エピローグ
この世界の2021年における日本語版ウィキベディアからの一部引用になります。
マリー・アントワネット 1755年11月2日出生、1831年1月21日崩御
父は神聖ローマ皇帝フランツ1世、母は一般的に女帝と呼ばれるオーストリア女大公マリア・テレジアの間に産まれた15番目の皇女であり、後にフランス国王ルイ16世に嫁いでフランス王妃となる。
幼い頃から才気煥発な一方、性格は極めて苛烈なところがあり、母のマリア・テレジアを幼少の頃から心配させたと伝わる。
そして、長じるにつれて軍事面に興味を持つようになり、ラウドン将軍等を家庭教師として様々な軍事関係のことをウィーンにて学んだとされる。
異説もあるが、一般的には産まれてすぐの頃にフランス王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)と婚約したとされており、1770年5月16日に結婚するが、嫁ぐ際にストラスブールで生首事件(詳細は別記)を引き起こす等、早速、その性格の苛烈さを示す逸話を残す。
だが、その苛烈な性格が却って優柔不断な夫のルイ16世と合っていたのか、琴瑟相和す夫婦生活を営んで24回の出産、25人の子宝に恵まれた。
また、国王が愛妾を持つのが常の時代なのに、ルイ16世は王妃を愛する余りに1度も浮気をしなかったと伝わる。
1774年に王妃となると積極的にフランスの政治軍事改革に乗り出し、王妃自ら節倹の範を垂れて、第一身分の免税特権廃止等の改革を行うが、既にアンシャンレジームは限界に達しつつあり、小手先の改革ではどうにもならない、と判断した末に、1789年の全国三部会招集をきっかけとするフランス革命を自らが主導する。
これによって、1793年の憲法制定を頂点とするフランスの立憲君主制への移行が行われた。
この影響で後に各国において成文憲法が制定され、それによって人権が保障されることとなり、
「世界の人権の産みの母」
と称される。
その一方では、反革命派に対する苛烈な弾圧を自らが主導しており、約20万人とされる犠牲者が出たことから、
「血染めの王妃」
という悪名が国内外から付けられた。
そして、この革命の際にオルレアン公らが英国に亡命したこと等から、フランスと英国とは敵対関係となり、後に彼女は欧州大戦を引き起こすことになる。
ジャコバイト問題等を理由とする1807年からの欧州大戦を主導して引き起こした後、夫と共に従軍してプロイセン、ロシアと転戦することになったが、実際に戦場で指揮を執っていたのは夫のルイ16世では無くて彼女であったと伝わっており、アウエルシュタットでは陣頭指揮まで執ったとされ、
「ゼノビアや皇后テオドラの再来」
とまで当時のフランス軍の将兵からは謳われていた。
そして、彼女が主導した欧州大戦のフランス等の勝利によって、現在まで続くフランス=ロシアの二重帝国のきっかけとなる曽孫のルイ18世とアンナ2世の婚約を調える等、21世紀まで続く欧州の平和体制の基盤ができたことから、
「近代から現代の欧州の産みの母」
とされる。
実際、彼女の次男アンリは後にヘンリー10世となって、現在まで続くブルボン朝英国の開祖となる等、現在まで続く欧州の殆どの王室の家系図を辿ると彼女に辿り着くことからしても、その称号は正鵠を射ていると言える。
その一方で、彼女が欧州における空前絶後の大戦争、欧州大戦を主導した結果、フランス革命も併せれば欧州で約200万人もの犠牲者が出たのも事実であり、その影響から神聖ローマ帝国が健在でドイツやイタリアでは未だに民族国家が成立していないことから、一部のドイツやイタリアの歴史家等から、
「地上に現れた女魔王リリスの化身」
とまで彼女が酷評されているのも、また、一面の真実を示している。
ウィキベディアより一部抜粋。
最後でウィキベディアとなっているのは、故意に書いていますので、誤字ではありません。
(それこそ魔王(?)が作ったこの世界の方が、二度の世界大戦が無い平和な社会になっているという皮肉極まりない現実があることから、私なりの皮肉からウィキベディアと書いています)
事実上の最後になりますが、ご感想、レヴュー等をお待ちしています。




