなと一緒にいて同じ空間を共有しているはずなのに感じる孤独は、一人でいる時もより強く感じる。


 最初はこの人生を楽しもうと考えていた。神様か仏様か知らないが、一度天寿をまっとうしたにも関わらず、前世の記憶のままで人生を歩めるなど僥倖以外の何者でもない。


 恵まれ過ぎているほどの金と、愛情と優しさに溢れた家族。自分の顔もスタイルも運動神経も悪くなく、成績は常にトップクラスで、学校の友達も多い方であり、毎日のように可愛い女の子に告白される日々だ。


 ──前の人生よりも、確実に幸せだ。幸せなはずなんだ。


 朝に見た夢のせいか、感情のコントロールが難しい。城田は特に歌が上手いので、皆が聴き惚れている内に俺は鞄も待たず、ひとまずトイレへと駆け込んだ。

 別に用を足す用事もないが、トイレの個室に入ってドアにもたれながら今日見た夢のことをゆっくりと思い出した。


 ♦︎♦︎♦︎


『もしさ、記憶がこのままの状態で新しい自分になれたとしたら、何をする?』


 あの時はちょうど、車に乗って親子三人でドライブへ行っていた。車は子供が出来た時に必要だと思い少し背伸びをして十年のローンを組んで新車で買ったファミリーカーだった。後部座席では娘がスウスウ寝息をたてており、助手席の嫁が声を落としながらなんとなく切り出した話題だった。


『んー、俺はとりあえず……』


 改めて聞かれると色々叶えたい事が出てくる。記憶がそのままならば、きっと次の人生は有利に違いない。

 そう思い、色々考えてみるがなかなかいい考えが浮かばなかった。そんな時、ふとフロントミラーに自分の顔が映った。

 前の人生は確かにパッとしない顔だったし、今のように太い実家があるわけでもない。普通の男だったから、モテなどにも無縁で告白などされた事もなかった。

 そもそも、あり得もしない『もしも話』に真剣に悩む必要はないと思い至ったのだ。


『沢山の女の子と遊びたいかな。人生二回目だと余裕もできてモテそうだし』


 浮気など考えた事もないくせに、嫁の反応が見たくてわざとそう言った。


 彼女は怒るでも呆れるでもなく「確かに、人生二週目感が出てモテるかもね」と、言ってケラケラと笑ってくれた。

 全然嫉妬されなくて少し落胆したが、そんなカラッとした性格が好ましかった。

 俺は嫁にも「じゃあ、君ならどうする?」と聞き返した。


『私? んー……私も、色んな男の人と遊ぼうかな! 今世は結局あなた以外と付き合う事なく終わりそうだし』


 嫁は誰と付き合う事なく高校卒業してすぐに就職し、俺と付き合って結婚したため、男は俺しか知らない。その事実に少し気分が良くなって、三人のドライブは続いた。


 失ってみて初めて気が付いた。なんでもない彼女と過ごした時が、俺にとっての"最高の幸せ"だったんだ。

 俺を取り巻く今の世界はこんなに恵まれ満たされてているはずなのに、彼女がいないんじゃ到底意味をなさない。記憶があるという事がこんなに辛いものだとは思わなかった。


 俺は、ずっと前世()()()を探し続けている。何が『とりあえず、女遊びするかな』だ。顔の可愛さや若さなど、もはやどうでもよかった。


 ──ただひと目、また彼女に会いたい。


 いつまでも、この世に存在しない人を想っていても仕方ない。そう思い、好意を寄せてくれた女の子と話してみたこともある。でも、会話が進むにつれて"この子は()()じゃない"と脳が理解すると、自分の気持ちがわかりやすく萎えていく。

 親が難色を示すアメリカの中でも田舎の州であるノースダコタへの進学も、嫁いでいった娘の足跡(そくせき)を少しでも辿りたいという自己満足からだ。もし見つけたとしても話しかける勇気は出ないだろうが……


 気付けば、俺の瞳には大粒の涙が溢れていた。


(──会いたい、会いたい会いたい会いたい……)


 せっかくの出会いの場で、涙を流している男なんて滑稽以外の何者でもない。


(もう、帰ろう……)


