第49話
1810年5月、モスクワにてロシア帝国と連合軍の講和条約締結が行われていた。
ロシア軍は1809年から1810年の冬季反攻によって、連合軍をロシア国外へ追い出そうと試みたが、幾らロシア軍の将兵が冬に強いと言っても、冬営態勢を準備万端整えている連合軍に対して冬季反攻を成功させるのは、極めて困難だった。
それにロシア軍の焦土戦術は、それこそブーメランのように自軍の維持、補給物資の確保にも困難をきたす事態を招いた。
そのために弱ったロシア軍に襲い掛かったのが、発疹チフスや腸チフス、赤痢と言った疫病だった。
勿論、フランス軍を主力とする連合軍に疫病が全く発生しなかった訳では無いが、私が衛生対策を気にかけていて、医療部隊に厳重な対策を取らせていたことから、被害が遥かに軽くて済んだのだ。
そして、
「これは軍人の集団では無く死人の集団である」
という惨状に陥ったロシア軍の現状から、ロシア帝国は講和条約に応じた次第だった。
講和条約は基本的に1808年段階で私がロシア帝国に突き付けた講和条件とほぼ同じだったが、一つ変わった点があった。
ロシア皇帝アレクサンドル1世の妹アンナと私の曾孫になるルイ(19世)の婚約が決まり、更にアンナはロシア帝国の皇太女になった。
つまり、アレクサンドル1世が崩御した後はアンナがロシア皇帝を継承し、更に何れはフランス王国とロシア帝国は同君連合になる道筋が付けられたのだ。
ここにフランスは欧州の覇者になる道筋が確立したと言えた。
私は満足して夫や息子、フランス軍と共に祖国フランスへと帰国することになった。
尚、結果的にこのロシア侵攻作戦のために動員されたフランス陸海軍は後方警備も含めて約60万人に達しており、その内の大よそ3割、約20万人がロシアの土になって私の心は痛んだが。
史実のナポレオンのロシア遠征より遥かにマシな結果だと、私は自分で自分を慰めた。
そして、私達がフランスに帰国して数年後、プロイセンでは革命が起こった。
賠償金支払いのための重税が、プロイセン国内の不満を高めた果てだった。
ホーエンツォレルン家はプロイセンから亡命して、オランダ王国に庇護された。
そして、プロイセンは選帝侯の称号を返上して共和国になった。
この革命騒動だが、私は諸外国に根回しをして革命への介入を阻止する一方、更にこれ以降のプロイセンからのフランスへの賠償金支払いを免除した。
私としては、ホーエンツォレルン家による将来的なドイツ帝国建国を阻止できれば良かったからだ。
また、史実と少しずれたが、この世界では対ロシア戦勝により名を挙げたベルナドット将軍がスウェーデン国王に結果的に迎えられる事態が起きた。
そして、ボナパルト将軍はそのままスウェーデン王国に仕え続け、スウェーデン軍の将軍になった。
後、半ば余談に近い話になるが。
ハノーヴァー選帝侯国は、本来の君主であるジョージ3世がカナダへ移動したことから、事実上は統治者不在という事態になった。
こうした状況から、私は神聖ローマ皇帝フランツ2世に働きかけて私の成人した息子では三男になるシャルルをハノーヴァー選帝侯に叙して貰った。
また、英国王チャールズ4世に嗣子は無く、その弟達はカトリックからの改宗を拒んだ。
このために次代の英国王が問題となったが、チャールズ4世と私の夫ルイ16世は共に英国王チャールズ1世の孫ヘンリエッタの子孫であり、チャールズ4世の英国王請求権はヘンリエッタに由来することから、私の次男アンリがイングランド国教徒に改宗してチャールズ4世の養子となり、英国王太子になって、将来は英国王になることになった。
ここにフランスは欧州の覇者になった。
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