僕と彼女の関係
うわっ、暑い……。
僕は冷房で冷え切った自動車の空間から外に出ると、掴んでしぼったら水が滴るのではないかと思えるほどの湿度の高い熱風にさらされて顔をしかめた。
日が傾いたとはいえ真夏の日差しは厳しく肌を焼く。その空間から早く逃げ出したくて無意識のうちに足が早まった。
待ち合わせ場所であるバス停近くの大型書店に飛び込むと、ひんやりとした風が全身を包んで僕は生き返る思いだった。
美希との約束まではまだ二十分ほどある。
ふいに携帯が鳴った。それはメールの着信を知らせる音色だった。
ポケットから携帯を取り出して画面を開いて、キーをカチカチと押しながらメールを確認した。
『ごめーん。ちょっとかなり微妙に遅くなりそうだから病院まで迎えに来てくれるかな?』
デコがいっぱい張り付いたメールは美希からだった。それにしても『ちょっとかなり微妙に』という時間はどれくらいの時間設定なのだろうか?
(ホント、美希らしい)
僕は彼女の子供っぽい表現にクスリと笑いながら『OK。迎えに行くよ』と返信メールを送ると入ったばかりの書店から飛び出した。
美希とは二年ほどのつきあいになる。
出会いのきっかけは、僕が入院した市立病院で美希が看護学生として実習をしていた事に始まる。僕は悪友と一緒にバイクでツーリングに出かけたのだが、何もない場所でこけて骨折してしまい、入院する羽目になってしまったのだ。
その時、美希は僕のために画用紙に可愛らしいイラストや文字でリハビリメニューを書いてくれた。そして、本当にありがちな話だが、親身になって看護してくれる彼女に僕は心を奪われてしまった。
後から聞いた話によると、可愛らしいイラストや文字で書かれたリハビリメニューは僕が相手だから特別に書かれたものではなく、看護実習の一環だったらしい。
例え授業の一環だったとしても初々しい看護学生であった美希が一生懸命に書いてくれたメニューや、つらいリハビリの時に声援を送ってくれる事はとても心強く、嬉しかったものだ。
退院後もどういう経緯か分からないうちに彼女とメール交換をするようになり、今では恋人といってもいい関係になっている。
「俺も骨折してええええ! 彼女欲しいぃ! しかも九歳も年下なんて!」
と、悪友たちが悔しがるのが少し楽しい。「このロリコン!」
美希は現在二一歳だ。立派な成人だ。よってロリコンではない。異論は認めない。
街の中心部から少し離れた場所に美希の職場である県立病院がある。
僕はその駐車場に車を止めるとむせかえる暑さから逃れるように走った。途中にある五段ほどの階段を一気に登り、やや夕焼け色に染まり始めた正面玄関から病院のロビーに駆け込んだ。
この県立病院は美希が看護実習していた市立病院よりレベルが高いと言われている。美希は口にはしないが優秀な看護師でないとここにはいられないだろう。昔から彼女はにこやかな顔で、しかし一方で黙々と努力を重ねているのだ。
『ロビーなう』
僕はロビーの隅に腰かけると美希にメールを送った。
そう言えば、この県立病院に来るのは久しぶりだ。子供の頃に入院した時以来だから二十年以上経っている。
子供の頃の記憶とまったく違う風景に僕はキョロキョロとロビー全体に視線を走らせた。
コツン。と何かが僕の心にぶつかるものがあった。
あれ? なんか、思い出さなきゃいけない事があるような気がする。なんだったろうか?
仕事の事だっただろうか? それとも悪友との遊びの約束?
そんな事を考えていると、視線の先で看護師が押す医療用ワゴンに向かってよそ見をした五歳ぐらいの男の子がまっすぐに走って行く姿が見えた。
(あっ!)
と、思った瞬間、僕の右肩が背後から叩かれ反射的に振り返った。そこには誰かの人差し指があり、僕の頬はぎゅっとへこまされた。
ガシャーン!
