意識組み換え遊戯 5
部屋に入って、俺は思わず顔をしかめてしまった。
「何かの間違いじゃないか?」
窓にカーテンが引いてあると思って歩み寄って開けてみると、窓はすりガラスだ。嫌な予感がして、そのガラス戸を開けると、すぐ目の前に隣の建物の壁があった。
二階建てのこぢんまりとした旅館だが、いろいろとまずい。
「こいつを見てもそう言えるかな?」
俺に続いて入ってきたメインが、薄汚れたシーツのベッドの横にある戸棚の扉を開く。
そこに現れたものを見て、俺は思わず首を振った。
「ほとんど豚に真珠だ」
戸棚の中には、最新式の意識加速装置が置かれていた。部屋がボロボロすぎるし、部屋の位置も悪いが、こんな装備があるのはその手の客にはありがたいだろう。
「ちなみに非常階段はすぐ横だ」
「ありがたくて涙が出るよ」
持っていたカバンを放り出し、借り物の上着もベッドに放った。耐レーザーベストも脱ぎ捨てて、楽になった。
「これからどうする?」
「俺を殺そうとした奴を、逆に罠に嵌める。因果応報だ」
ベッドに腰掛け、俺の意識を加速装置に接続。思考が高速になり、認識力が上昇。即座にユーリ有機治安警察へアクセス。巨大な意識情報体を経由して、そこに接続しているシイナの個人意識へ通信を繋ぐ。
(あら、珍しいお客ね)
俺はベッドサイドにあった旅館のパンフレットを眺めつつ、返事をする。
(そちらさんの取締官は、もう使い物にならないぜ)
(知っているわ。どこかの間抜けが忍び込んだことが確認されている)
なんだって?
くそ、生命倫理援助会は、俺に全てをなすりつけるつもりか?
(聞いてみるけど、俺の立ち位置はちなみに?)
(重犯罪者にしてテロリストとして、指名手配よ。今はユーリだけで追っている)
(取引材料があるけど、どうだろう)
意識の向こうでシイナが笑った。
(生命倫理援助会に関しては、私は把握している)
ちょうどいい罵倒の言葉がないが、ファッキンシット、って感じかな。
(連中をあんたが管理しているのか?)
(彼らと私は協調路線を取っている。意識麻薬は私の人生に光を与えてくれているわね)
(例の取締官はいい面の皮だよ)
どうとでも、という感情が帰ってくる。
(そちらの位置がわからないわね。さすがはマインド・ハッカーとして名を馳せる男なだけはあるわ)
(俺はマインド・ハッカーではない、とは言えないか)
(さっさと逃げた方がいいわよ)
その言葉が終わる寸前に、強烈な熱を感じた。視界で火花が散る。
シイナが叩きつけてきた意識防壁の灼熱を、俺の意識防壁が瞬時に無効化していた。ただ、それを隠れ蓑にして彼女は接続を切り、同時にユーリの意識情報体が臨戦態勢に切り替わった。
全意識捜査官が、意識連結や意識経路を超高速で調べ始めるので、俺は即座に離脱した。痕跡は消し、さらに偽装も施す。ユーリにつなぐ前にいくつかの意識迷路を噛ませてあったので、たぶん、追っ手は撒けるだろう。
現実ではパンフレットをビリビリに破り、床に投げた。
「どうしたものかな、これは」
メインが小さな冷蔵庫からコーラを取り出し、放ってくる。受け取って、栓を抜いて一口飲んだら、少し落ち着いた。
「ユーリは敵になった。生命倫理援助会も俺を狙っている。他の私警に保護を求めるか」
「そういう貸し借りは好きじゃないのだろ? アスカは」
「よくわかっているな。貸し借りは好きじゃないんだ」
もう一口、コーラを飲んで、それから瓶を眺めた。
俺には一つ、切り札が残っている。それを使えば、逆転は可能かもしれない。ただし現状では効果がない。今、切ってしまっては最終的に、押し潰される。
決定的なタイミングで、やらなくては。
「例のウイスキー、持ってきたよな」
訝しげな顔になったメインが、荷物の中から瓶を取り出す。
受け取って、製造年を確認。ふむ、あの名簿屋も考えたものだ。
「メイン、このウイスキーの密売人を探してくれ。八方手を尽くして、だ」
「密売人?」
「任せたぞ。俺は別の作業に入る。そう、だいぶ前に出かける前に、私警、ユーリに関して調べておいてくれって言っておいたはずだが、そこで手に入った情報をこちらへ回してくれ」
肩をすくめて、メインの意識から情報が流れこんでくる。予備の意識領域を解放し、全て取り込む。
「密売人探しは三時間でやってくれ。時間が問題になる」