 学生服のブレザーの袖で乱雑に瞳を拭うと、勢いよくトイレを出て、鞄を回収するためにカラオケのルームへと戻った。


 その瞬間、部屋内から聞こえてきたのは、当時夫婦共に大好きで、よくリサイタルにも行っていた歌手の歌謡曲だった。


 伸びやかで爽やかな声は若い女性のものだが、歌い込んでいるのがわかる程うまかった。 


 思わず部屋を間違えたかとも思ったが、城田が馬鹿面で歌に聞き惚れているのが視界に映り、間違っていないと気付く。

 歌っているのは、俺とは逆の席で城田と共に幹事をやっていた子だった。


 名前は……確か、橘花梨花(たちばなりか)


 黒檀の様な見事な黒髪を肩の辺りで切り揃え、横顔からでもわかるまつ毛の長さや、輪郭の美しさに何となく目を奪われる。

 特に化粧をしているわけでもなく、先程いた女性メンバーの中では見た目は地味な印象の少女だったが、歌っている時は妙に色っぽく見えた。


 キーの幅が広く歌いづらい箇所もなんなく歌いこなして、ラストまで歌い切ると梨花は軽くお辞儀をして笑った。その微笑みから目を離せなくなる。


(──似てる……っ!)


 照れた時に眉尻が下がり、指を絡める癖。笑う時に必ず手を軽く握って口に当てる仕草。


 見た目は全然違うのに、あまりに嫁に似ていて俺はその場から動けない。

 そうしているうちに梨花は鞄を拾いあげて、マイ達に対して笑顔で「頑張ってねっ!」と、サムズアップして颯爽と帰っていった。

 情けない事に俺は横を通り過ぎていく彼女に声を掛ける事も出来ず見送ってしまったが、その時梨花のつけているんであろう香水の香りが一瞬鼻を掠めた。

 それは、嫁がよく使っていた高校生がつけるには高級である香水だった。胸がザワザワと波打つ。


 ──もっと彼女を知りたい。


 それは、転生してから初めて湧き起こる欲求だった。本能のすべてが彼女を追いかけろと訴えているようで、気付けば俺は鞄もスマホも何もかも置いて走り出していた。


「ねぇっ! ごめん、ちょっと待って!」


 カラオケ店を出て少し歩いた先の交差点で、俺は梨花を呼び止めた。

 身に覚えのない男に呼び止められ一瞬だけ怪訝な表情をした梨花は、俺を先程までいた合コンメンバーの一人だと認識したのか警戒を解いた。


「あれ、飛鳥君……だっけ? どうしたの?」


 可愛く愛嬌のある顔をしてはいるが、とびきりの美人というわけではない。

 どこにでもいるような普通の女の子なのに、こんなに気になって仕方がない。


「あ……っ、……」


 俺はこの後に及んで何を話していいかまったく思い付かず、言葉に詰まっていると梨花は申し訳なさそうに微笑んだ。


「えっと……ごめん! 私、これからバイトだから、もう行かなきゃ。今日は来てくれて本当にありがとう! 城ちゃんにもお礼のメッセージ送んなきゃ」


 "城ちゃん"とは城田の事なんだろう……彼女の連絡先を知っているというだけで、可愛い女の子を見ればデレデレヘラヘラしている城田の顔が浮かび、一瞬猛烈な殺意が湧いた。

 前の人生で梨花が言っていた『私も色んな男の子と遊びたかったな』という言葉を思い出し、腹の底から湧き上がる黒い感情を耐える。

 そんな俺の心など知らない梨花は鞄をゴソゴソとして、何かを取り出した。


「……あと、余計なお世話かもだけど……これ、良かったら使って。沢山あるし、必要なかったら捨てていいから」


 そう言って梨花が俺に押し付けたのは、桜色の綺麗なハンカチだった。「目、冷やした方がいいよ」と苦笑いをして、彼女は横断歩道を走り去ってしまった。


 ♦︎♦︎♦︎


「えぇー!? コウタって梨花狙いなのぉ? ふーん……あの子、ずっと好きな人がいるんだってぇ」


 彼女の後ろ姿を目で追いつつ呆然としていた俺は、ようやく鞄やスマホがない事に気付いた。

 仕方なくカラオケルームへと戻った俺は、めげずに橘花梨花の情報収集に注力する事に決め、手っ取り早く隣にいるマイへと聴取を開始した。


 マイはまだ少し不貞腐れた様子で少しもったいぶりながらも「梨花に好きな人がいる」という最重要情報を教えてくれて、俺の心はズシンと重くなった。


「梨花ってせっかく顔とか可愛いのにぃ、なーんか地味だし、勿体ないなぁって思ってたんだけどー。話してみるとすっごく社交的?ていうか、面倒見がよくて優しいし、めちゃくちゃいい子なんだぁ。ね?」