同時に医療用ワゴンに子供がぶつかったのであろう。ロビーに金属器具が床に転がる音が響いた。
その刹那、僕の頭の中に火花が走った。
こんな事が確かにあった!
幼い頃の記憶が突然、頭の中を駆け抜けていった。
僕は八歳の時、死の病に侵されてこの県立病院に入院していた。病名は脳腫瘍。
最初は物が二重に見えておかしいなと思ったのが始まりだった。両親に訴えてみたが二人とも仕事が忙しい上に、僕が症状をうまく説明できなかったことで相手にしてもらえなかった。そのために病気はどんどん進行してしまった。
学校の授業中に急にめまいと吐き気がして倒れた時にはすでに手遅れだった。
場所が悪く外科手術もできず、放射線治療も抗がん剤も効果がなかった。
「もう、そんなに長くないでしょう」
主治医は僕の病状をそう両親に伝えていたらしい。
一方の僕はというと、最初は学校が休めてラッキーぐらいの軽い気持ちだった。
だが、日を追うごとに頭痛はひどくなり、二カ月経つ頃にはベッドから出る事も滅多にできなくなってしまった。
自分の病気は何なのだろうか?
両親も看護師も先生でさえ、頭の中のバイキンのせいだと言う。けれど、小学三年生の僕でもこれは簡単な病気ではないと感じていた。
今までずっと共働きだったのに母が仕事を辞めた。
僕が入院してからずっと毎日、朝から夜までずっと一緒にいてくれる。まるで今まで僕を放っておいた時間の穴埋めをするかのように……。
おかしい。
これは簡単な病気じゃない。ひょっとしたら、僕はこのまま病院から出る事もなく死んでしまうのかも知れない。そう考えるととてつもなく恐ろしかった。
だが、自分の病気の事を改めて母に尋ねる勇気は僕にはなかった。
そして、そんな勇気も何もかもなくしてしまうような気だるさと吐き気が日を追うごとにひどくなり、もう自分の事などどうでもよくなってきた。
この時の僕は目の前の症状の苦しみだけで精一杯になっていたのだ。
「じゃあ、また明日ね」
母がそう言いながら優しく僕の頬を撫でた。
いつもなら、心細くて泣いてでも母を引き留めていた僕だったが、今日は吐き気がひどくてそんな気力も湧かなかった。
視線を母に向ける事しかできない。心の中で『いかないで!』と念じながら……。
だが、そんな思いなど口にしなければ伝わるはずもない。母は悲しげな微笑みを浮かべて立ち上がると部屋の照明を少し暗くしてから出て行った。
部屋の中が静寂に包まれた。ここは四人部屋だが一人また一人といなくなって今では僕だけだ。
広い部屋に一人だけ取り残されると心細いと思ったが、今はそれよりなにより吐き気がひどくそんな思いはすぐにどこかに飛んで行ってしまった。
「ねぇ」
目を閉じて吐き気をこらえていると、そんな女の子の声が聞こえた。
いや、聞こえたというより頭の中に直接響いてきたような、とても不思議な感じだった。
「ねぇ、キミ、聞こえる? 聞こえてるよね? お願いがあるんだけど」
僕は目を開けた。全身がだるく、頭を起こすこともできず、目をぎょろりと動かしてその声の方向に目を凝らした。
僕の足元になにかがある。人間ほどの大きさのぼんやりとした光が見えた。
僕はその正体をしっかり見るために頭の痛みに耐えながら身体を起こしてその光に顔を向けた。
「ひっ」
と、光の正体を見て恐怖のあまり僕の口から息を飲む音が漏れた。