時計を見ると、日付が変わって三時になるところだ。
メインが部屋を出て行き、俺は彼から受け取ったばかりの意識情報を整理し、まずは全部を複製する。二重化と呼ばれる、容量を倍にせずに仮想で複製する技術だ。
次にその私警に関する様々な情報を切り貼りして、時系列を無視して組み替える。
コーラを一本飲み干し、昔ながらの電話でカウンターに連絡を取り、食事を頼んだ。店はもう全部が閉まっている、と言われたので、コンビニにでも行ってくれ、と無理に注文する。加速装置でもわかる通り、特別な客の御用達の店なので、こういう無理も通る。
コーラを二本飲み干し、座っているのもしんどいので、ベッドに横になり、意識上では作業を続ける。
図画工作じみた作業の傍ら、常に意識防壁に気を配った。接触してくる奴がもし現れたら、ここに俺がいることが露見しているわけで、即座に逃げる必要がある。
ドアがノックされたので、起き上がって外に出ると、ホテルの制服を着た男がビニール袋を差し出してくる。礼を言って受け取る。
「コーラを補充したいんだけど、持ってきてくれるかい?」
「かしこまりました。いくつ、お持ちしましょうか」
「そうだな、十二本」
男が頭を下げて通路を戻っていく。どうやら冗談を本気で受け取ったらしい。まあ、いいか。
ベッドに戻り、袋からドーナツを四つと、グミの小袋三つを取り出す。思考労働には糖分が必要だし、カロリーも必要になる。しかしドーナツか。朝にはハンバーガーを頼もう。できるだけいい店の奴を。
ドーナツをガツガツ食べて、冷蔵庫の最後のコーラを取り出し、それで飲み下した。
十分ほどでコーラの瓶が十二本、きっちりとケースに入って運ばれてきた。さりげなく礼を言って受け取り、部屋の中に運び入れた。常温なので、自分で冷蔵庫に入れる。早く冷たくならないかな。
ベッドに寝転がり、目を閉じると、うとうとしてしまった。
「余裕だな」
ドアが開く音には気づいていた。メインが俺の顔を覗き込んでくる。
「仕事はしているよ。密売人は見つかったか?」
「苦労したが、見つけたよ。居場所も把握した」
よしよし。これでまた一歩、前進だ。
「じゃ、その彼だか彼女に会いに行こうか」
「彼女だよ。どこにいると思う?」
荷物をまとめて、俺は意識空間に自動思考情報体を設置。これで俺の意識が自閉モードになっても演算は続いていく。
「どこにいるかって? 歓楽街とか?」
「イタリアンストリートだ」
なんだ、またあそこか。近場だ。
荷物をまとめ終わり、コーラを失敬することに決めて冷蔵庫で冷えている奴を五本ほど、荷物に追加した。ちょっと重いな。
カウンターで会計を済ませ、外へ出るともう薄っすらと明るくなっている。
「メイン、注意しておいた方いいぜ。ユーリと生命倫理援助会はお仲間だ」
「そうと分かったということは、シイナと接触したな。何も自分が生きていることを示す必要もないだろうに」
「仕方ないだろ、彼女は信じられる気がした」
気がした、というか、そう思いたかったのかもしれない。
メインが自転車にまたがり、俺もその後ろに乗った。ゆっくりとしたペースで人気のない街を走る。中心部は今でも相当な賑わいだろうが、ここは生憎、そんなエリアではない。
逆に目立つし、何があっても目撃者がいないで済む。
「ちょっと緊張してきたよ」
思わず言葉にしていたが、メインは無言だった。
何かが路地から飛び出してきたのはそんな時、さすがに俺もびびった。
本物の猫だった。野良猫とは、珍しい。
走り去る猫を見送りつつ、俺たちは移動を続け、イタリアンストリートへ舞い戻った。例の小さな書店の前を抜け、パスタを提供する食堂や、デリバリーのピザ屋の前を抜ける。
自転車が止まったのは、映画館だった。しかもバーチャルシネマではなく、何十年も前の映写機を使うのが売りの店で、マニアしかやってこない場所。
「まぁ、防音設備は抜群だろうさ」
そんな感想を口にしつつ、自転車を路上に止めて、二人で中に入った。
ちらっと看板を見るとレイトショーが終わるようなタイミングで、しかし中に人の気配はない。カウンターの老人が睨み付けてくるので、俺は「大人二枚」と言ってみた。
老人は、渋い表情のまま、顎をしゃくって奥を示す。俺も渋面を見せて、同じ動作をしてやった。もう老人はこちらに興味を失ったようで、名目して動かなくなる。本当に人間か?
