第5話
そんなことがウィーンではあったが、いよいよ私は1770年4月21日、ウィーンを旅立って、フランスへと嫁ぐ日を迎えた。
その際というよりも、それ以前から。
「嫁いだら毎月1回は手紙を私に書きなさい。私からも毎月1回は手紙を書きます」
「嫁いだら、きちんとした大人、軍人以外を必ず頼るのですよ」
と耳にタコができる程、母マリア・テレジアに私は説教される羽目になっていたが。
史実のマリーアントワネットと異なって、私は骨の髄からの軍人だ。
それこそ屋根のある所でマントにでもくるまって眠れれば幸せ。
絹のドレスを作って着るお金があれば、そのお金を軍備に投入すべし、私は木綿の服が夏冬合わせて10着もあればよい、と公言する女人なのだ。
本当にフランスから婚約破棄して欲しい、と母は内心では願ったらしいが、フランスも婚約破棄して厄介事を引き起こしたくない、と腰が引けてしまい、結果的に史実通りに私は嫁ぐことになったのだ。
さて、フランス王妃として嫁いだ後、やるべきことを私はやるのみ。
英露普を叩きのめして、フランスを欧州の覇者にして見せる。
断頭台に上るどころか、フランス大革命を叩き潰すまで。
そのためには最初に相手より心理的優位に立つ必要がある。
そう考えていた私は5月7日、ストラスブールで絶好の口実を見つけて早速活用することにした。
「結婚を止めてウィーンに帰ります」
私は大声を上げて、本当に歩いて帰り出した。
「私を王女メディアに例えるとは非礼にも程があります」
私は更に喚いた。
ストラスブールの引き渡し場には、王女メディアのタペストリーが飾られていた。
王女メディア、自分を裏切った夫に対して息子を殺す等の復讐を行ったギリシャ悲劇の人物だ。
私が嫁ぐ場に王女メディアのタペストリーを飾ることは、私を王女メディアだと公然と嘲笑するものだ、と言われても当然の仕打ちである。
このようなことをするとは、明らかに外交上の非礼な振る舞いと私が喚いても当然のことだ。
「いえ、そんなつもりは」
まさか私がそんな態度を執るとは誰も思わなかったのだろう、周囲全員が慌てだした。
オーストリアの関係者は私を宥めようとしたが、私の一言に沈黙した。
「神聖ローマ皇帝の皇女が、フランスに王女メディアだと公然と嘲笑されても、貴方達は私にその屈辱に耐えろ、と率先して言うのですか。それが正しいのですか」
流石に私にそこまで言われては、自分から非礼ではない、と言い出すことはできない。
非礼ではない、ということは、私に屈辱に耐えろ、というに等しいからだ。
更に言えば、私は神聖ローマ皇帝の皇女であり、実際の国力はともかく、格式的にはフランス王国の王太子より格上の立場になる。
そう言った背景からすれば、尚更、王女メディアの一件はますますもって非礼な話になる。
フランスの関係者は真っ青になって、慌てて王女メディアのタペストリーを外すことになった。
更に現場責任者が一存でしたこと、ということで取り繕おうとした。
「現場責任者が一存でしたことで、本当に申し訳ありません」
それこそ大臣級の人物が私の下に頭を下げにきた。
「現場責任者の処罰はどうなりますか」
目の前にいる大臣級の人物に、私は冷酷に聞いた。
「すぐに首にします」
「では、その首を速やかに私の下に持参してください」
「えっ」
「首にする、とそちらから言い出したのですよね。こちらから望んだことでは無いのですが。それとも私を更に謀る気ですか」
「はい」
かくして現場責任者の首は文字通りに飛ぶことになり、私はフランスに無事に嫁ぐことになった。
そして、この一件で私はフランス国王周辺から恐怖で見られるようになり、やり過ぎたと私は自省した。
この話ですが、ご都合主義と言われそうですが、実は史実でもあったことで、ゲーテが呆れています。もっとも、史実のマリー・アントワネットはスルーした模様で、何で抗議しなかったの?と私としては不思議だったりします。
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