神殺し
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はじまりはじまり
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(大地の命が弱まっている……)
しばらく前からアニマは感じていました。
生と死を司るアニマは、この世界のあらゆる魂を把握する事ができました。
ですから、大地そのものが弱ってきた事も感じられたのです。
それは短い目で見ても、長い目で見ても、自然に回復できるレベルではありませんでした。
(これを正常値まで戻すには……たぶん)
改善するための方法は分かっていました。
しかし、それを行うには、アニマ一人ではできません。
誰かーーアニマを手助けしてくれる人が必要です。
アニマは世界を見渡してみました。
けれど、この世界の中のモノでは、その役目を果たす事は難しいようです。
(そうか。ならば)
アニマは世界の外に目を向けます。
数多に重なり、隣り合った世界を見渡して、アニマは呼びかけました。
"ボクと一緒に来てくれませんか?"
そして、一つの魂が答えました。
「ーーうん。私をつれていって」
アニマは"本当にいいの?"と念を押します。
『彼女』はなんのためらいもなく、もう一度頷きました。
"ありがとう"
アニマはその魂をすくいあげて、自分の住む島へとつれていきました。
アニマの灰色の髪を一房、金と銀の血を一滴、そして生命の果実を一つ。
それらを材料に一人の赤子を生み出して、つれてきた魂の器にしました。
アニマは大切に大切に、せっせと赤子の世話をしました。
やがて赤子は一人の少女へと成長しました。
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灰色の髪は、生と死の色。
七色に輝く瞳は、命の光。
金と銀の血液は、生命の尊さ。
アニマは極彩色の存在です。
私の母であり、父である人。
否、アニマは神なのです。
彼女であり彼女でなく、彼であり彼でない、アニマは呼称に迷います。
だから、私はただ「アニマ」と、そう呼んでいました。
純粋な気持ちで『私』をやめてしまいたかった私に、アニマは新しい姿をくれました。
髪は、アニマと同じ灰色。
瞳は、生命の果実と同じ黄金色。
肌は、木の枝と同じ茶色。
血液は、樹液と同じ赤茶色。
"キミは生命の娘だね"
アニマは私の姿をそう表現します。
生と死を司るアニマは、二つの果実を創り出すことができました。
生命の果実と死の果実です。
生命の果実は黄金色。
死の果実は白色。
私には、それはリンゴにしか見えません。
しかし、この世界には『リンゴ』という果物はないらしいのです。
アニマは、世界の中心にある島で暮らしていました。
人々の間に伝わる神話では、「最果ての楽園」と呼ばれているそうです。
私はここでアニマに育てられ、アニマの力を少しずつ受け継ぎました。
そうすると、この世界の大地が弱々しい命を宿している事が分かってきます。
アニマはなぜ私をつれてきたのか、教えてはくれません。
けれど、力を受け継ぐうちに、自然とそれを理解していきました。
(あぁ、アニマアニマ。……我が救世主)
やがて来るその時を、私は恐れています。
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"アミカ"
外の世界からつれてきた『彼女』に、アニマは新しい名前をあげました。
生命の娘とも呼んでいる少女は、もう十分に成長しました。
(そろそろだろうか)
楽園で笑顔を見せる少女を見て、アニマは思いました。
大地の命は、もうかなりすり減っています。
持ちこたえるのは、あと少しの時間でしょう。
手の内に創り出した剣を、アニマはなんともなしに弄びます。
鈍色の光を反射するそれを、少女に渡さなければいけない時が、もう来ていました。
「そばにおいで、ボクの愛するアミカ。話があるんだ」
「はい、なんでしょうか?」
嬉しげに駆け寄って来た娘に、アニマは握った剣を差し出します。
「……これは?」