「行くぞ、遊んでいる暇もあるまい」
メインに促されて中に入る。
奥にあるドアの一つを開けると、その先は真っ暗で、しかしスクリーンには白黒の映画が映っている。ただし音声がない。無声映画か。
客席を見渡すと、観客は女性一人だ。メインを見ると、肩をすくめられた。知らない、ということらしい。彼は身振りで、待っていると意思表示し、通路へ戻った。
俺はゆっくりと女性の横に腰掛け、スクリーンを見た。
どこだ? おそらくヨーロッパが舞台で、役者も白人に見える。懐かしいと言っても見たことがないガソリンエンジンの自動車に乗って、男と女がドライブしている。
その映像の下に、字幕が流れていた。
と、その字幕が歪んだかと思うと、別のフォントに変わる。
あなたがアスカ? 思っていたよりも若いわね。
女性を横目に見るが、こちらを見ない。俺が口を開こうとした時、字幕が変わる。
ここでは無言がマナーよ。それを破ったら、仕事をしない。
やれやれ。ではどうやってコミュニケーションを取れと?
俺は椅子にもたれかかって、じっとスクリーンを見た。またも字幕。
あなたをしばらく無事に匿えるように手を打ちますけど、それでよろしくて?
無言で頷く俺。なんて健気なんだろう。
そう思っているうちに字幕に複雑な数字とアルファベットの羅列が流れた。意識は反射的にそれを読み取り、記録する。どこかの座標らしい。瞬間で思考が走り抜け、地図と照合され、トキオ・シティの一角だとわかった。
てっきり、どこか別の場所に放り出されるかと思っていた。
感謝を伝える方法もないので、俺はまだスクリーンを見ている。字幕が切り替わった。
そこに行けば一ヶ月はゆっくりできるわよ。それと、もしお望みなら国内でも国外でも、自由に行かせてあげますから。特別な料金をもらいますけどね。
さすがに俺も限界に達して、思考を練り上げて、字幕に干渉した。
ありがたいことで。そちらさんの名前は?
彼女は俺が字幕を変えたことに特に驚きを感じなかったらしい。彼女も字幕を変えてくる。
名前は言わない。居場所も言わない。仕事はするわ。
ダーツバーの男と関係があるんだろ?
そう字幕を操作した時、やっと彼女が小さく笑った。彼女が立ち上がるのと同時に、字幕のフォントがまた変わる。
彼とはただの商売相手。それも懇意のね。あなたもそうなりたい?
返事を保留して彼女の背中を見送り、うんざりとした気持ちでもう一度、スクリーンを見ると、エンドロールが流れている。いや、長い文章だ。
そこにはいくつかの姓名と活動拠点などが並んでいる。
なんなのかわからなかったのは最初だけで、すぐに理解が追いついた。
これはイタリアンストリートを仕切っている、正真正銘のマフィアどもの幹部の名前だ。
どうやら俺の意図、計画の本筋は、彼女には筒抜けだったらしい。意識は完全にシールドしてあって読めなかったはず。なら、俺の心理を読まれたかもしれない。経験や統計による、行動の予測か?
ここまでお膳立てされると、もう引き返せないな。
文字列が終わり、最後に大きく 「fin.」と表示され、部屋に明かりが灯った。やっぱり俺以外には誰もいない。
外の通路に出ると、メインが椅子に座って待っていた。
「一緒に入らなかった理由は?」
「二人きりの方が話しやすいだろ?」
変な風に気を使う奴だよ、こいつは。
「とりあえず、当面の宿は確保できた。彼女から聞いたか?」
首を横に振るメインに、俺はちょっと驚いた。
「中から出てきた女が、例の女だが、何も聞いていないのか?」
「中から出てきた?」今度はメインが訝しげになる。「誰も出てこなかった。まだ中にいるんじゃないか?」
どうやら俺はシンプルなトリックにやられたらしい。彼女は俺がスクリーンに気を取られている隙に、通路に通じるドアではなく、別のドアを使って外へ出たのだ。今頃、裏口か何かから外へ出て、追跡は不可能なんだろう。
ただ、それは信用がおける要素でもある。
いい仕事をしそうな女だ。
「女のことは忘れよう。移動だ」
カウンターの前を通る時、財布からコインを取り出し、名目している老人の前に放った。
「一人分の料金だ」
彼は目を開けずに受け取ると、何かをこちらへ飛ばした。
カードだ、と思った時には俺はそれを無意識に掴み止めている。
老人は元の姿勢になり、像か何かのように動かない。
歩きながらカードを確認すると、カードキーのようだ。しかし何も印刷されていない、真っ黒いカード。
外へ出るともう朝日が眩しい。長い夜だったな。
「さすがに疲れた。休む必要がある」
自転車のチェーンを外したメインが真面目な顔で言った。
「朝ごはんは何にする?」
こんな時でも食事の話になるのは、どこか可笑しいが、笑う気力もない。
さっさと休みたかった。
「適当なハンバーガーでいいよ。買っておいてくれ」
結局、こうしていつも通り、平凡な食事に落ち着いてしまう。
(続く)