第33話
話がどうしても相前後してしまうが。
1789年の(この世界の)フランス大革命勃発以降の立憲議会の場において、私というか国王、王室側と立憲議会の多くの議員、ブルジョワ側で最大の対立点となったのが、農地改革の問題だった。
私は農地の貢租(地代)については速やかに完全無償廃止して、小作農を大量に自作農にして、完全な農奴解放を実現することを目論んでいたのだが。
(これはこの農地改革によって生まれた自作農を熱烈な王党派支持者にして、フランスの王政維持を図るという観点も実はあった)
ブルジョワ側にしてみれば、私の目論見は財産権の不当侵害にも程がある話だった。
ブルジョワ側にしてみれば、農地改革には反対しないが、それは有償廃止が当然だという主張だった。
最初にその主張を聞いたとき、私は確かに完全無償廃止は行き過ぎかもと自省したが、ブルジョワ側の主張を聞いて胆を潰した。
私にしてみれば、彼らは無茶苦茶な要求を言って来たのだ。
彼らは、最低でも貢租(地代)20年分を一括支払いしたならば、貢租(地代)の有償廃止に応じるという主張をしてきたのである。
彼らの計算は次のようなものだった。
貢租(地代)を廃止するということは、神聖不可侵であるべき財産権の不当侵害である。
そして、本来から言えば貢租(地代)は地主である以上は永久に得られるべきものである以上、その代償はそれなりのものであるべきだ。
貢租(地代)20年分を一括払いしたならば、それを運用して年利5パーセントの配当を地主は得ることができる筈なので、貢租(地代)の廃止を伴う農地改革には、最低でも貢租(地代)20年分の一括払いを条件とするべきである。
彼らはこのように主張して、自分達の主張を断固として譲ろうとはしなかったが、私にしてみれば、そのような主張は農地改革を事実上は不可能とするもので、こちらも断固拒否せざるを得ない話だった。
そのために押し問答が続いたが、革命の進捗はブルジョワ側の主張を徐々に弱めていくことになった。
全国三部会から立憲議会への移行、更にそれに伴う多くの守旧派貴族の武力を伴う抵抗の続発。
武力抵抗を鎮圧する以上、国家憲兵だけでは手が足りず、陸軍の協力もやむを得ない事態が多発するのはどうにもやむを得ない話だった。
更に言えば、国家憲兵はまだしも、陸軍内部には貧農層出身の兵が多く、彼らにしてみれば農地改革は陸軍を除隊した後の自分達の生活に直結した大問題だった。
そして、どちらの主張に味方した方が貧農層出身の兵達にとって有利かと言えば、言うまでもなく私の側の主張に決まっていた。
こうしたことから、陸軍を中心とする軍部は立憲議会の議員に対して、農地改革について無償廃止に動くように有形無形の圧力を自らも加えるようになった。
警護という名の国家憲兵の監視下におかれ、更に立憲議会の開かれているパリ及びその周辺が戒厳下にあるというのも、立憲議会の議員の多くにしてみれば猛烈な圧力になった。
こうしたことから、こじれまくった末の話ということにはなるが、最終的には1793年に農地改革は完全に無償廃止ということになり、フランス国内の農奴は完全に解放されて、その多くが自作農に転換することになった。
そして、この結果から、私の目論見通りに新たに誕生した多くの自作農が熱烈な王党派支持者になるのも当然のことと言えた。
それによって、少なくとも私の存命している間、フランス王国は(立憲君主制下の)王制が続くことを私は確信することができるようになった。
更に言えば、この農地改革で誕生した自作農は、軍の将兵の中核層を担うことにもなった。
私はこの農地改革の結果に完全に満足した。
これでフランス革命に関する話は終わり、次の話は1804年と少なからず時が流れた後の話になります。
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