私の用意した幸福な筋書き
「あなたが好きだなんて、誰が言ったの?」
彼の燃えるような瞳が、ゆっくりと歪む。
「シャーロット……」
「名前を呼ばないで。不愉快だわ」
ピシャリと言うと、目の前の男は動揺を隠しもしないまま唇の動きを止めた。
「もう一度言うわ。ヒースクリフ、あなたのことが好きだなんて、誰が言ったというの?」
青ざめていくその美しい顔に、恍惚めいた眼差しで微笑みかける。
ねえヒースクリフ。愛しいあなた。
私の言葉を信じてね。
―――
私はシャーロット。
家名はあるけれど、長過ぎて面倒だからただのシャーロットでいいわ。
そうね、父は伯爵だから、貴族令嬢という役職で呼んでも良いかしら。
父は合理主義者だから、親交の深い家よりも情勢のせいで関われなかった同爵位を持つワイルズ家とつながりを持つために私を使ったわ。
だから、暫定シャーロットだけれど、そのうちシャーロット・ワイルズになるわね。うん、シンプルでとても良い。
その、ワイルズ家の長男。私の婚約者となったヒースクリフ・ワイルズは、とても優れたお方。
代々騎士をなさるお家の御生れで、彼自身は騎士にはならなかったけれど、それを惜しまれるほどの実力を持っている。
私は、そんな彼がとても好きだった。
「シャーロット?」
「ああ……ごめんなさい」
呼ばれた声に振り返ると、燃えるような赤い瞳が、愛おしげに細められる。
「可愛い人。俺の存在を忘れるほどの、何をそれほど熱心に考えているんだ?」
私の金の髪をそっとすくって口付けながら、ヒースクリフはお伺いをたてるように問う。
「ふふ、貴方のことよ」
微笑むと、同じように微笑みが返ってくる。そんな些細なことの、なんと貴重で幸福なことか。
―――この幸せが永くないと知っているからこそ、身に染みてそう思うのかもしれない。
父が、他国に我が国の情報を渡していると知ったのは、ここ最近のことだ。
手慰みに計算をするのが趣味だった私は、なんとはなしに我が家のお金の出入りを計算し直した。
「……計算が、合わない……?」
顔色を変えた私の様子を訝しげに見る侍女のテディを誤魔化して、私は何度も計算し直した。
明らかに、帳簿に記載されているよりも多くのお金が生活に使われている。
そして、何より費やされていたのは。
お母様の、治療費に、だった。
「お母様、入ってもよろしいですか」
「あら!私が否定できると思って?」
ノックの後に問うと、少女のような華やかな笑い声と共に冗談めいた返事が返ってきた。
そっと入って、お母様がいらっしゃるベッドの側に寄る。
「ふふふ、可愛いお客さん、どうかしたのかしら?」
その笑顔に何の憂いもないことに、私は密かにほっとした。
彼女ならば、自分のための不正を知って明るくいられるはずもない。
母は、不治の病にかかっている。
すぐに死ぬようなものではない。日に日に静かに、だが確実に痩せ細り、最期には食べ物も受け付けず静かに死ぬような病だ。
昔はお転婆で外を駆け回っていたらしい彼女は、もうベッドから一歩も動けない。
今のこの状態を維持するだけでも、万全の環境と数種類もの薬が必要なのだ。
しかも、そのどれもが伯爵家を持ってしても躊躇してしまうほどの値がつく希少な薬。
私は、母に悟られないよう、こっそりと深いため息をついた。
父は、誰よりも母を愛している。
こんなことでそれを知ることになるなんて、思いもよらなかった。
あの冷血で合理主義な父が、犯罪に手を染めてまで母の生を繋げようとしている。
それは何よりも雄弁な証拠だった。
私は、本当のところ、少しだけ嬉しかったのだ。
母は病で部屋から動けず、父は深刻な仕事中毒患者。
だから、健康そのものの幼い私は必然的にひとりでいることが多かった。
家族での食事も、旅行も、会話すら、数えるほど。
仕方のないことだということは、何よりも私が分かっていた。
