とある平和の夕暮れ
2010年3月、天気晴れ。地元の公立高校に無事合格し、中学を卒業したばかりの彼方は何をするでもなく、ただぼんやりと家の窓から空を眺めていた。春にふさわしい爽やかな風と、草の仄かな匂い。そして真っ青な空を背景に漂う白い雲。何に思いをはせることもなく、そこにはただただ空白の時間が流れていた。
-----受験も無事終えて一段落。何もせず只のんびりする時間がこんなにも至福に思えるとは・・・・・。
去年の暮れから入試当日までの慌ただしい日々を経た彼にとって、何もしなくてもよい時間への有難さは一入だった。そんな心地よい静寂を突如揺るがすが如く、入学祝いに親から買ってもらったばかりの携帯電話のバイブレーターが鳴った。彼方は携帯のいきなり鳴り出す着信音が嫌いなので、なんでもない普段から敢えてマナーモードに設定している。サイドボタンをプッシュし、サブディスプレイを見てみると、中学で同じクラスだった親友豊郷光貴からのメールであることがわかった。彼とは小学校からの幼馴染みで、実はこれから通う高校も一緒である。早速文章に目を落とす。
「この春休み、卒業旅行と題してみんなで北海道へ行かないか。実はおれには札幌に親戚がいて、無償で泊めてくれるみたいだから宿泊代は心配無い。各自着替え等の持ち物持参。宇都宮からは青春18きっぷを使って新幹線・特急を乗り継いで行く予定。2泊3日でメンバーは今のところ候補に挙がっているのは俺を含め望月、留萌と樟葉の計4人。参加者は明日の午後までに返信すること。」
との内容であった。晴天の霹靂とはまさにこのことだ。と、彼方は即座に思った。本文を読む前はなにやら静かな時間を邪魔されたようで少しばかり憮然とした彼であったが、旅好きと鉄道マニアの彼にとっては良い知らせに違いなく、心が浮き立った。問題は両親が賛成してくれるかどうかである。
-----北海道かぁ。悪くない。でもまだ3月で寒くないだろうか。でも一度は訪れてみたい場所だった。高校の修学旅行はどうせ沖縄だろうし、こんな機会はめったにない。親に相談してみよう。
自室を抜け出しろうかを抜け、リビングについた彼は父の姿を見つける。手にはコーヒーカップ、視線は部屋のテレビへ注がれていた。テーブルの上には既に読み終えたと思われる今日の新聞が置かれている。父はどうやら朝からニュースをみていたらしい。
「父さん、あいつは何処?」
「先刻出掛けたばかりで家には居ないぞ。」
「父さん、ちょっとお願いがあるんだけど。」
「何だ?」
ニュースに夢中ですぐにはこちらを向いてくれないと思っていたが案外あっさりと返事をしてくれた。
「友達から北海道への卒業旅行の誘いがあって、奴の親戚が2日間とめてくれるって言うんだよ。4人で行くんだけど・・・・・。」
父はテーブルの上に乗った新聞を怪訝な目つきで見つめていた。それは先日起きたばかりの悪質な無差別殺人事件、いわゆる通り魔事件の記事だった。ここ数年なぜかはやっている動機なき殺人。或いは動機と行動が合同な殺人。父は暫く黙ってそれをみていた。
「やっぱり駄目だよね・・・・・。」
半ば自分の中で諦めかけていたその時、父は微笑んで言った。
「良いだろう。いくら世の中が物騒だとしてもおまえはもう高校生だ。こんな楽しそうな機会はめったにない。お世話になる人に迷惑さえかけなければ行ってもいい。」
彼方はまたも不意を突かれた。こんなにあっさりことが運ぶなんて夢にも思わなかった。もとよりその知らせを聞いたのは夢のあとではあったが。思わず嬉しさが顔からにじみ出た。
「やった!!有難う父さん。絶対におみやげ買ってくるよ!!」
「朝から何の騒ぎ??」
嬉しさのあまり大きなこえを出してしまったらしく、母の耳にも聞こえたらしい。向かい側の部屋からふと顔が覗く。