「そうそう」


 マイは横にいたミホにも確認を取りつつ、梨花について教えてくれる。


「へぇ、何のバイトしてるのかな?」

「今日は金曜日だからぁ……えーと」

「駅前のコンビニじゃない? 月水金はそこにいるって聞いた」

「そーだ、そーだ! 火木はたしか居酒屋だったよねー」


 橘花梨花は鈴蘭女子高等学校の三年生で俺と同い年。家族構成は両親と妹と弟の五人家族。進学を控えている弟妹の為に、勉強はできるものの公立高校へ通っている事やバイトの掛け持ちしている事などを聞き出した。


「あの娘、ちょっと変わっててぇ。どっか達観してるっていうか」

「あーそれ、わかるー! 人生二周目かよっ!て感じ」


 ケラケラ笑いながらマイとミホが梨花について語っていくのを聞きながら、俺の中で馬鹿みたいな仮説が組み立てられていく。


 カラオケに来ているのに歌などもはやそっちのけで、俺がマイとミホを侍らせてるように見えているのか、城田から時折鋭い視線を感じるが、そんなもんは見てみないフリをする。


「梨花ってぇ、卒業したらアメリカのノース、……んーと、なんとかっていう州ぅ、なんだっけ?」

「ノースダコタでしょ? なんか、そこに行きたいってずっと言ってて。必死にバイトしてお金貯めてるんだってー」


 ……わかってる。確信を持つには早すぎる事ってくらい。わかっていても、色づき始めた世界は止められない。


「そこに……誰かいるって言ってた?」

「ええ? そこまで聞いてないなー」

「てか、もうすぐ梨花のバイト終わるはずだから、行って直接聞いてみたらぁ?」


 梨花の事しか眼中にない俺を見限ったんであろうマイは、もはや自分のネイルに興味がうつっており、少し欠けてしまったネイルを指先で撫でていた。


 時計はそろそろ19時になりそうだった。マイ達に礼を言って、そのままカラオケ店を後にした。


 ♦︎♦︎♦︎


 カラオケ店からタクシーを拾い、教えてもらった駅の近くの公園へ降りた。この辺は祖父が所有しているマンションがあるから、大体の地理は頭に入っていた。

 もう散ってしまった桜並木を抜け、夕方には主婦で賑わっているんであろう目抜き通りの商店街を抜けると、少し開けた場所にそのコンビニはあった。


 意を決して中に入ると中年の女性店員が店番をしている。梨花は休憩中かと思い、しばらく様子を伺っていたが出てくる様子はない。


「……あの、すみません。橘花梨花さんはいらっしゃいますか?」

「ん……? あー、梨花ちゃんの知り合いかい」


 中年女性店員は一瞬怪訝な表情を見せるも、俺の制服やら顔やらをみて一気に警戒を解いた。


「あらー、ついさっき裏口から帰ったわよぉ。まぁでも走れば間に合うんじゃないかしら。あの子、いっつも近道にこの先にある公園を突っ切って帰るんだけど、最近変質者が出るから送ってあげたらいいわよ。それに、なんだか雨がふり……」

「すみません、ありがとうございましたっ! 追いかけます!!」


 俺は『変質者が出る』というキーワードを聞いた瞬間、いてもたってもいられず女性に軽く礼を言うとコンビニを飛び出していた。


 コンビニを出てすぐに雨がポツポツと降り始め、公園に着く頃には土砂降りになっていた。雨に濡れて重く張り付いてくる制服は煩わしいが、今は梨花の安全を確認したい。

 かなり広めの公園だったが、園内の東家を一つ一つ見ているとその一つに彼女はいた。正確にはもう一人。黒いカッパを被った、いかにも怪しい男に話しかけられそうになっている。