父と親交のある貴族の子息令嬢たちと遊ぶこともあったけれど、どこか性格が合わず、上手くいかなかった。それでも、父の仕事の邪魔になってはいけないとなんとか楽しそうに振る舞った。礼儀正しく、誰に対しても優しく、そして美しく振る舞えば、彼らはとても喜んだ。
だから、つかず離れずの付き合いも、人を騙す笑顔も、私の特技だ。
どちらかといえば、社交界デビューしてからのパーティーの方が屋敷で遊ぶより性に合った。
あそこで仮面を被るのは私だけではないから。
そこで……そう、そこで、私はこの世で二つとない奇跡と出会った。
出会ったことそのものが宝物で、幸せで、それこそ、ただその瞬間の記憶だけを頼みに生きていけるほど、私の中に占めるもの。
勿論、ヒースクリフ・ワイルズその人のことだ。
彼は初めから、燃えるような瞳をしていた。
まだ少年と言ってもいい年齢なのに、年に合った細い手足をしているのに、それに見合わない、戦闘心のようなものが、体中から漲っていた。
後に騎士の家系だと聞いて、深く納得したほど。
誰彼構わず睨みつけているために、優れた容姿にも関わらず、デビューしたての少女たちに怯えられていた。
そして私はーーーいえ、彼の方も、目が合った瞬間から、お互いに視線を片結びでもされたみたいに目が離せなくなっていた。
彼は私を睨みつけ、私の方はといえば、まるで阿呆みたいに口を開けて彼に見惚れていた。
一目惚れ、というのかしら。よく分からない。
とにかく、その強烈な存在感と、ひとつも取り繕わない明け透けな瞳が、私に目を逸らすことを許さないようだった。
その後、言葉は交わしていない。
私はお父様に連れられ、見慣れた貴族たちに挨拶に回らねばならなかったし、彼の方は彼によく似た年上の男性に何やら窘められていたようだったからだ。
彼に話しかけられたのは、それから数日後に開催された陛下主催の園遊会の日。
騎士らしく陛下のお側に控える彼の家族らから離れ、彼は私の腕を掴んだ。
丁度、お父様が仕事相手との会話で手一杯な時だったので、私はつい、何の抵抗もせず彼に付いていった。
「……名前は?」
「……え?」
彼は、半分だけ顔をこちらに振り向いて、もう一度言った。鋭い視線に射抜かれ、私はまたぽかんと間抜けに口を開ける。
「名前」
「……シャーロット」
「シャーロット」
彼が、私の名前を口にした。
それだけのことなのに、私は酷く驚いたことを覚えている。
その時はそんな自分を不思議に思っていたけれど、今は、何となくわかる。
心のどこかで、真っ直ぐに自分の心のままに振る舞う彼と自分とを、異質なものだと思っていたのだろう。
だから、その口から私の名前が出たことがちぐはぐなものに思えて仕方なかった。
そして、それと同時に、私は確かな喜びも覚えていた。
「……あなたは?」
私は、礼儀も優しさも美しさもない、ひどく間抜けな声で問い返した。
「ヒースクリフ。ヒースクリフ・ワイルズ」
そこで、完全にこちらを振り返った彼は初めてニッと私に笑いかけたのだ。
その日から、私の人生は薔薇色に染まり、恐ろしいまでの速さで幸せの階段を駆け上がることになった。
父がその親交の手を広げ、彼の家に興味を持ったために私と彼の婚約が決まったことも大きい。
今となっては、その目的がお金を稼ぐ手段を増やすことにあったのだと分かり、複雑ではあるけれど。
それでも、私は間違いなく幸せだった。
なにより彼の方も私を憎からず思ってくれたことが、このまま死んでしまってもいいと思えるほどの幸福だった。
だから。
だから、私は。
父を止められない私は。止めたくない我儘な私は、自分の為に自分を見捨てることにした。
ごめんなさい。ヒースクリフ。
私は貴方を選べない。
将来有望な貴方を、犯罪者の家族になどさせたくない。婚約者の重みを背負わせたくない。綺麗なところで、心からの笑顔でいて欲しい。
かといって、やっと得た家族を捨てたくない。
お父様がお母様を愛していて、お母様もお父様を想っている。