僕の足元にはこの病院の貸し出しパジャマを着た少女がゆらゆらと揺れながら立っていた。しかし、その姿は異様だった。ぼろぼろに引き裂かれた左腕の袖口からぐちゃぐちゃにつぶされ血がしたたっている腕が見えた。
それだけではない。首がないのだ。首があるべき場所はぽっかりと闇の空間となっていた。
「あたしの事、見えてるよね?」
その首なしはそう言いながら足元からゆっくりとこちらに近づいてきた。
僕は絶叫した。
「大丈夫? 隆君。落ち着いて」
その声に看護師があわてて駆けつけてきた。そして、僕を安心させるために優しい笑顔を向けながらふわりと抱き寄せてくれた。「どうしたの? 私がいるから大丈夫よ」
視界の隅で首なしの化け物は僕から離れ徐々に消えていった。
「首が……首がない女の子が……立ってたの」
僕はわっと泣き出し、泣き声としゃっくりの間に必死に言葉を割り込ませて看護師に訴えた。
「怖い夢を見たのね。もう大丈夫よ」
看護師は僕の頭を撫でながら、ベッドに寝かしつけた。
「夢じゃない。僕、見たよ!」
「頭の中のバイキンが怖い幻を見せる事があるのよ。大丈夫」
優しい微笑みを浮かべて看護師は僕の手を握った。じんわりと手が温められて僕はだんだんと落ち着きを取り戻していった。
「幻?」
「そうよ。隆君の頭の中のバイキンが見せてる幻よ。みせかけだけだから、隆君が強い気持ちを持っていれば何もしてこないわ」
「本当?」
「ええ。どうしようもなかったらすぐに呼んで。私たちみんな強いからそんなの全部追い払っちゃうから」
にっこりと笑う看護師に僕は安心して頷いた。「さあ、眠って。私がちゃんと見ててあげるから安心して」
僕は泣きながら目を閉じると、やがて眠りに落ちた。
次の日も母親が帰った後、またあの少女の声がかすかに聞こえた。
「ねぇ」
昨日より体調がよかった僕はその声にビクリとしながら身体を起こして部屋を見渡した。
誰もいない……。
部屋の中は蛍光灯の光でとても明るく照らされている。こんな状態で幽霊が出るはずがない。看護師さんが言うように僕の頭の中のバイキンが見せる幻だ。
「ねぇ。昨日は驚かせちゃってごめんね」
今度ははっきりと聞こえた。
(これは幻! 夢!)
僕は自分にそう言い聞かせながら両手で耳をふさいで布団をかぶった。
「あたしの姿が怖いだろうから、今日は声だけ。声だけなら怖くないよね?」
耳をふさいでいるのに優しい囁き声が頭の中に響いた。
僕は両目をつぶって、さらに耳の穴に人差し指を突っ込んで、「聞こえない、聞こえない」と呟き、その声を頭から追い出そうとした。
「もう、男の子のくせに怖がりだなあ」
あきれたようなため息交じりの声と共にクスリという笑い声がはっきりと聞こえた。
昨日、あんな恐ろしい姿を見せておいて『怖がり』はないだろう。あんな姿を見たら誰だって悲鳴を上げるに違いない。
僕は少女の笑い声を聞いて恐怖よりも怒りを感じた。
「あのね、聞いて。お願いがあるの。あなたの病気をあたしにちょうだい」
「病気を?」
耳をふさいでも何をしても聞こえてくる声に僕はつい聞き返してしまった。
「あ、やっと口をきいてくれた!」
その声はとても嬉しそうに弾んでいた。
「キミはなんなの? 幽霊? 死神?」
こうなっては仕方がない。僕は観念して薄目を開けて布団から抜け出すと部屋を再び見渡した。相変わらず、なんの変哲もないいつもの病室だった。
「あたしは神崎マリ。うーんと、幽霊ってことになるのかな。ここで死んじゃったから」
「ここで死んじゃったの?」