「彼方が友達に誘われて4人で北海道へ旅行するらしい。友人の親戚がむこうで泊めてくれるみたいだぞ。」
高揚した気分が一気に急転直下。母の承諾も得なければとふと我に帰る。
「駄目にきまってるでしょ。第一遠すぎるわ。別に北海道じゃなくてもいいじゃない。高校受かったからってちょっと浮かれ過ぎよ。」
つい先刻まで北海道へ行けると確信し浮かれていた自分が急に愚かに思えてきた。何かと口うるさい母が北海道旅行など快諾する筈がない。尤もこちらの方が世間一般的に言ったら常識的なのかもしれない。
「確かに距離はあるけれど彼方はもう高校生なんだぞ。青春の為に金を費やしたってたまにはいいだろうたまには。」
「青春、て、呆れるわね。あなたは考えが浅はかなんですよ。もう高校生ってしかも、まだ中学を卒業したばかりよ?おまけにこの記事を読まなかったとは言わせないわ。この物騒なご時世、中学卒業したての高校生だけで行くなんて無謀危険極り無いわ。」
父と母の口論を聞いているうちにますます母の意見が尤もに聞こえてきた。父は少し世間の感覚とズレた人だと母はよく言う。しかし、それでは自分を誘った光貴までもズレていると認めることになる。彼方はそんな理屈を組み上げてだめもとで食い下がった。
「お願い。今回だけ特別だからさ。」
「駄目。駄目といったら駄目です。わかったらさっさと支度して課題やりなさい。母さんは買い物へ行ってくるから。」
そう言い残して母はリビングをさっていった。束の間の沈黙・・・・・。
「まあ、しょうがないな。父さんが許してもこの家のお金を管理しているのは母さんな訳だし、説得しようにも聴かないだろうから諦めろ。」
この場合は諦めるのは妥当だと、ついに父さんまで結論を出した。確かに自分は家庭を切り盛りしている訳ではないし、自分で働いてお金を稼いでる訳でもない。従って文句は言えない。仕方なく断ろう。そう心に決めかけた。
「なんて言われて諦めるようだったら行かない方がいい。」
「え?」
一瞬父が何を言ったのかわかるらなかった。その言葉を理解したのは10秒たってからだった。
「そんな生半可な気持ちしか抱けないようでは行かない方がいいと言っているんだ。」
父の視線はテレビでも朝刊でもなく彼方の目を真っ直ぐ射貫いていた。そんな真剣な眼差しを受けて彼方は思わず顔が強張る。
「怖いんだろう。」
「何が?」
「自分の意志や行動選択に責任を持つことが、だ。」
-----そうかもしれない。いや、図星だ。僕は今まで自分のしたいことを我慢してきた。でもそれは果たして賢明な処置と言えるだろうか。
「お前はいつもそうだ。自分で自主的に何かをやろうとしない。誘われたら応じる、駄目と言われたらすぐ諦める。高校受験だってそうだ。自分には合わないと思った塾に母さんの言いなりになって無理やり通い、担任からこの学校は難しいと言われればワンランクもツーランクも目標を下げて、現状に甘んじている。別にお前がそれで納得しているならいい。でも父さんにはそうは見えない。今までは黙っていたがそろそろ自我の芽生えがあっても良いだろう。」
父の数多なる言葉の槍に返す言葉を失う。
「欲しいこともやりたいこともNOと言われれば全て我慢する。いや、我慢と偽って実は楽をしてるんだ。人の言う通りにしていればたとえ失敗してもその後に責められないからな。」
父の刺々しい言葉に思わず目を背けたくなる。しかしそうしたところで父の声は依然として容赦無く耳に届く。
「でもな、他人のおりの中で易々と飼い慣らされるのもそろそろ止めにしろ。問題は当のおまえ自身がどうしたいかだ。今一度言ってみろ。」
暫くの間を置いてからだった。彼方は意を決してその言葉を口にした。