こんな温かな事実を手放せない。たとえいつか崩れるものだとわかっていても、私がこの手で壊すなんて出来ない。
―――本当にごめんなさい。ヒースクリフ。
本当は、全部全部違うの。全部欲しい私のため。私だけのため。
だから、ね。
―――
荒々しい足音が耳に飛び込むか飛び込まないかのうちに、私の手首は捕らえられた。
おかげで私は石畳の上でたたらを踏む羽目になった。
「……どういうことだ」
唸るような、低過ぎて酷く聞き辛い声を、私の耳はしっかりと聴き取る。
私は、何も言わず彼を振り返った。
相変わらず、その瞳に強い炎を宿した彼は、しかし常の何倍も熱く静かな青い火でもってうっかり目線を合わせてしまった私の目を焦がそうとした。
私はさりげなくその瞳から視線をずらす。
その瞳の引力から逃れることには、ここ最近やっと慣れてきたばかりだ。
「……何故何も言わない。理由があれば聞くと言っただろう。その口から真実を聞きさえすれば、俺は揺らがずお前を信じると言っているんだ」
この質問は、何度目だろうか。
当初の、優しく促すような響きは、いつの間にか硬質なものに変わっていた。
その瞳の奥に、はっきりと疑念が浮かんでいる。
それを見て取り、思わず笑いそうになる口元を引き締める。
仮面を被るのは、得意分野だ。
私は今から、彼にとても酷いことをする。
彼のためだなんて言わない。勿論、正真正銘自分のためだ。
真に彼のためを思うならば他に幾らでもやりようがある。
それでも、私は彼を傷つけたい。
私は、ハッと鼻で笑って目を細めた。
彼の雰囲気に、ピリッと刺々しいものが混じる。
「……どういうこと?そうね、そろそろ教えてあげるべきよね」
くすくすと声を立てて笑うにつれ、彼の眉間のしわが深くなってゆく。
そのしわの一筋まで愛しいと言ったら、どんな表情をするだろうか。きっとそのしわはなくなるだろう。それとも、より深くなるかしら。
馬鹿げた夢物語を思い浮かべながら、私は彼に、そして私自身にとどめを刺すべく口を開く。
「そろそろ満足できなくなってきたの」
出来るだけ軽やかに、明るく、何でもないような声色で彼に微笑みかける。
その硬く引き結ばれた口元が、慎重に開く。
「満足、だと?」
「そうよ」
私を推し量るようなその瞳から逃れるべく、私が話し始めたことでやや緩んだその手から、するりと手を引き抜いてくるりと半回転する。
「正直、あなたってつまらないし、贈り物の趣味もありきたりだし、顔や家柄はいいけれど口説き文句もワンパターンで飽きてきたのよね。美形は3日で飽きるってこのことなのかしら」
ずけずけと発する私の心にもない言葉を、彼は黙って聞いている。その表情に変化はないため、この言葉に何を思っているのかはわからない。
「……君が多くの男と遊んでいるというのは、本当のことだと言いたいのか」
やっと発された台詞にも、最早温度も湿度もなかった。
「本当?……ふふふ!本当か嘘かなんて問題ではないわ!単なる事実だもの」
彼の瞳は、恐ろしいほど静かだ。
私を切り捨てたのかもしれない。最早、私への興味は消え去ったのかも知れない。
それは良いことた。それならば、彼はきっとすぐに幸せになれる。
ああ、でも、どうしよう。
そんなの、嫌だ。
「貴方も素敵だと思っていたけれど、他を知ればどうということはないわね。……ふふ、馬鹿な人。私を信じてくれていたのね。でも、もういいのよ。きちんと教えてあげる。何が知りたいかしら?エドワール侯爵様とのこと?レーニア子爵様とのこと?それとも騎士の……」
「もういい」
短く発された声。
私の世迷言は、彼の言葉に強く遮られた。
冷たい声。
そのひんやりとした色が、心地良い。
燃えるような瞳が、真っ直ぐ私を睨み付ける。
「君は……俺を好きではなかったんだな」
そう。
私を恨んで。憎んで。醜い私を、その心の深くに刻み付けて。