「四年前に飛び降り自殺しちゃったの。白血病で長く生きられないって聞いちゃって、もう、何もかも嫌になっちゃって……」
さっきとうって変わって寂しげな声色だった。
「自殺……白血病……」
僕は少女の言葉をおうむ返しに呟いた。
「あ、ごめん。子供だから、意味わかんないか」
「わかるよ!」
僕は子供扱いをされてむっとして言い返した。「それに、マリだって子供でしょ?」
「いきなり、呼び捨て?」
売り言葉に買い言葉という感じで、マリは声を荒げた。
「ご、ごめんなさい」
僕は昨日の首なしの恐ろしい姿を思い出してマリに謝った。彼女が怒り狂って現れたら僕は叫び声をあげることなく気絶してしまうかも知れない。
「まあ、呼び捨てぐらいいいけど」
マリは一つ息を大きく吐いた。「とにかく、キミの病気をあたしにちょうだい。そうしたら、キミは元気になるよ」
「なんでそういう事をしているの?」
うまい話には裏がある。
おばあちゃんがよくそんな事を言っていた。
マリの話には分からない事がたくさんある。体調がいい今のうちにしっかりと聞いておきたかった。
「死んだら終わり。あたしはそう信じて自殺したんだけど、そうじゃなかったの」
神妙な口調でマリが言葉を続けた。「だるくて気持ち悪いのが死んでからもずっと続いた。身体がなくなったのにずっとつらいままだったの。死んじゃったから、ここにいる人たちはあたしに気づかない。ずっと苦しくてつらいまま一人でいたの。何日か経ったら神様が来てね、こう言ったの。『お前は苦しくても最期まで生きなければならなかった』なんてね」
「えー? だって、そのままでも死んじゃったんでしょ?」
僕は訳が分からなかった。マリは病気で死ぬところだったのだ。ほんのちょっと自分で命を縮めただけなのに、なぜそういう話になるのだろうか?
「そうね。なんか、自殺しちゃったのがよくなかったみたい。最期まであきらめずに生きようとすることが大切なんだって……」
「自殺しちゃったら、もう、どうしようもないの?」
「ううん。神様がね『人の苦しみを背負いなさい。お前は血の病気を持っていたから身体だけ返そう。手と足、そして頭はこの病院で苦しんでいる者から貰いなさい。そうしたら新しい人生を考えよう』って……」
「よく……わかんない」
僕はそう言ったが、マリの声は続いた。
「右足はスキーで骨折した人から貰ったの。あたしがもらう事になったから、その人の怪我は神様がすぐに治してくれた。スキージャンプのオリンピック代表の水木っていう人よ。知ってる?」
「うん。聞いたことある」
僕は頷いた。
確か去年のオリンピックで銀メダルを貰っていた人だ。【奇跡の復活】なんていうベタなタイトルのドキュメンタリー番組を見たことがある。彼がこの病院で骨折の治療とリハビリをしていたのは子供の僕でも知っている。
「あたしはその痛みをずっと感じ続けてるの。幽霊なのに、本当に痛いのよ。嘘みたいでしょ」
マリのクスリという笑いが聞こえた。
けれどもそれはとてもさみしげな笑いだった。
「左足はあたしと同じ白血病の子から貰ったの。太ももの骨で血ができてるって知ってた? あたしがもらう事になったから、その子の病気は神様が治してくれた。あたしは全身のだるさと骨の痛みがずっと続いてるの。自分と同じ症状だから、生きていた頃を思い出しちゃってとってもつらい……」
そういえば昨日、マリの姿はゆらゆらと左右に揺れていた。痛みをこらえていたのだろうか?