「確かに父さんの言い分もわかる。でも正直今の言葉で行く気が失せたね。他人の言いなりになって楽をするのはある意味で処世術だと自分では思ってる。僕だけじゃないんだ。今の世の中誰だってそうやって生きている。時代錯誤だよ。当たり前のことを咎められ、こんな後味の悪い思いをしてまで僕は北海道へ行きたいとは思わな・・・・」
刹那、視界が反転。鞭のようなパシンッという鋭い音がした。左の頬からピリピリとした痛みが走り抜ける。
「お前みないな連中が沢山いるから何時になっても変わらないんだぞ!!」
「だって父さんがどうしたいか言ってみろって言うから・・・・。」
父は無言でリビングを去っていった。平手打ちされた左の頬が思い出したようにズキズキ痛む。
-----自分は行きたいのか行きたくないのか・・・・。そもそも自分は何をしたい。何を作り、どう生きたい。全くわからない・・・・。何もしたくない。行ったってどうせ楽しくない。
気持ちがどんどん傾いていった。
-----何故楽をしてはいけないのか。どうして打たれなきゃならなかったのか。今の僕には到底わからない。
気がつけばもう午後の4時を過ぎていた。そろそろ彼に返信をしなくてはならない。壁掛け時計の秒針が刻一刻と時を刻む。優柔不断な性は時間と比例して治らない。テレビは誰も見ていないのに相変わらず付けっ放し。おまけに某プロダクション所属の若手俳優が自殺、とあるアパートに住む家族が児童虐待のうえ殺人未遂で逮捕、新卒の就職率が過去最悪、世界経済の状況が芳しくなく、円高もずっとつづいている等、只でさえ暗澹とした気分を余計に煽るようなニュースがこの1人だけにとっては広い部屋に向かって空しく報じられていた。彼らはこんな悲惨なニュースを流したくてアナウンサーやキャスター、マスコミの仕事をこなしているのだろうか。いや、違うな。では何だろう?疑問の答えは終ぞ出なかった。ふと末法思想という言葉を思い出してしまう。何もかもがナンセンスに思えた。だったらこんな中途半端じゃなく、よりナンセンスな世界へと僕を誘っておくれ・・・・・と、特に意味も無く御伽めいたことを思いながら何気なくチャンネルを回す。白と黒の粒子。程なくして欠番のチャンネルがさざ波の音を奏でる。しかしその音は近づくでもない、遠ざかるでもない。画面は動かざる死の世界。御伽などとは無縁な何もない世界。彼方はその死を無目的に凝視した。
「そんなに僕をマジマジと見つめないでおくれよ」
画面は呟いた。しかし、彼方は気付かない。心を閉ざしていた。
「君の無意識にはイキタイと反応があるよ。」
彼方は聞こえない。腕が携帯に向かって伸びる。
「当たり前だ。誰が死にたいと思うか。」
ハッ、と我に返る。今自分は何と言った?
腕が携帯に向かってまた伸びる。指が勝手に動いている。昔のことを思い出した。クラシックピアノを習っていた頃。曲を覚えれば指が楽譜に従って動く。心地よい旋律に左手の副旋律がリズムに乗って加わる。記憶だけを頼りに鍵盤の上で両手の指を踊らせる。
しかし、今は何を頼りに・・・・。メロディーは既に無い。記憶?何の?自分の意思??どちらも違う。では一体何がこの指を動かしている?急に眠気が襲ってきた。だが文字は構わず紡がれる。寂寥を帯びたボタンの音、音、音。
「おれは行かない。他のメンバーはどうなの?」
送信。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「・・・ッ!?留萌!!何時から居た?てかおれは別にお前の兄ちゃんじゃない!!」
「さっきからいたよ。たった独りリビングで何にも映ってないテレビに向かって何かボソボソと呟いてるからさ、心配になって。いいじゃん別に。しかも、こんな可愛い女の子にお兄ちゃんと呼ばれてそんなこと言うなんて贅沢よ!!」
留萌は笑顔でそう言った。急にきまりが悪くなる。
「あ、あの、あれはね、部活で演劇をやることになって、それの練習。」
「ふぅ~ん。」