そうでなければ許さない。
「あなたが好きだなんて、誰が言ったの?」
好きだなんて生温い感情で、貴方に接したことなんてない。
けれど、きっと、ただ好きなだけならば、私は貴方の幸福を祈れたはずだっただろう。
貴方を言葉で呪おうなどと思わなかったはずだ。
仮面の下が、こんなにも腐ってしまっていたなんて、ずっと気付かずにいられただろう。
彼の燃えるような瞳が、ゆっくりと歪む。
「シャーロット……」
「名前を呼ばないで。不愉快だわ」
ピシャリと言うと、目の前の男は動揺を隠しもしないまま唇の動きを止めた。
「もう一度言うわ。ヒースクリフ、あなたのことが好きだなんて、誰が言ったというの?」
青ざめていくその美しい顔に、恍惚めいた眼差しで微笑みかける。
ねえヒースクリフ。愛しいあなた。
私の言葉を信じてね。
そして恨んで、憎んで、何も知らない被害者のままでいて。
そうすれば、きっと全てが上手くいく。
王室の調査員の手が、もうすぐそばまで迫っていた。
父の不正の相手は、私の条件を呑んでくれた。
運が良かったのかもしれないし、当たり前のことかもしれない。
父が漏らした情報はその代価の割に、巧妙な嘘で固められていて、あと一歩のところで機密に届かないようになっていた。
きっと、父は覚悟を決めていたのだろう。
最後の最後には国に害を及ぼさない覚悟、そして、露見した暁にはきっちりと裁かれる覚悟。父の最後の矜恃がそうさせたのだ。
そんな半端な情報を持ち帰ったその男のプライドは、正式な仕事としてのミスよりも、プライベートで賢しい小娘に嘘を吹き込まれたことにした方がマシだったらしい。
私は、遊んだ相手に振り向いてもらうため、間違いだと知らずに国の機密を漏らそうとした愚かな女として牢に繋がれることになった。
父には、あらかじめ話しておいた。
勿論反対はされたが、父ならともかく娘一人の手では、とても病気の母を支えられないと言えば、最後には黙り込んでしまった。
無機質だと思い込んでいた深いしわに囲まれた瞳が最後まで揺れていて、それだけで、私は十分に幸せになれた。
父は娘の管理不行届で身分を落とされたが、それでも生活はしていけるようだ。
母と共に地方で暮らすことになり、また、母の病を診てくれる医師もそこで見つかったらしい。
そして私は。
不思議なことに、処刑されることはなかった。
国家機密を漏らすなんて国家反逆罪に問われてもおかしくないはずだが、私がふしだらな馬鹿女として振る舞ったために、逆に大きな陰謀のあるものではないと解釈されたらしい。
それから、私の噂が全て私が勝手に吹聴した事実無根のものだとわかり、本格的に頭のおかしい女としてみなされたようだ。
私が裁かれればすぐにその嘘が判明するよう、信頼と発言力のある方々ばかりの名を使ったことが功を奏したようだ。
私は、罪を犯した貴族が繋がれる塔の地下で残りの一生を終えることになった。
少しだけひんやり湿ってはいるが、寝るのに十分過ぎるベッドと、小さな書物机のある空間は思いの外居心地が良かった。
少なくとも、眠って起きて静かに食事をしている時は、自室にいるのと大差ないほど安らいでしまう。
ただ、視界に入る鉄格子のはまった窓と重たいドアの小窓だけは、常に私の罪を自覚させてくれる。
私の幸せは全て手に入った。
父も、母も、そして愛しいあの人も、決して私を忘れない。
時折思い出しては、私のために酷く胸を痛めるだろう。傷ついて苦しんで、苦痛と共に私を思い出すだろう。
一人くすくすと笑う。
いつの間に、自分はこれほど壊れていたのだろう。
幸せな笑いの波が終われば、歪な自分への嫌悪と鋭い胸の痛みが襲う。
ただ真っ直ぐな愛情を注げたのなら、どんなに良かったか。
交互に訪れる複雑な感情に振り回され、泣きながら笑っては眠る。
ただそれだけの日々を過ごしていた。
「……シャーロット」
体が震えるのを、止められなかった。
