第10話
この直後のポーランドの流れだが、私が詳細を知ることができたのは、1774年に義祖父ルイ15世が崩御して私がフランス王妃になった後になる。
この当時は王太子妃の小娘に過ぎない私だ。
国家機密に関する情報に触れられる訳がなかった。
1771年中にバール連盟支援の為に赴いていたデュムーリエ将軍を中心としてフランスとオーストリアが仲裁に動くことで、ポーランド国王スタニスワフ2世アウグストとバール連盟の和解は成った。
そして、オーストリアとフランスの後援の下でポーランドの改革は胎動を始めた。
(その際に一部の外交機密情報をフランスやオーストリアはポーランド側に流すことで、反ロシア、反プロイセン感情をポーランド側に引き起こすようなこともした。
この情報に驚いて、敵の敵は味方、ポーランド独立という大義の為に、史実よりも早くポーランド国王スタニスワフ2世アウグストは愛国派と手を握ったのだ。
更にオーストリアとフランスの後援もある。
史実のようにポーランド貴族の多くがロシアに奔る事態は起こらず、ポーランドの改革は始まったのだ)
その一方で、夫に愛された私は連年のように妊娠出産に追われていた。
このことで如何に母マリア・テレジアが偉大か、私は痛感した。
毎年のように妊娠出産をしながら、母はオーストリア継承戦争を戦い抜いたのだ。
庶民と異なり、幾ら乳母等の援けがあるとはいえ、平時でさえこれ程に大変なのに。
だから、多くの物事を必然的に任せる方向で私は考えざるを得なかった。
そして、1774年、義祖父ルイ15世は天然痘にり患して崩御した。
本来ならば、その死を看取るべきだろうが、この時もいつものように私は妊娠していた。
だから、義祖父を看取る等はトンデモナイことで、葬儀の参列さえも私はできず、義祖父を陰で涙を流しながら悼むことしかできなかった。
だが、その一方でどす黒い想いが私の心中で沸き上がってもいた。
これで夫は国王、私は王妃だ。
大抵の男は股間を握れば、握った女の言いなりになるというが、夫も同様だった。
夫が死んでも、私は王太后として権力の一端を握れるだろうが、息子が私の言いなりになるとは限らないというのは、母と兄を見れば明らかだ。
夫が生きている内に、私は王妃としてやれることをやっていかねばならない。
それに。
夫が愛妻家なのもあるのだろうが。
夫の公妾にと女性を勧める貴族等の影が無いのも、私にとっては幸いなことだ。
私以前に何人か愛人が夫にはいたらしいが、全員が夫の前から消えているようだ。
生首事件のお陰で、愛人は全員が背筋を凍らせて逃げ出したとか。
夫の公妾に妹や娘を勧めては私に睨まれてどんな目に遭うかと、殆どの貴族が怯えている。
ふふ、そんなに怯えなくてもいいのに。
もっとも、死にはしなくても祖国フランスの為に、税金としてその財産は奪わせてもらうけど。
その一方で、夫の愛情が他の女に向く可能性が極めて低いのは、私にとっては極めて有難い。
夫を操ってフランスの改革を私が進める際の障害が少なくなるからだ。
義祖父が崩御して私の檻が消えたことを、(内心に留めたが)一面では私は哄笑して悦んだ。
義祖父の葬儀が終わった後、私は速やかにラウドン将軍をフランス軍の将軍として呼ぶことを夫に勧めて、夫はそれを認めてくれた。
まずは軍の改革から、私の手足となって場合によっては国民に容赦なく銃や砲を向けられる軍隊を作らないといけない、私はそう考えた。
それと同時に、フランスの財政を再建せねばならない。
財政の裏付け無くして、強力な軍隊の維持は出来ないからだ。
テュルゴーを財務総監にする方向で考えるが、史実を考えると。
私はかなり悩むことになった。
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