訝しむ目つきは相変わらずだったが、なんとかその場は回避出来たようだ。というよりも寧ろ、おまえの兄ちゃんじゃないと言われたことに不満でもあるようだった。
「つか、聞きたかったんだがお前はどう思う?」
「どう思うって何が?」
「北海道」
「ああ、あれね。あれは~・・・・」
光貴からの最初のメールに、留萌もメンバーに入っていた。だから念のため尋ねてみる。
「あ、携帯鳴ってるよ。」
「おう、来た来た。」
光貴からの返信だろう。案の定そうだった。文章に目を落とす。
「それは残念だ。留萌からはOKが出た。けれど樟葉からはまだ返信が来てないな。他の奴を誘ってみるわ。ではではノシ」
「お、おまえ、行くのかよ!!母さんに反対された筈だろ?」
「え、反対ってどういうこと??」
辻褄がまるであっていない。彼方は母が反対した時点で留萌もアウトだと、てっきりそう思っていて、それを前提に話をしようとしていたのだ。
「私が実の娘じゃないからよ。」
-----・・・・。違う。そんな筈はないだろ。
「おれは普段の素行があまり良くないから許可してくれなかったんだよ、多分。」
「違う。はっきり聞いたんだもん。あの子はわたしの子供じゃないからって。」
「は?」
-----意味がわからない。からかっている様子もない。どうやら本気らしい。
留萌は嗚咽を漏らした。今にもその目から涙が零れ落ちそうだったのだ。彼方は手近にあったティッシュボックスから紙を何枚かとった。しかし西川はそれを断った。
「確かにお兄ちゃんは普段からだらしない。けどね、私が帰ってそのことを親に話した直後、お義母さんは良いとも悪いとも言わなかった。でも暫く経ってから、お義母さんがお父さんにこっそり相談してたのがたまたま聞こえた。『あの娘はわたしの子じゃないから別に何処へ行っても気にならない。いっそのこと向こうに新しい里親としてひきとってもらおうか。』って。あんたその時昼寝してたんだもの、わかる筈がないよ。」
「父さんは?」
「聞いて頷いてるだけの様子だった。隣の部屋から会話が聞こえてきたから何かと思えば・・・・・。」
どうやらそれが限界だったようだ。とうとう彼女は泣き出してしまった。ティッシュペーパーをもう一度やろうとする。しかし強引に突きかえしてくる。
「いらないよ!この穢れた血!!こっち来んな!!!」
留萌はそそくさと自室へ引き籠ってしまった。そう言われてしまった以上、今すぐに近づくことは不可能だった。だが、彼方は心に決めた。
「やっぱおれも行くわ。OK」
送信。
普段は元気でうっとおしいとさえ思っていた留萌のことだったが、さすがに今回ばかりは気の毒に思えた。うちの親は一体何を考えているのだろうか?尤もらしい感じでつい先刻自分を叱った父はともかく、母の突然のその発言には驚いた。初めてそんなことを聞いたからだ。やっぱり嘘だろうか?でも目の前では留萌が泣いていた。何か只ならぬ予兆すら感じた。
夜7時。冷蔵庫の中にある夕食を準備する。今日母はしごとで遅くなる。父は書斎で作業でもしているのだろう。父の食事は普段もっと遅い。留萌は相変わらず部屋に引き籠ったっきりだった。念のため食事を部屋の前に置いておく。食事といっても料理が出来ない為、冷蔵庫の総菜を適当に盛りつけて温めただけのものだった。
「おい留萌、飯、前に置いとくぞ。」
「・・・・・。」
返事は無かった。無理も無い。一緒に食べようかと言おうとも思ったが、暫く独りにさせておいたほうがいいと判断した。
-----樟葉はどうなんだろう?まだ迷っているのか、やはり親に反対されてそれでも食い下がっているのかはわからない。それにしても、留萌の話しが未だ信じられない。レンジで温めたシウマイを口に入れる。たった独りでの食事。慣れている筈なのに、心なしかいつもより味が落ちているように感じられた。