第32話
かくして(この世界の)フランス大革命は、1793年の憲法施行により終了したと言えるのだが。
史実より少なかったとはいえ、それなりの流血を伴う事態を引き起こすのは止むを得なかった。
そのために立憲議会が解散して新たな国会議員が選ばれるのは1795年までずれ込む事態が起きた。
(本当は立憲議会が解散次第、国会議員選挙を私や夫は行いたかったのだが、憲法制定が全ての国民から歓迎されたとはとても言えず、憲法制定のための国民投票は更なる争乱を招く有様で、ある程度は国内が落ち着いてから国会議員選挙を行うとなると、1795年まで時間が掛かってしまったのだ)
何故にそのような事態になったかというと、多くの貴族がこれまでの特権廃止に反対して武力による抵抗を試みたし、また、そういった貴族に同調する反動主義者の武装蜂起や陰謀も多発したからだ。
また、私が考えた貧困層、貧農への農地の再分配は、それこそ立憲議会の有力者の大半を占めるブルジョワ層の議員の多くが、「財産権に対する不当な侵害だ」として反対を訴え、それに勇気づけられた大地主層の多くが武装抵抗を試みたことから、フランス全土で流血の惨事が起きたからだ。
(これは大地主の多くが貴族階級に属していたのもあった。
貴族に対する免税特権等の廃止に加え、更に自らの保有する農地の再分配は、貴族階級の地主層にしてみれば、それこそ国家による自分達への迫害に他ならなかったのだ)
後、私の未来知識から来る過剰警戒による迫害もあった。
特にジャコバン派を警戒して、私は迫害した。
もっとも、これにはお互いに求める支持基盤が重なっていたというのもあった。
私は(この世界の)フランス大革命勃発後は、ブルジョワと距離を置き、軍と大衆を王室の支持基盤にしようとして様々な方策を行った。
だが、軍はともかくとして、(史実でもそうだったが)ジャコバン派は大衆を自らの支持基盤として組織化し、暴動やデモを始めとする直接行動によって政治的成果を勝ち得ようとしたのだ。
これは史実、ジャコバン派の政権獲得の流れを知る私には完全に逆鱗に触れる話だった。
このためもあって、私はジャコバン派と敵対して迫害せざるを得なかった。
その結果、ロペスピエールやエベール、ダントンらは断頭台に送られた。
また、こういった事情が重なり合った末、旧来の貴族やその家族の多くが最後には英国へと亡命した。
これは史実と異なり、オーストリアが私の関係からフランス大革命について不干渉というより、好意的中立を保っており、また、ローマ教皇庁とフランス王室の関係が(史実よりも)良好であったことから、貴族等が亡命するとなると英国しか事実上は無かった、と言うのが大きかった。
夫というか私は英国に対して、亡命者のフランスへの引き渡しを求めたが、これまでの歴史的経緯や今後の事を考えて、英国は亡命者のフランスへの引き渡しを断固拒絶した。
尤も、これはこれで私に都合が良い側面もあった。
私としては、英国との戦争は不可避というか、何れはやらねばならない代物だと覚悟を固めている。
亡命者の引き渡し要求を英国が拒むということは、それこそフランスからすれば、英国が正当な要求を拒んだ、ということで英国に対して戦争をする理由になるからだ。
とはいえ、英国に対して我がフランスが戦争をする以上は、海軍力において優越する状況に至り、英本土にフランス軍が上陸できるようにならねばどうにもならない。
そうならなければ、英国はアメリカ植民地を失ったとはいえ、カナダやインド等の植民地を駆使して、最終的には我がフランスを敗北に追い込むだろうからだ。
私は秘策を胸に秘めつつ今後を考えた。
この世界のフランスの農地改革の話を1話投稿した上で、フランス革命を終わらせます。
尚、この世界のフランス革命の犠牲者数等は、話の中で後で描きます。
(感想欄での指摘があり、一部修正しました。
そのために一部の感想が結果的にあれ?と思われることになったことを心からお詫びします)
ご感想等をお待ちしています。




