第二章 『ツ』
三十分ほど車に揺られ、着いた場所は、入居予定のアパートではなく、『黒月』だった。
見た目から判断すると、役所というところか。
何故ここに来たのだろう。
「入居の手続きを」役所の中に入ると、突然無表情な従業員に言われ優奈は思わず「はい」と返事をした。だがおかしい。入居の手続きはもうすませたはずだ。
「では、どうぞこちらへ」先ほどの人とはまた違う人があれわれた。無表情のその人は、優奈を応接間へと導いた。
優奈の入った部屋は、学校の教室ほどの広さがあった。部屋の中心部にはガラスでできたテーブル。そのテーブルを挟むように革張りのソファーが二つ。絵に描いたような応接間だ。優奈は勧められたソファーに座った。絨毯はどこか異国に迷い込んだと錯覚させるような色使いであり、柄であった。
優奈は部屋を見渡した。さっきまでいたと思っていた人はいつの間にかいなくなっており、部屋には優奈だけとなっていた。全体的に薄暗かった。天井には蛍光灯があるが、一本だけのため部屋の隅まで光が届いていなかった。それに加え、この蛍光灯は寿命が近づいているのか、チカチカとしていた。
「お待たせいたしました」突然聞こえてきたその声に、優奈は文字通り飛び上がった。天井から顔を戻すと、向かい側のテーブルに一人の老人が座っていた。いつの間にここに来ていたのか、物音ひとつしなかった。
「わたくしは、黒月の長でございます」今にも消え入りそうな声で、老人は言った。入居手続きにわざわざ長が出向くのだろうか。と優奈は思ったが、一応挨拶をした。
「黒月に住まわれるそうで」老人は言った。少々うつむき加減なので表情は見えない。
「はあ」なにか世間話でもしているようだ。だが老人は無表情で優奈を見上げた。そのとき、優奈と黒月の長との目があった。優奈は、とたんに室温が十度ほど下がってしまったのではないかと思った。長の目はそれほどまでに冷たい目をしていた。冷酷なものではない。黒月の住人とは比べ物にならないほどの後悔、悲しみが溢れそうで溢れなくて、そうこうしているうちに目が氷になってしまった────そんな感じだった。
結局、書類を書かされたわけでもなく説明を聞かされたでもなく、黒月の長と話をしただけで終わった。役所の外に出るともうすでに日が暮れていた。せいぜい一、二時間ぐらいだと思っていたのに、浦島太郎にでもなったみたいだ。神崎家の車はもうすでにいなくなっていた。地図を持っているので迷うことはないのだが、話すことに異常な神経を使ったため疲れていたから、歩くのはちょっと辛いと思っていたのだ。
まあ、仕方ないか。と優奈は思ったが、あることに気がついた。優奈の手荷物は神崎家の運転手に預けたままではないか。そこには入居予定のアパートの鍵も『黒月』の地図も入っている。アパートは何回か見に行ったり荷物を運んだりして、なんとかたどり着けることができると思うが、着いたとしても中に入れないではないか。
「…………」まあ、仕方ない。とりあえずアパートへ行こう。まさか野宿するわけにもいかない。と、優奈は考えたのだった。
しばらく歩くと、アパートに着いた。優奈は今まで知らなかったが、幸いにも役所とアパートが近かったのだ。
大家さんに事情を話す。
「だめだ。ちゃんと鍵を渡したろう」
「だから、それを運転手に預けてしまって連絡が取れないといっているじゃないですか!」
「だめだ。もしあんたが嘘をついていないとしても、部屋を開けることはできない」
「なぜです」
「鍵はあんたに渡した一つきりだからだ」
「…………マスターキーとかはないんですか?」
「ますたぁきぃ…………?聞いたことない」優奈はため息をついた。だめだ、このおばさんは。優奈は疲れがピークに達しようとしているのを感じた。
「電話を貸してくれますか?ちゃんと通信費は支払いますから」家に電話をして、運転手に手荷物を持ってこさせよう。優奈はそう考えた。一人暮らし一日目にして親に世話になるというのも情けない話だが、この場合は仕方なかろう。
「一分三十円」大家さんが黒電話の前に立ちながら言う。三分十円じゃないのかと思いながらも財布──幸いにも財布はポケットに入れておいた──から、三百円を取り出し大家さんに渡す。
────はい、神崎家です。
「もしもし、優奈ですが……」電話に出たのは優奈家の召使のトメだった。
────あ、優奈お嬢様ですね。少々お待ちください。
電話の相手が変わる。お嬢様と呼ばれて、優奈が何も思わないのは、そういう家庭に育った証ともいえよう。
────優奈?
「母さん、今日運転手よこしたでしょ。その人、わたしの手荷物もって帰っちゃったらしいの。今日でもいいし明日でもいいから荷物持ってきてくれないかな」優奈は用件を一気に言った。とにかく、疲れているのだ。
────……何言ってるの、優奈。確かに運転手にあなたを新しいお家まで送らせようと思ったわ。だけど、あなたそういうの嫌いでしょ。だからやめにしたの。
「え、うそでしょ?」
────本当よ。今日は雨が降っていたでしょ。別にどこかに出かける用事もないから……。今日は車は一台も動いていなかったわよ。
「雨?」なるほど電話の向こうからザーザーという雨音がする。だが、おかしい。母が住んでいるところと『黒月』はそんなに離れてはいないはずだ。
────え?そうよ、雨。今日はものすごく降っていたもの。洪水になるんじゃないかって心配しているところなのよ。優奈、そっちは大丈夫なの?
「あ、うん。大丈夫。じゃ、電話切るね」
────ええ、おやすみなさ…………。
母の言葉が終わる前に、優奈は電話を切っていた。
「あんた、十五分話していたよ。残りの百五十円を」
大家さんの手が霞んで見えた。
空には、満月が輝いていた。