「右腕は女の子から貰ったの。骨肉種だって。あたしが貰うことになったから、神様がその子を治してくれた。その子はもう少しで右腕を切り取られるところだったのよ。だから、あたしの右肩はとっても痛い。
左腕は男の子から貰った。トラクターに巻き込まれちゃったんだって。手術でとてもくっつきそうもなかったけど、あたしが貰ったから神様がその子の手をくっつけてくれたの。だから、あたしの左腕は今もぐちゃぐちゃ。ものすごく痛い」
あの血の滴る左腕はそういう意味があったのか。
僕はマリの言葉で昨日の姿を頭に思い描いた。おどろおどろしい彼女の姿を思い出してしまい、僕は恐怖で少し震えた。
「あとはキミの頭の病気を貰えたら、私は全身がそろって次の新しい人生を神様と話し合える。だから……お願い」
真剣なマリの声だった。
「いいよ。僕の病気を貰って」
マリが救われ、僕もこの苦しみから逃れられるのであればこんないい話はない。
なぜだか、マリの言葉を素直に信じることができた。
「ありがとう。今から姿を出すけど、また泣かないでよ」
マリのクスッという笑い声が聞こえた。
「大丈夫」
僕はゴクリとツバを飲み込んだ。
いつも見ているテレビの近くに淡い光が集まってきた。そして、徐々にそれは輪郭を形作り、姿を現した。昨日と同じ、首がなく左腕が血まみれの幽霊が……。
覚悟をしていたとはいえ、その姿を見ただけで僕は恐怖心に駆られて涙があふれてきた。
「な、泣かないでよ!」
首のない幽霊は焦った声をあげて、おろおろとした滑稽な姿を見せた。
「大丈夫」
僕はその様子を見て思わず小さく笑った。
「嘘! 今にも泣きそうだったよ!」
「大丈夫だもん!」
僕は悔しくなって唇をとがらせて言葉を続けた。「早く、病気を持っていって!」
「うん。ありがとう」
そう言うと首のない幽霊はすーっと近づいてきて、僕の頭に右手を乗せた。
すぐ近くに寄ってこられると、やはり恐怖心が湧いてきて僕は泣きそうになった。しかし、なんとか寸前の所で踏みとどまる事が出来た。
すると、どうだろう。僕をずっと苦しめていた頭痛や吐き気がたちまち消えていった。
そして、だんだんとマリの首の部分に光が集まって姿が現れてきた。
それはとても長い黒髪とギリシャ彫刻のように白く整った顔立ちの美しい姿だった。
年齢は中学生ぐらいだろうか。あまりの美少女なので僕は息を飲んでその顔を見つめた。
その美しい顔がたちまち苦痛で曇っていって、僕は驚いた。
「この病気って……すごい気持ち悪くて痛いのね」
マリの表情は蒼白でとても苦しそうだった。彼女は全身から痛みを感じているのだ。
「マリ……。痛い?」
マリに病気を渡して本当に良かったのだろうか?
今まで自分が感じている苦しみを彼女に押し付けて、僕だけ元気になるのが本当にいいのだろうか?
(マリがかわいそう……)
僕はマリがとても不憫に思えて涙があふれてきた。
「キミは優しいな」
マリは痛みに耐えているのだろうか。無理に笑顔を作って僕の頭を撫でてくれた。「そんな顔しないで。これで、あたしは神様に会えるんだから。ねっ」
「でも、でも」
目にいっぱいたまった涙があふれて頬に流れ出した。
「キミは泣き虫だな」
クスリと笑ってマリは僕の頭をやさしくふんわりと撫でた。
「泣き虫じゃないもん!」
涙を滝のように流している姿ではまったく説得力がなかったが、僕はマリの言葉に反駁した。
「隆君! 大丈夫?」
突然、看護師の声が聞こえた。
そちらに目をやると慌てた表情で看護師が駆け寄ってきた。
「どこか痛むの? 気持ち悪いの?」
心配そうに僕の顔を覗き込みながら涙をタオルでぬぐってくれた。
「ううん。大丈夫」
僕は大きく鼻をすすると手で涙をぬぐった。
『ありがとう。じゃあ、あたし行くね』
というマリの声が頭の中に響いて、彼女の姿は消えていった。
その日を最後にマリは現れなくなった。
僕の体調はマリに病気をあげてからずっと良くなった。
僕をずっと苦しめていた頭痛も吐き気も完全に消えてはいなかったが、かなり軽減されていた。
あれから二週間ほど経った日。僕は久しぶりにゲーム機を取り出して遊んでみる事にした。今までは二重に見えたり、頭痛がしたりで集中して遊ぶことができなかったが、今日はすこぶる調子がいい。
「隆!」
突然病室に入ってきた母に抱きしめられた。その顔は涙でくしゃくしゃになっていた。
「ごめんなさい」
ゲームで遊んでいる事を咎められたと思って僕は反射的に謝った。
「頭の中のバイキンがほとんどいなくなってるの。よかった。本当によかった!」
母はそう言うと苦しいほど僕を抱きしめた。
(マリのおかげだ……)
僕の頭の中にマリの痛みに耐えている顔が思い浮かんだ。彼女はあれからずっと僕の代わりに苦しんでいるのだろうか?