静かなその声は、ずっとずっと、何度も何度も頭の中に響いた声。
振り向くのも、返事をすることすら恐ろしく、私はただ黙って身を硬らせていた。
そんな私を構いもせず、彼の気配は牢の扉を開いて通ってくる。
ゆっくり、落ち着いた足音が近づいてくる。
その歩みが焦ることはなかったが、かといって止まることもないだろうということは容易に想像できた。
私はついに耐え切れず、その歩みを遮ろうと鋭く声を上げた。
「何しに来たの!」
思っていたよりも強い声が出たものの、彼の足音は止まらない。
「……何しに?勿論、君に会いに来た」
温度のない、ひんやりとした声。
あの時あんなに嬉しかった声が、今は怖くてたまらない。
「……こちらに来ないで……」
「君に、俺の行動を制限する権利があるとでも?」
怖い。
怖い。
足音は近づく。
「来ないで!」
「シャーロット」
「私を呼ば……!」
肩に、何かが触れた。
ゆっくりと、半分だけ振り向いた先には、暗い中にもよく映える赤。
空気が微かに揺れる音がして、誰かが笑ったのだと分かった。
それが、目の前の男だと気づいた時には、唇を塞がれていた。
―――何、が?
突然の出来事に、頭が追いついていかない。
彼の手が私の後頭部を支え、さらに強く、深く二人を近づける。
咄嗟に瞑ってしまった瞼を、おそるおそる開いた。
燃えるような瞳は、私をずっと見つめていた。
それは、どれくらいの時間だったのだろう。
やはり焦ることもなく、ゆっくり離れていった彼の顔を見て、脳が回り始めた途端、私は慌てて息を吐き出した。
混乱と息苦しさに溺れかけ、息を取り戻そうとする私を、彼は黙って見ている。
だんだんと息が整い始め、私はやっと彼の瞳をもう一度見ることができた。
彼は何も言わない。
私の混乱を、楽しそうに目を細めて眺めているだけだ。
「……なんの、つもり」
強気に詰ろうと思ったはずの言葉は、少し震えていた。
赤い、赤い瞳。
楽しげに私を笑う瞳に、意識を絡めとられる。
「何もかも君の思い通りになっただろう?」
一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。
私を覗き込むその瞳に、彼を見つめる私が映る。
「初めから最後まで全て。だから、もう満足しただろう?そろそろ、俺の番でも良いじゃないか」
「なに……を」
「君が俺を好きだったことなんてなかった。それは俺も同じことだ」
ずきり、と胸が痛む。
酷く自分本位な胸の痛みに顔を歪める私を、彼は心底嬉しそうに見ている。
「……ああ、ひとつだけ思い通りではなかったか。君を死に逃してあげることは出来ないんだ。ごめんな。でも、大丈夫だ。もう独りにはさせないから」
「ヒース……」
「シィー……名前は呼ぶな」
そっと、その硬い指が唇に当てられた。
「ここには、俺とお前の二人だけ。名前なんて余計なもの、要らないだろう?」
私は、やっと気づいた。
彼は答え合わせをしてくれている。
潤んだ私の瞳の縁を、彼の指がなぞった。
「君のために贈るものも、君を口説く言葉も、何も要らない。他の人間と同じ言葉なんて要らない。優れた容姿も家柄でさえ必要ない。そういうことだろう?」
酔うような瞳は、きっと、彼を傷つけようとした時の私の瞳と同じものなのだろう。
「……俺は、ここの管理を任されているんだ」
微かに笑う彼に、私は思わず口元を緩めてしまう。
「本当?」
「ああ。だから、君が独りになることは二度とない。罪を犯した君は、ずっと、死ぬまで俺に見張られなければならないんだ」
彼は、少し口をつぐんでから、くすりと笑った。
「……結局、これも君の思い通りか?」
私もつられて笑う。
「貴方の思い通りでもあるんでしょう?」
私はやっと、自分の命がまだ消えていない理由を理解した。それはもう既に、私のものではないのだ。
彼は満足そうに笑い声を立ててから、ガシャリ、と後ろ手に冷たく重い牢の扉を閉めた。