「アミカ、キミにこれをあげよう。そうしてーーこれでボクを殺してくれないかい?」
「…………アニマ」
黄金色の瞳が転がり落ちそうなほど、アミカは驚きを露わにしました。
茶色の指先で剣を受け取って、少女は唇を噛み締めます。
「この日が来なければいいと、ずいぶん前から祈っていました」
「賢いアミカ、ボクもキミとの時間を終わらせるのは至極残念だ。……だけれど、役割を果たさなければ」
「分かっています、我が救世主。私は、そのためにいるのですから」
取り乱す事なく懐に剣を抱いた少女に、アニマは心から愛しさを感じました。
アニマは、生と死を司る神。
その魂を世界に還元することで、大地の命を回復させる事ができます。
しかし、アニマが死んでしまっては、生と死の理が乱れてしまいます。
それに、神は簡単に殺す事はできないのです。
アニマは死そのものを司っているのですから。
少女は、アニマの力を受け継ぎ、アニマを殺し、アニマの代わりとして神になるためにつれてこられたのでした。
「アミカ、神の力はほとんどキミに渡した。ボクはもうすぐヒトになるよ」
アニマは楽園の端に歩き始めました。
娘は黙ってついてきます。
島の端、海を見下ろす断崖の上に、開けた場所と一つの石台がありました。
祭壇、運命の場所、神殺しの広場。
振り返ったアニマを見返したのは、静かに凪いだ少女の顔でした。
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温かな手が、私の額を優しく撫でます。
身体の中が蜜のような感覚で満たされました。
「さあ、これで力は完全に渡した。何をするべきかは、分かっているね?」
言葉を形にするのは恐ろしく、私はただ首を縦に振りました。
アニマが石台に横になります。
「神の代理人、生命の娘、ボクの愛するアミカ。さあ、おいで……キミの役目を果たすんだ」
私は石台の横で数秒、瞼を下ろしました。
「ーー分かりました。
私はあなたを殺します、アニマ。
それがこの世界の最高神、生と死の神、我が救世主、母であり父であるーーあなたの望みなら」
石台に横たわったアニマは、私を慰めるように微笑みました。
感情を浮かべる事もなく、私は手の中の剣を強く握ります。
一息で心臓へ突き刺せば、金と銀の血液が流れ出し、大地に染み込んでいきます。
アニマの魂が溶けていきます。
私はアニマの手に縋りついて、ひたすらにその七色に輝く瞳を見ていました。
少しずつ、少しずつ、少しずつーー。
アニマは笑みを描いたまま、一度だけ私の名を呼びました。
"アミカ"
ポトリ、と一粒だけ雨が落ちました。
金と銀の川がうねり、大地が息を吹き返していきます。
アニマの身体は霧のようにかすかになり、もう手を握る事さえできません。
石台が冷たくなっても、私はまだ動く事はありませんでした。
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主を失った楽園に、神々が集まってきました。
神殺しの広場で沈黙している生命の娘を、皆遠巻きに見ています。
やがて少女が立ち上がると、神々は一斉に膝をつきました。
月の女神が進み出て、初めに口を開きます。
「生と死の代理人よ、貴女の犯した罪をご存知でしょうか?」
「はい」
娘は粛々と答えます。
次に風の男神が声を上げます。
「神殺しを犯した貴女は呪われた存在です。代理人でありながら、生命の力を行使する事は叶わないでしょう」
「分かっています」
呪いを帯びた少女は、全てを受け入れる目で神々を見渡しました。
音楽の三女神がそれぞれに語りかけます。
「貴女は贖罪を為さなければなりません」
「世界に還った我らが神が再び帰ってくるその時まで」
「貴女は世界の綻びを直し続けなければならないでしょう」
「では、私は旅に出ます。犯した罪を贖う旅路へ。どれだけの月日がかかろうとも、我が救世主が戻ってくる、その日まで」
生と死の代理人、生命の娘、神殺しの少女ーーアミカは祭壇を後にしました。
海の男神と波の女神が、彼女を楽園からヒトの生きる大地へと運びました。
ーーそうして、三千年に渡る贖罪の旅路が始まったのです。