第34話
フランス大革命が終結してから10年近くが経っていた。
私は1804年、ブレスト港に夫のルイ16世と共に赴いて、フランス海軍の最新鋭軍艦の完成式典、及び命名式に参加していた。
「この新たな軍艦をリシュリューと命名する」
その場における夫の言葉を聞いて、私はそっと目頭を押さえながら想った。
20世紀に建造された戦艦リシュリューと比較すれば、遥かに小さい小舟でしかないが、目の前にいる軍艦リシュリューは、現時点では紛れもなく世界最強の軍艦だ。
何しろこの時点では、世界中で蒸気機関を搭載して帆を張らずに航行できる軍艦は、リシュリューしか存在しないのだから。
それに間もなく、同型艦のジャン・バールも完成する。
英国は、フランスが蒸気機関を搭載した軍艦を建造しているという情報を察知してはいたようだが、実際にフランスが建造できるとは思っていなかったようで、リシュリューが完成間近になってから、慌てて建造を検討しだした段階だと軍の情報部からは私は聞いている。
更に言えば、フランスの蒸気機関は、(平均的な視点から見ればだが)英国の蒸気機関を凌ぐ性能を誇っているのだ。
英国が蒸気機関を搭載した軍艦を至急建造しても、数年の間は我がフランス海軍の軍艦の質量における優位が揺らぐことは無い筈だ。
その数年間の間に、我がフランス軍は英本土上陸作戦を遂行するのだ。
私は固く決意していた。
さて、何故にこのような事態が生じたかと言えば、私の記憶(未来知識)によって、この世界の蒸気機関の開発が史実とは違う形を取ったからだった。
私は1785年にそれこそ記憶の底まで考え抜いた末に、ジェームズ・ワットの弟子のウィリアム・マードックをフランスの科学アカデミーに招へいしたのだ。
ジェームズ・ワットは高圧蒸気機関の設計製造については余りにも危険である、として慎重論を唱えており、弟子のウィリアム・マードックにもそれを強いていたが、(史実同様に)ウィリアム・マードックはそれに不満を抱え込んでいた。
私はそれを思い出したことから、ウィリアム・マードックを招いて、高圧蒸気機関の開発をフランス国内で行わせることにしたのだ。
そして、ウィリアム・マードックは私の期待に応えてくれた。
これによって、フランスの科学アカデミーの全面協力も相まって、フランスは英国を圧倒する高圧蒸気機関の開発、量産化による普及に成功したのだ。
更にこれを活用した蒸気船までフランスが開発しつつあることから、英国は慌てて高圧蒸気機関の開発に乗り出したらしいが、メートル法の採用により度量衡の統一が進んでいるフランスに対して、英国は後れを取っていることもあり、高圧蒸気機関の開発、量産化は難航しているらしい。
(量産化となると、度量衡の基本的な統一及び製造公差の縮小が必要不可欠である)
そして、このような状況を見て、半ば史実通りだが1797年にフルトンがフランスに来てくれた。
私はフルトンのフランス来訪を知って心から歓迎して、有形無形の援助を惜しまなかった。
こうして史実を遥かに上回る状況が生じたことから、1801年にはフルトンは史実より遥かに早く、フランスの為の蒸気船、それも軍艦と商船(輸送船)の二種類を設計してくれたのだ。
これまで帆船とガレー船しか知らなかった海軍上層部は、蒸気船の採用に姿が美しくない等の難癖をつけたが、私の強烈な後押しや実際に蒸気船が帆船に優位する現実があっては反対しきれず、蒸気船を軍艦にすることを認めざるを得なかった。
そして、1804年現在、英海軍を差し置いて、終にフランス海軍は蒸気船の軍艦を世界で初めて保有することができるという事態が招来されていたのだ。
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