 俺は全速力で走り、梨花と男の間に割り込んだ。


「梨花、ごめんッ! 待った?!」

「──ッ?! え、あっ、飛鳥くん? どうして……」

「ねぇ、この人、君の知り合い?」


 黒いカッパの男は何も話さない。目深に帽子を被って表情はよく見えないが、口には無精髭が生えておりブツブツ何か言っているように見える。

 俺の中で『早く離れろ』という、警報がずっと鳴り続けていた。


「え? ううん、さっき道を聞かれてただけ。もう少し雨が止んだら直接案内しようかと……──っあ、ちょっと!」


 俺は呑気な梨花の腕を強めに掴んで男から距離をとり、すかさずダッシュでその場を離れた。梨花は突然の俺の行動に戸惑いながら必死についてきた。


 バシャバシャと雨音を響かせて公園から十分距離をとり、ようやく一息つく。男が追いかけてきている様子はない。


「はぁ……はぁ……知らない男が近づいてきたら、全力逃げないと。そもそも人通りのないところを女性が一人で歩いたら危ないだろ。ニュース見てないの? あんな黒いカッパに土砂降りの中、若い女性に道を聞く男なんて怪しさしかないじゃないか」

「え……っ?! そ、そうかな……?」


 梨花は予想だにしない可能性があった事に少し怖くなったのか、手が小さく震えている。

 走っているうちに駅からだいぶ離れてしまった。二人ともびしょ濡れだし、まだまだ雨足も弱まる気配はない。

 梨花は悪くないのに、つい責めるような物言いをしてしまった事に、俺は少し後悔した。何かあってからじゃ遅いと思っての行動だったが、少しやり過ぎだったかもしれない。


「いや……ごめん。つい、焦っちゃってキツい言い方しちゃった」

「ううん、なんか逆に嬉しかった。私の、大切な人と飛鳥君の怒り方が似てて……おかしいよね、全然似てないのに」

「それって……マイちゃんが言ってた"夢の中で会える人"の事?」


 俺は鎌をかけてみた。マイからはそこまでの事を聞いていなかったが"大切な人"と言った後の顔が、俺が前世の事を思い出している時の顔に似ていると思ったから。


「えっ?! あれ? マイに言った事あったっけなぁ? 恥ずかしいな……夢でしか会えないんだけど私にとって一番大事な人だから……」


 はにかむように笑う梨花は美しかったが、どこか遠くを見ているようだった。この時点で、俺はもう自分の立てた仮説をある程度肯定していた。


「……それにしても雨、すごいね。このままじゃ、電車乗れないなぁ」


 俺も梨花の髪も制服もびしょ濡れで、互いにきっと唇が青くなっている。

 もう確認するのならば、今しかないのではないか。そう思った俺は「ねぇ、ちょっと変な事を聞いてもいい?」と前置きしてから、真っ直ぐに梨花の目を見つめた。


「……梨花はさ、前世って信じる?」

「えっ……?」


 俺の怪しさ満点の質問に、梨花の眉毛が不愉快そうに寄った。


「梨花がノースダコタにこだわる理由は……俺と同じかもしれない」


 俺は朝に見た前世の夢の話をすれば、梨花の顔は不愉快な表情から驚愕する顔に変化していた。


「もし心当たりがあるなら、このまま俺の家で見て欲しいものがあるんだ。心当たりが全然なくて、気持ち悪いと思ったなら、二度と君の前に姿あらわさないって誓う」


 梨花はしばらく悩んだ後、こくんと頷いて俺のマンションまでついてきてくれた。


 広いエントランスホールと常駐している身なりの良いコンシェルジュに驚き、固まっている彼女を好都合とばかりにエレベーターに乗せ、パネルに鍵をかざして最上階のボタンを押した。


「……ちょ、ちょっと待って。このマンションなに?! エントランスだけで、うちの家全部入りそうな位、広かったんだけどっ?! ここが自宅?」

「んー……いや、元々俺のじいさんが個人所有してたマンションで、俺の資産にって相続されたんだよね。まだ未成年だから親名義だけど、一応自由に使えるんだ。自宅は戸建てで都内に別にあるよ」


 梨花が驚きで口をぱくぱくさせているうちに目的の階へと着き、扉が開く。玄関直結型のマンションのため、エレベーターから出ればすぐに玄関であり、家の中へ二人で入るとエレベーターの扉が閉まり、二人だけの世界になる。