そう考えると僕の胸は締め付けられ、涙が浮かんできた。
「あ、苦しかったね。ごめんね」
母がにっこりと微笑みながら僕の頭を撫でた。
「ううん。違う」
僕の声は泣き声のようにひび割れていた。あの日、あった事を母に話してみようか。信じてもらえなくてもいい。僕は口を開いた。「あのね。ママ」
「あ、そうだ! パパにも話してくるわ」
母は僕の言葉が聞こえなかったのか、携帯電話を片手に病室から出て行った。
僕は一人、病室に残された。
僕だけ幸せになっていいのだろうか? そんな思いがじわじわと僕の心に広がっていく。
何も聞こえない静寂が僕をひどく不安にさせた。
また、数日が過ぎた。
「じゃあ、また明日ね」
母がとても明るい表情でそう言いながら優しく僕の頬を撫でた。
「うん。マンガ持ってきてね」
「わかったわ」
にっこりと笑いながら、僕の書いた欲しいマンガを書き連ねたメモをひらひらとさせながら母は頷いた。「でも、一度には無理よ。ちょっとずつね」
「うん!」
僕は手を振って病室から出る母を見送った。
テレビをつけようか、ゲームをやろうか、少し悩んでいる時に懐かしい声が聞こえた。
「ねぇ」
「マリ?」
僕はベットから飛び起きて病室を見渡した。
すぐ近くにマリが立っていた。その姿は以前のように恐ろしい姿ではなく、しっかりと両手両足がある姿だった。服装もこの病院の貸し出しパジャマではなく、ゆったりとした白いローブを身にまとっていた。
大理石の彫刻のように蒼白だった頬にも健康そうな赤みがあり、その姿だけを見たらとても幽霊だとは思えないほどだった。
「元気?」
マリはにっこりと僕に笑いかけた。
「うん。マリは大丈夫?」
「大丈夫だよ。ありがとね」
「よかった!」
僕は元気そうなマリの姿を見て嬉しくなった。その喜びが胸にあふれて声を出して泣きはじめてしまった。
「キミはホント、泣き虫だなあ」
マリは微笑みながら僕の頭をふんわりと撫でた。
「泣き虫じゃないもん」
涙を手で振り払いながら言い返したが、これでは説得力がまるでなかった。
「そうだな」
マリは小さくクスリと笑って、優しい口調で言葉を継いだ。「キミは優しいな」
その日から夜になるとマリは僕のところにやってくるようになった。
僕もそれを心待ちにするようになった。
二人で過ごす時間は、マリが生きていた頃の話を聞いたり、僕の学校の話をしたり楽しく過ごした。
たまにつらいことがあって泣くとマリは僕の頭を撫でて慰めてくれた。
マリは僕の事を『優しいな』と言ってくれるが、僕はマリの方が優しいと思えた。僕にとってマリは姉のような存在でとても暖かい存在になっていた。
だが、そんな優しく暖かい時間は終わりを迎えようとしていた。
いよいよ、退院が翌日に迫った夜、いつものようにマリがやってきた。
退院したらマリはどうするんだろうか?
