第3話 霧に消えて
よろしくお願いします。
足を取られそうになる枯葉を蹴飛ばしながら全速力で走るーーー。
なるべく木々を熊との間に挟むように、スピードを落とさずに両手も使って木を掴みながら進路を調整する。
一徹には、ひとりの兄弟がいた。
その3つ上の兄に連れられて小さな頃から近所の山に入っては遊んでいた。そして兄はスパルタだった。
思春期特有と言える衝動的志向に溢れる兄の、冒険ゴッコと称したレンジャー並みの行軍。一徹が半泣き、いや泣きわめき毎度毎度、日が暮れるまで野山を駆けずり回された。
断崖絶壁を素手で登り降りし、岩を飛び越え、大樹にしがみつき、滝壺にダイブする。自然の地形を利用した罠や、食べる事の出来る植物の採集や武器の作り方まで。
一徹はもともとの身体能力とポテンシャルは高かったのでその内に逞しく成長しトラウマは克服された訳だが。
そう言った無茶苦茶で破天荒ではあるが、明るく面倒見の良い兄の訓練まがいの遊びの甲斐あってすっかり自然にハマり、ここ数年は趣味のフィールドワークで山へと足繁く通っていたのだ。
だからコンクリートやグラウンドではない、自然界の不安定な足場で、どう対処しどう動けばいいかは身体が覚えている。
幸い夜とは言え澄んだ空には満月が輝いていた、昼間の様には到底いかないが足元はハッキリと見える。
所々に飛び出した倒木や岩を飛び越し、みぞおちの少し下辺りに重心を残したまま空中で姿勢を制御する。足から着地しようとするのではなく腰から。そうすれば足場の悪い場所でもすんなりと着地から次の一歩へと進める。
時には両手両足を地面に付け、獣の様に。一般人からすればまるで転げ落ちるかの様なハイスピードで山を下っていく。
時折、すれ違いざまに枝を折って申し訳程度のトラップを仕掛けたりもした。
だが、後ろに迫る熊は離れてはいかない。
あれだけの巨体だ、体をバネにした一歩は2メートルを超えるだろう。
(ーーーなんか、変だ…)
息を切らしながら、熊との縮まらない距離感に一徹は違和感を覚えていた。
一般男性の走るスピードはおおよそ16〜20㎞だ、それに対して熊はなんと40〜60㎞の速度にもなる。いくら一徹があり得ない速度で山を下り、そして熊の苦手と言われているこの斜面でも距離が縮まらないのは変だ。
しかし縮まらないなら幸いだ、追いつかれるよりも何倍も良い。ならば引き離そうと更に速度を上げて斜面を下っていく。
一徹は夢中で走るうちに、だんだんと周囲が白くなっていた事に気がついた。湿り気を帯びた空気が頬を冷たく撫でる。
ーー霧か。
中腹部の高原から降りてきたせいで、谷間に掛かった濃霧地帯に入ったのだろうか。もはや下り坂の森ではなく、なだらかな平地に入っていった。
茂る草を掻き分け足元がだんだんと覚束なくなって来たが、それでも止まる訳にはいかない。すぐ後ろから熊の追ってくる音が聞こえている。
しかし視界が完全に乳白色の霧に満たされ、自分がどこに立っているのかもわからなくなってしまった。
徐々にペースを落とさざる得ない。
そして、一徹は、ついに足を止めた。
「ーーーはぁっ、はぁっ」
大きく肩で息をする、もう足も限界だ。
(…静かだな。)
後ろをゆっくりと振り返ると、バックパックのサイドポケットから小ぶりのナイフを取り出した。鞘から抜き放たれたナイフは鈍く光を反射した。
「…はぁっ、はぁっ……ふぅ」
大きく深呼吸して、来るであろう瞬間に備える。
頰をダラダラと玉になって流れ落ちていく汗が徐々に冷え、少しずつ身体の熱を奪っていく。
ナイフを握る手に力を込める。
………
どれぐらい時間が経ったのだろうか、辺りは変わらず静かだ。
冷たい風がどこからともなく吹く、そうするうちに徐々に霧が晴れてきた。
じっと目を凝らす一徹。
距離はおおよそ5メートル、そこに熊が居た。
(最後まで足掻いてダメだったら、店長…ごめん、な)
ナイフを逆手に構えなおし、身構える。こうなったら最後まで戦ってやろう、一徹はアラスカで熊に襲われて亡くなったひとりの写真家の事を思い出していた。
一徹は彼の写真が大好きだった。よくベッドに転がっては何時間も眺めていた。彼の写真に切り取られたアラスカの原野に逞しくも美しく生きる野生の動物や植物の色鮮やかな生命力は少年を魅了した。
彼のように自然に溶け込みながらも、自然に抗い、殉じるのもまた悪くないように思えた。
「……ぐるぅ」
だが、ここまで追ってきた熊は小さく唸ると踵を返し元来た方へと戻っていった。
まるで目的は果たしたと言わんばかりに。
徐々に霧の向こうへと、黒い塊が溶けていく。
あっけに取られながらも警戒を解くわけにいかず、ただただ小さく、薄く消えていく熊の背中を見つめる。
小枝や落ち葉を踏みしめる音だけが残響し、やがて静寂に包み込まれた。
ーーーそして、熊は消えた。
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読んでくださって、ありがとうございます。
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