第1話 出会いは突然に
満天の星が煌めいている。桝方星とも言われる秋のペガスス大四辺形が浮かんでいた。
ペガスス座のアルファ座、ベーター、ガンマ、そしてアンドロメダ座のアルファ星が語りかけるようにきらきらと輝きを放っている。
それら四つの星を四角に繋げると、天馬と呼ばれるペガススの胴体だ。
「いやぁ、ここまで来た甲斐があったな…」
周囲には誰も居ない、短い秋の季節を惜しむかのように虫たちがコロコロと鳴いている。男はさっき淹れたばかりのコーヒーを一口飲んだ。
ともすれば眠りそうになる静寂を、苦みが優しく覚ましてくれた。
ランタンの炎がゆらゆらと揺れている。
ここはとある山岳地帯の、切り立った山と山の間にある南北に広がる森林の中にある空き地。
『乳母目山大森林地帯』、現代の日本では少なくなった広葉樹林を中心とする大森林で、縦横に広がる林道は本格的な登山客にも人気のあるコースだった。
休日は大勢の人で賑わい、あちこちで挨拶を交わすハイカーを見ることが出来る。
ただ今は平日でオフシーズンの為に、人影は全く無い。
誰に遠慮するでもなく、一人くつろいでいるのは加賀 一徹。今年で25歳になる青年。彼は久しぶりの連休を利用して、2泊3日で趣味のフィールドワークに出掛けてきていた。
普段は隣県の敦島市のフラワーショップで働いている。
当然、植物には毎日触れているが、まるごと包まれるというのは都会で花を扱う感覚とまったく別のものだ。
街と違った時間。
違った空気。
そして違う景色と出会いがある。
日常の喧騒を離れてこうやって野山を歩き回っては動植物や自然に触れていると、主体が自分ではなく自然になる。
どこからともなく吹く風や、揺れる草花、木々に見え隠れする野生動物たち。
彼らは彼らで、この山で逞しく、そして力一杯にそこに生きている。
『鹿は偉いよ、あいつらは鍋も包丁も、屋根もねぇのに家族を養っていくんだ』
一徹はこの山で出会った猟師の言葉を思い返しながら、マグカップの中で湯気を立てるコーヒーを見つめた。
文明の中に生まれ、文明に育てられた一徹は山の中では無力だった。
飲み水がどこにあるのか、何が食べることが出来て、何が食べてはいけないのか。身を守る爪も牙もなく寒さを凌ぐ毛皮も持たない。
自分がちっぽけなんだと改めて思う孤独感。
だが人間には知恵がある、地球上の動物の中でも類を見ない唯一と言っていいものだ。
出来ないことは、違うことで補えばいい。事前に考え、準備し、失敗を含めた経験、繰り返さないための努力、それらを積み重ねれば次第にこの山で生きていく術は身に付いていく。
昨日よりも上手く、自然と付き合えるようになっていく実感。
一徹はそれが好きでよくこうして一人で山にキャンプ道具を担いでは出かけている。
誰にも言わない、自分の為の趣味だ。
日中は山岳地帯の動植物の生態を観察がてらウロウロと歩き回っていた。ゆっくりと紅葉を始めた山を地図とコンパスを片手に思うがままにぶらつく。
双眼鏡で親子連れの鹿を観察したり、野鳥の鳴き声を聴いたりと。そして一徹は珍しい植物の花を見るのを生き甲斐としていたので、あちこちと駆けずり回っては固有種の花を見つけて満面の笑みで写真を撮ったり地図にメモを書き込んだりしていた。
呑気にフラフラと森を歩き回る一徹だったが内心はある心配をしていた。
これだけの大森林だと、実に様々な動物達が日々生存競争の中を生き抜いている。
動物の日本独自の固有種はおおそよ131種類、生物の多様性の楽園と言われるガラパゴス諸島でさえ110種である。
そんな日本の森林において、生態系の頂点に立つ生物が『熊』である。
行動しているときは熊よけの鈴を持ち歩き、近隣の猟師たちによる登山シーズン前の熊狩りがされた後、安全宣言が出されてから入山しているのでそんなに心配は無いと考えてはいたが。
いちおう護身用として申し訳程度のナイフは携帯しているものの、出番は川魚を捌くくらい。そもそも何かと戦う使い方など全く知らなかった。
「その時は…なんとかなるさ」
この時まだ一徹は、自然を甘く見ていた。
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そうして日中は散策していた一徹だったが、今はこうしてベースキャンプでくつろいでいるというわけだ。
ランタンの灯りに引き寄せられた小さな蛾がクルクルと踊っている、キャンピングチェアに深く腰掛けてそれをボンヤリ眺めていた一徹はあくびをした。
今回、この山に来た一番の目当ては湿地帯に生える固有種のユリ科の群生だ。
ユリ、正確には透かし百合と呼ばれているが、その透かし百合の中でもここにしか生息しない希少種が、この時期になるとすらっとした茎から薄いオレンジの花を咲かせる。
通常であればユリの咲く時期は春から初夏までだが、なぜかここのユリは秋に咲く。
ユリの遺伝子異常によるものなのか、気候を含めた地質的なものなのかは解っていない。なにかこの山に特別な条件でもあるのか、日本でも唯一と言われていた。
「あれは、去年の今頃だったなぁ」
コーヒーを啜りながら、頭に浮かぶ情景に浸る一徹。
深い群青の空に、紫が混じり、夕暮れに輝くばかりの赤やオレンジが雲を染める。
湿地帯に溜まったわずかな水面に、キラキラと茜色の夕陽が反射して天地の境をなくしてしまう。
無数に咲くユリの花が風にそよぎ、その薄い花びらはまるで緻密に誂えられた絹織物のようで。
まるで別世界のような、胸の詰まる景色だった。
去年の同じ時期にたまたま迷い込んだこの湿地帯で、一徹はその幻想的な景色に目を奪われた。そして、今年もその景色に会いに来たのだ。
写真は撮らなかった。なにか汚してはいけない、そんな静謐な空気がそこにはあった。
一徹は生きるというのは、素晴らしい瞬間に出会うためだというのが哲学だった。
まあそれは例えば自動販売機でアタリが出たとか、ちょっと天気が良いとか、そういうのも含めて全てだが。
兎にも角にも、人生すべからく愉しむ為にある。
(あのバカ兄貴にも、見せたいもんだよ)
そして明日は一年でこのシーズンしか訪れない特別な時間。絶対にまた、再び帰ってくると一年前から入念に準備して来たのだ。ウキウキと心が弾んでしまうのも無理はなかった。
「さて、それじゃあ寝ますかね」
残っていたコーヒーを飲み干すと、大きく伸びをする。一日中、休憩も忘れて歩き回ったせいで体はクタクタだった、どうやら今日はぐっすり眠れそうだ。
(明日は夜が明ける前に起きて、朝陽を見ながらコーヒーだな)
明日のスケジュールを頭の中で組み立て、上機嫌で寝床に向かうために椅子から立ち上がった。
だが妙な違和感を感じた、さっきまで忙しなく鳴いていた虫の声が聞こえないーー。
今日は満月だ。ざあっと肌寒い風が吹き抜け、さっきまで月を覆っていた薄灰色の雲が流れると、月光が一徹の周りを明るく照らした。
一徹のベースキャンプを囲む様に並ぶ木々に光が当たって、影を消していく。
(まさか、ね……)
ふと横に目をやると、
僅か10数メートル向こうから、巨大な熊がじっと一徹を見つめていた。
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