僕はマリと離れたくなかった。
けれども、僕は退院するし、マリは次の人生を歩み出すのだ。それはかなわぬ願いだ。
「明日、退院するんだ……」
ぽつりと僕は言った。
「うん。知ってるよ。おめでとう」
マリはにっこりと笑顔を浮かべて祝福してくれた。
「でもね、でもね……」
離れたくない。別れがつらい。僕はその感情をうまく言葉に表現できなくて、声を押し殺しながらまた泣き出してしまった。
「キミは本当に泣き虫だな」
マリはクスクスと笑っていつものように僕の隣に座って頭をふんわりと何度も撫でてくれた。
いつもなら『泣き虫じゃないもん!』と言い返す所だが、今日はマリの言葉を否定せずに泣き続けた。
「あのね。今日は重大発表があります!」
「重大発表?」
「うん。今、あたしの次の人生を計画中なんだけど」
マリはそこで言葉を区切ると、はじけるような笑顔になった。「喜んで! 神様がね、キミとまた会えるようにしてくれるって!」
「え! 本当に?」
今までマリとの別れで沈んでいた心がその言葉で一瞬で明るくなった。「でも、それって、僕が死んで会えるって事じゃないよね?」
「大丈夫、大丈夫。キミが死んでこっちに来るわけじゃなくって、あたしが生まれて、キミと出会うの!」
マリは嬉しそうに弾む声で答えた。
「やったー!」
僕は喜びのあまり大声で歓声を上げてしまった。
「シーッ! 静かに。看護師さんが来ちゃうよ」
マリは口の前に綺麗な人差し指をすっと立てながら言った。慌てて僕は口を両手で押さえた。
「僕。すごく嬉しいよ。また、いつか会えるんだね」
「うん」
笑っていたマリの顔が急に真剣な表情になって、僕を見つめてきた。
「なに?」
僕は少し不安になってマリの視線から目をそらした。
「あのね……。目を閉じて。キスするから……。必ず、キミに出会うっていう約束のキス……」
「うん……」
僕は目を閉じた。
なぜだか胸がものすごくどきどきした。やっぱり、マリは大人だなってなんとなくそう思った。
むぎゅっ。
しかし、やってきたのはキスではなくて指だった。
目を開けると頬にぎゅっとマリの人差し指が押し付けられていた。
「あー! やっぱり、恥ずかしくてできない! でも絶対、絶対! 会うからね! 約束だからね!」
目を開けると、マリが真剣にそして笑顔で僕の頬に指を押し付けていた。
「うん! 約束だよ!」
僕は頬に押し付けられているマリの手を取ろうとした。
その時――。
ガシャーン!
背後から何か金属がひっくり返る音やガラスが割れる音が襲ってきた。
振り向くと看護師が恐怖で表情をゆがめている姿があった。彼女の足元には金属のトレイとコップの破片が散らばっていた。
「ご、ごめんなさい。私、疲れているのかしら」
看護師は目をこすった後、足元の掃除を始めた。
この看護師さんはひょっとしたら、マリの姿が見えたのかも知れないと僕は思った。
「大丈夫?」
「大丈夫よー。ごめんね。びっくりさせちゃって」
看護師は僕に柔らかい笑顔を見せながらてきぱきとガラスの破片を集めていった。
僕はマリがいた方に振り返ったがもう彼女の姿はなかった。
『じゃあね。またね。忘れないでよ』
と、マリの声が頭の中に響いた。
『うん。忘れないよ。絶対!』
僕が心の中で答えると、クスクスと笑うマリの声が聞こえた。
『もし、忘れちゃってたら、ほっぺたを押して思い出させちゃうからね!』
『絶対忘れないもん!』
『なんで今まで忘れていたんだろう……』
誰かに頬に指を押し付けられ、ロビーに響く金属器具が床に叩きつけられる音で僕の頭の中に電撃が走った。
「大変!」
僕の頬に指を押し付けていた主が医療用ワゴンにぶつかった子供へ駆け出して行った。
美希――だ。
僕はあふれかえる子供の頃の記憶とマリとの約束を整理できず、現実と夢をさまよう者のように呆然と美希を目で追う事しかできなかった。
ぶつかった子供は大したことがなかったのであろう。美希になだめられるとすぐに泣きやんで立ち上がると、手を振ってまた性懲りもなく駆け出した。
「こ~ら~。走っちゃだめだぞぉ」
走り去る子供の背中にいたずらっぽい声で美希が声をかけた。
美希と医療用ワゴンを押していた看護師の二人は倒れたワゴンを元通りに戻し、床に散らばっていた器具を片づけた。そして、二、三言葉を交わすと美希はこちらに笑顔を見せながら歩いてきた。
「わざわざ迎えに来てもらっちゃって、ごめんねー」
美希は僕を拝むように両手を合わせて微笑んだ。「急変した患者さんがいたりして、申し送りが長引いちゃったの」
僕の頭の中で美希の笑顔とマリの笑顔が重なった。
ぜんぜん似ていない……。美希は――マリなのだろうか?