 梨花を家の一角に案内した。


 そこには、俺が夢から得た情報を元に前の人生の痕跡を辿った写真やメモが大量に貼ってある部屋だ。自分のルーツを探そうともがいていた時のものだが、何十枚と貼られた付箋とホワイトボード。インターネットで調べた地図をコピーした物などが貼ってある。


「夢に出てくる街路樹や街の様子、住宅の建築の仕方から九州地方の田舎だと思う。ただ、夢の情報だから、あまり信憑性は良くないけど。梨花……前世の君の事は、ある程度わかる」


俺はよく覚えている前の人生の事を訥々と梨花に説明していった。


 梨花は俺の話に静かに耳を傾けていた。その後に集めた写真を呆然と眺めたまま、少しだけ一人にして欲しいと涙声で頼まれたため、俺はタオルだけそっと渡してその部屋を静かに出ていった。


 ♦︎♦︎♦︎


 梨花はやや暫く部屋に篭ったあと、少し目を腫らして出てきた。


「……コーヒー、砂糖なしのミルク多めで変わりない?」

「……」


 俺が熱いコーヒーにミルクを淹れているのを不思議そうに梨花が眺める。


「……本当に、あなたなの?」


 震える声でそう聞かれ、ようやく会えたんだと実感した。


「……そうみたい」

「こんな奇跡があるなんて、まだ信じられない……」

「俺は……君が特別だって、すぐにわかった」


 彼女は感極まっているのか、その大きな瞳から涙が溢れている。

 それを見て、とんでもない奇跡を噛み締めて、再び梨花を抱きしめようと腕を伸ばしたが梨花に軽く阻まれる。


「ありがとう。でも……私なんかじゃ、もう手が届かないね。城ちゃんから"洸太は名家の息子で、かっこいいからモテモテで、最近好きな人がいるみたいだ"って聞いてるよ」


 俺からの抱擁を止める様に、困った顔をした彼女が目の前にいた。驚きで表情を無くした俺を見て、焦った様に梨花はこちらを見た。


 梨花の表情は、特に怒っている様子はない。純粋に憧憬の瞳で俺を見ている。


「あっ、あ、誤解しないでね? 責めてるわけじゃ、全然なくって……えっと、覚えてる? ずっと昔に車の中で話してた"もし記憶がある状態で生まれ変わったら何をするか"ってやつ。……ふふっ、洸太はちゃんと叶えたんだね」


 あの夢と同じ揶揄う様な笑顔から、俺の心を切り裂くほど残酷な言葉が出る。


 ──やめてくれ、どうか、それ以上は言わないでくれ。


 そう思って立ち尽くす俺に梨花は気付きもせず、俯き加減に微笑みながら言葉を紡いでいく。


「お金とか顔とか関係なくあなたは素敵な人だし、きっとこれからいい出会いが沢山あると思う。私達が結婚してたのはあくまで前の人生な訳で、今はお互いを縛るものは何もないわけだし……別に気にしなっ、あっ、!」


 強い力で腕の中に引き寄せれば、梨花は頬を染め警戒心剥き出しにし俺から物理的に距離を取ろうとする。


「──っ! こ、こういう態度は、誤解を招くからやめた方がいいと思うっ!」


 焦りながらもがいているが、そもそも俺と梨花とでは身長差がありビクともしない。


「……城田から、俺に好きな人がいるって聞いたんだって?」

「う、うん……」


 耳元に唇を寄せて囁けば、梨花の方がわかりやすく跳ね、怪訝な表情でこちらを見た。


「──君のことだよ。……俺は、ずっと君を探してた」


 暖かく柔らかな身体を抱き締めると、ようやく一つになれた気がして心が震える。


「俺は……っ、俺には君しかいないんだ。君は……梨花は、違う?」

「私は……っ、」

「俺は、君だけをずっと愛してる。前の人生から変わる事なく」


 思った以上に華奢で小さく柔らかな身体は俺の胸元にちょうど良くすっぽりとおさまる。

 梨花に触れている箇所から確かな温もりを感じて、自分の中で欠けていたなにかが満たされるのを感じた。


「俺が愛してるのは、今も昔もお前だけだ。わかってもらえないなら、ちゃんとわからせるまでだけど」

「それ、どういう……あっ!」


 いまだに信じてもらえない事が寂しくて、グッと距離を詰めそっと抱きしめ直した。

 彼女を怯えさせる気はないから、拒絶され突き放されればすぐに距離をとってあげられるように、わざと力はそこまで入れずに抱きしめたが抵抗する様子はない。


「……女の子を、取っ替え引っ替えしてるって聞いた」


 梨花からむくれたような声が漏れる。そういえば、前の人生の時も彼女は「怒っていない」「責めていない」と言っている時ほど、怒ってるし責めていた。誤解はしっかり解かなければ後々面倒しかない。


