第三章 『キ』
「まったく、いきなり寝る奴がいるかい」大家さんは無表情のまま優奈を見下ろしていた。どうやら、疲れがピークに達しショックと共に寝てしまっていたようだ。
「もう朝だ」大家さんが部屋のカーテンをサッと開けた。太陽の光が部屋になだれ込んでくる。
「あれ?ここは…………」どこかで見たことのあるような部屋だ。大家さんの部屋でないことは確かだが。
「ここは、あんたの部屋だよ」そういえばそうだった。
「でも、鍵はどうしたんです?」そう、鍵は見知らぬ運転手がもっているはずなのだ。
「あんたが寝たあと、その鍵が掛かってるという部屋に行ってみた。そしたら、鍵が開いていた。鍵は部屋の中にあった。その手荷物とやらもな。あんたの身分証明書を見せてもらうと、本当にあんたはうちの住人だ。だからあんたをこの部屋に運んだ」
「に、荷物があったんですか!」優奈は跳ね起きると、室内を見渡した。なるほど部屋の隅に荷物があった。急いで中を確かめる。鍵も『黒月』の地図もそのほかの荷物も無事だった。なにも盗まれちゃいない。
「よかった。あ、ありがとうございます、大家さん。ここまでしていただいて」優奈は大家さんを少し見直した。
「ああ、それよりも昨日の通信費の残り、百五十円をまだもらってなかったもんでね」優奈はさっきの感情を取り消した。
そして、現在。五ヶ月たった現在、優奈は平穏に暮らしていた……、恐らくは。
家に、帰ろうかな。ふと、優奈はそう思った。今日は土曜日、月曜は祝日で休みだ。この連休を利用して家に帰ってみようか。あの時の電話以来、母と話していない。いきなり帰ったら、驚くかな。トメさんは元気かな。ペットのジョンはわたしのこと覚えているのかな。と、考えている優奈は無償に家に帰りたくなった。べつに、『黒月』から離れたいんじゃない。だだ、家に帰ってみたいだけだ……。
「大家さん、わたし今日から、連休終わるまで、家に帰ろうと思うんです。何かあったらよろしくお願いしますね」気がつくと、優奈は大家さんにこんなことを言っていた。すると、大家さんは目を丸くして、
「そうかい、とうとう行っちまうんだね」と言う。気のせいだろうか、大家さんの目が一瞬、『黒月』の長の目とそっくりになった。
「ええ、でも三日間だけですから」
「ああ、三日間もいられないと思うが」
「え?」
「頑張りなさい」何を頑張れというんだろう。優奈は不思議に思いながらもアパートを後にした。
「自分の運命とちゃんと向き合って、帰ってきなさい」と言う大家さんの言葉を知らずに。
ずいぶん変わったと思った。たった五ヵ月で街はこんなに変わるものなのか。こんな高いビルはじめて見た。街路樹が大きくなっている。人の服装がおかしい、なんだろうあんなに短いスカートは。ちょっとズボン下げすぎだろう。しかもなんだろう。あの髪の色は。外国人がたくさんいる。わ、赤い髪の人!どこの国のひと?五ヶ月という短い間にずいぶんと外国人が増えた。街ゆく人のほとんどが持っている薄い箱みたいなのは何?そこから、紐が出ていて、耳につながっている。いったい何をしているんだろう?そうかと思えば、その箱に向かって話している人がいる。そして時折笑っている。箱に話しかけて何が楽しいのか。それよりも、『笑う』とういことを久しぶりに見た気がする。そう、この街は笑いで溢れていたのだ。
そんなことより、家はどこだろう?五ヵ月の間に忘れてしまったのかな。ううん、そんな訳はない。二十年近くここで生まれ育ったんだ。簡単に忘れるはずがない。
でも、思い出せない。確か、ここら辺だとは思うが…………。
「あの、すみません」優奈は交番に行って、神崎家を探してもらうことにした。
「神崎?はて、聞いたことないな……」地図を広げ、首をかしげる警官。
「本当に、ここら辺に神崎っていう家があるんだね?」優奈はうなずいた。現に、交番の場所は覚えていた。覚えていたというより、こんな古すぎる交番を忘れられるはずがないのだが。
「部長、ちょっと来てもらえますか」警察官が呼ぶ。なるほど、部長という名にふさわしい人が現れた。あれ?この人どこかで見たことあるな。と優奈は思った。ああ、思い出した。優奈がまだ小学生のころ、小学校の前の横断歩道の前にいつも立っていた人だ。でも、おかしいな。この人、そんなに老けていたのか。
「神崎さん?ああ、あそこに建っていた豪邸ね」この人はやっぱり知っていたな。と優奈は思ったが、文章が過去形になっていることに気がついた。
「あそこは確か、大洪水があった次の日だから十年前、火事になって全焼。当時大学生の子供は幸いにも一人暮らしをしていたそうだが、その子供以外助からなかったそうだ」呆然としている優奈にかまわず、警官は続ける。
「その大学生は優奈といったかな。家が焼けても、家族が死んでも、一度もこの地に帰ってこなかったって話だ。今は三十歳ぐらいらしいから、もう大人。一度ぐらいこっちに来てもよさそうなものを…………」最後は独り言のように警官は話した。
十年前?家が焼けた?みんな死んだ?わたしが三十歳だって?
「い、今、西暦何年です?」震えながら優奈が聞いた。どうかどうか一九九六年でありますように。と願いながら。
「二〇〇六年だが、それが何か?」優奈は質問には答えず、交番にかかっているカレンダーを見た。
────二〇〇六年 十月
そこには、そう印刷されていた。