第44話
1808年春の時点で、フランス及びその同盟国の欧州における敵国は、ロシアだけになっていた。
1807年の冬営の時期を待たずして、英国やプロイセン、その他のドイツの諸小国を始めとする英国の同盟国は相次いで、フランスに対して講和を乞う事態となっていたからだ。
厳密に言えば、英国はジャコバイトが復権して、新たにチャールズ4世が即位しており、フランスはチャールズ4世を支持していたことから、英仏の講和が事実上は欧州では成立していた。
尚、これまでの英国王であるジョージ3世はカナダに逃亡して英国亡命政権を樹立しており、カナダを始めとする英国の植民地の殆どはこれを支持していた。
こうした事態を背景として、ジョージ3世らの英国亡命政権は英本土奪還を策する事態が起きていた。
これに対応するために、私はラファイエット将軍を米国に派遣して、カナダに存在している英国亡命政権を主目的とする攻守同盟をフランスと米国の間で締結するように働きかける事態となっていた。
私は後々のことを考えて、プロイセン以外のドイツの諸小国を始めとする英国の同盟国に対しては寛大な講和条約を基本的に提示した。
今後はチャールズ4世こそ真の英国王であると承認すること、更に英国との同盟関係を破棄すること。
それ以外は領土保全を認める代償として、50年賦の賠償を支払うこと。
50年賦というと多額のようだが、基本的にその国の税収の1パーセント程を毎年支払わせるだけだ。
私としては、各国に対して今後50年に亘って平和を維持するという具体的な意思表明の手段として、そのような講和条件を提示した。
この講和条件は多くの国で受け入れられた。
実際問題として、ジョージ3世はカナダへと逃亡しており、欧州の現時点での覇者がフランスなのは、ほぼ明らかになっていた。
そして、ロシアもプロイセン本土がフランスとオーストリアに制圧されたことや、ポーランド侵攻作戦がポーランドが多用した焦土戦術によって上手くいかなかったことから、ポーランド領外へと全ての自軍を撤退させる事態が起きていた。
こうなっては、英国の同盟国はフランスに屈服するしかなかったのだ。
その一方、プロイセン王国に課せられた講和条件は苛酷だった。
1740年以降に獲得した全ての領土は放棄させられ、王号は剥奪されたことから、これ以降はプロイセンは選帝侯国と呼ばれることになった。
そして、私の試算では新たな国土から得られる国民総生産の約3年分の賠償金額を、フランスとオーストリア、ポーランドにプロイセン選帝侯国は、50年間の分割支払いで支払うことになった。
更に賠償金の支払保障の為に、ポーランド、オーストリア、フランス三国軍の自国内への駐留をプロイセンは向こう50年の間は認めて、その費用は全額プロイセン負担とすることが定められた。
私を殺してくれ、とフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は講和会議の場で言ったが、
「嫌ならばプロイセン王国を完全に滅ぼすまで。何でしたら、国民の為に退位されては。退位されて私の息子の1人をプロイセン選帝侯にするのなら、賠償金支払いは免除しますが」
と私が恫喝したら、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は下を向いて講和条約に署名した。
賠償金支払いに苦しむのは国民だ、自分は犠牲になりたくない、とフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は判断したのだ。
この件でホーエンツォレルン家のプロイセン選帝侯の国内における国民の評判は暴落してしまった。
何故に国民に塗炭の苦しみを味合わせるような講和条約に、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は署名したのだ、お前が退位すればこんな事態にならなかったのだ、と多くの国民に思われたのだ。
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