「してるわけないだろ。告白は何回もされてるけど、俺にはもう嫁がいるんだから、……っ」


 俺が「必要ない」と続ける前に、ようやく梨花からギュッと抱きしめ返されて歓喜に震える。


「洸太と娘の夢を、よく見るの……とても幸せな夢だけど、目覚めたら二人は横にいないし、余計に虚しくて」


 その気持ちは痛いほど良くわかった。夢の中が幸せであればあるほど、現実がつらかった。


「……あの()を一緒に探そう。きっとまた会えるから」

「あの子の名前が、わからないの……あんなに二人で一生懸命名付けたのに」

「大丈夫、見つかるさ。俺が、君を見つけたように」


 そう言った瞬間、梨花の全身が震え声を上げて泣いた。縋るように抱きしめ返してくるのを今度は力強く抱きしめた。


 ひとしきり泣き終わり、梨花が俺を見上げる。上目遣いで見上げてくる彼女の瞳は真っ赤に充血して濡れており、鼻も赤くお世辞にも整っているとは言い難かったがその姿も愛おしく感じて唇を深く重ねた。


「ふっ……ん、ンン……ッ」


 鼻にかかるような声が漏れているのを聞きながら、遠慮がちに開かれた唇の間に舌を割り入れる。

 逃げようとする薄い舌を追い詰め絡めとれば、彼女も拙く応えてくれた。


 いつも短い夢となり消え去ってしまっていた愛おしい女性と、再び繋がる事が出来るという期待と歓喜に心が震える。


「梨花……止まれそうにない。このまま、いい?」

「……いい、んだけど……生まれてから……その、経験がなくって……あの、うまくできないかも」


 梨花はしばらく悩み、こくんと頷いた後に遠慮がちにそういうものだから、俺は思わず吹き出して笑った。


「ぶ、はははっ! あ、ごめんごめん、ふふっ、あー怒らないで。俺も洸太としては童貞だから、早かったらごめん」


 真剣な話を笑われてムッツリと怒った梨花を宥めて、クスクス笑いながら再び口付けをした。

 

 俺としてはすぐにでも孕ませたい所だったが……まぁ、焦ってもいい事はないので時期を見ながら二人で考えよう。



「──で、婚姻届はいつ出しに行こうか」



 事が終わり、浅い吐息を繰り返していた梨花の肩を愛おしく思い撫でながら当然のように聞いた。

 

「…………え?」

「俺の誕生日はもう過ぎてるから、梨花の十八歳の誕生日に合わせて結婚しよう。式は卒業を待って、日本で身内向けに盛大にあげてから、海が綺麗で写真が映える海外のリゾート地でも二人きりであげようか。オススメはタヒチかモルディブだけど、アメリカに君と一緒に行くのもいいね。ブライダルプランの希望があれば言って。俺が投資して筆頭株主になってるブライダル会社があるから、そこに依頼して……」

「え、……? えっ?! ちょっ、ちょっと待って! すぐに結婚は無理だよ! お互い、これから大学にも行かなきゃだし、就職だって……そもそも、そんなお金用意できないよ」

「お金なんてほとんどかからないよ。航空会社や旅行代理店の株主優待も使うし」


 別にケチるところじゃないし、かなりの金額を使うつもりではあるけど、梨花が遠慮するだろうから黙っておく事にした。重要な事は、そこじゃない。


「大学も就職も梨花のやりたい事を、俺は全力で応援するよ。でもそれってさ、結婚してても出来るよね?」

「え、いや……うん、まぁ、そうだけど……」

「じゃあ、ご両親にも近いうちにご挨拶に行かなきゃ!」


 俺のマンション内には、梨花の「ええぇえーーっ?!」という、戸惑いの声が響いたが、それすらも愛おしく感じて後ろからきつく彼女を抱き締めたのだった。


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