僕はまだ呆然としながら押された頬に手をやった。
「隆クン。怒ってる?」
ずっと黙っている僕を見て、美希は心配そうに尋ねてきた。
「いや。ちょっと考えごとをしてたもんで。行こう!」
僕は立ち上がって美希と一緒に出口へ歩き出した。「映画は間に合いそうもないから、先に食事にしない?」
「さんせー!」
美希はにっこりと明るい笑顔で手をあげた。
そして、いつものように美希は僕の左隣で子供のように今日あった出来事をあれこれと笑顔で語りかけてきた。
(やっぱり、マリとは違う)
僕は二人をつい比べてしまっていた。
マリはもっと大人びていて、落ち着いた女の子だった。生まれ変わりなんてものが本当にあるか分からない。今、思い出した記憶もよくよく考えてみると本当の出来事であったのか夢の出来事なのかはっきりしない。
僕はとりとめない美希の話に適当に相槌を打ちながら玄関を出た。
むわっとした不快な暑い空気がまとわりついてきた。
辺りは夕暮れで赤く燃えるような風景に変わっていた。
駐車場に向かう途中の五段ほどの階段で「とぉ!」という子供のような声を上げて美希が飛び降り、振り返るといたずらっぽい笑顔でにっこりと笑った。
その顔を見ながら階段を二つ降りたところで、唐突に美希の顔とマリの顔が重なった。
(でも、もし、彼女がマリだったら……)
もし、そうであるなら、こんな嬉しい事はない。マリはマリじゃなくなってしまったけれど、遠い昔の約束を守ってくれたのだから……。
そう考えた途端、喜びと切なさが入り混じった複雑な感情が僕の胸を締めつけ、目に涙があふれてきた。
強い熱風が吹いた。
その風が美希の栗色の短い髪を揺らした。
美希は首を傾げながら階段を一歩上がった。きっと、急に涙を浮かべている僕を訝しんだのだろう。
「キミの泣き虫は変わらないな」
美希は優しい目をして、あの時のように僕の頭をふんわりと何度も撫でた。
――マリ!
僕の心と身体がざわざわと震えた。
「ごめん!」
美希は急に我に返った表情になって、撫でていた手をぱっと引っ込めて胸に抱いた。「なに言ってるんだろ、あたし……。『なんで泣いてるの?』って聞こうとしたのに」
「いいよ。ちょっと不思議で変な事があった方が、世の中、面白いだろ?」
僕は頬を流れた涙をぬぐって、美希に笑いかけた。「さて、今日はどこで食べたい? 中華? 洋食?」
「中華!」
間髪入れずに子供のようにぴょんと跳ねながら美希は明るく答えた。
僕はそんな子供っぽい美希の肩を抱いて歩く。すぐ隣の美希の笑顔が僕の心を明るく照らした。
ちょっと、不思議な出来事は日常のアクセント。僕たち二人はこれからも日常を生きていく。
僕は美希が近くにいてくれれば、それでいい……。
了