万寿菊
「ねぇ、ねぇ、もう帰るの?早くない〜?」甘ったるい声に、わざとらしい困り眉と上目遣いでウザ絡みをする。彼女の特技だ。「はいはい、あなたも早く帰りなさいよ」2人とももう慣れたやりとり。なのに今日は違和感があった。
今日は一段と暑かったので、オバサンたちは揃って冷房を強めた。朝は寒いと感じていた冷房も、容赦なく降り注ぐ西陽と合わさるうちに心地よい温度となり、意識が薄れていく。
コツコツコツという速い音で意識が戻った。重い身体を起こすと、先生が急いで帰って行く後ろ姿が見えた。ふわふわした頭で「ワラビーかよ」とツッコんだ。先生には聞こえていなかった。空はすっかり群青色に染まっていた。慌てて時計を見ると、時刻は既に18時半を過ぎており、「子持ちは帰る時間ですか」と嫌味ったらしく呟いた。バレたら怒られるのはわかっているのに、気付かれなかったらそれはそれで、なんとなく寂しい気持ちになった。何故寂しいのかはわからなかった。しっかり寝てしまった自分に呆れながら、彼女は乗換案内アプリを開く。2時間の遅延。「マジか」と思わず声が出た。ニュースを見ると案の定、人身事故だった。「夏休み明けはこんなものか」そう自分に言い聞かせて、母親に帰りが遅くなる旨を連絡した。
1時間後、返事がきた「ご愁傷様、夜ごはん買って帰るか、食べて帰るかして」「はい」とスタンプで返した。実家暮らしの彼女にとって、一番居心地の悪い場所は家だった。大学に入ってからは用事や夜ごはんは外で済ませ、22時頃に帰るのが日常となっていった。但し、早く帰る日や、お金がない時は家で食べるから、一応連絡は入れる。決して冷たいわけではない。至っていつも通りの文面だ。なのに今日は違和感があった。
何が違うのだろう。彼女は考えた。どうせあと1時間は電車が来ないし、家までは片道1時間かかる。時間の許す限り考えた。昨日のこと、先月のこと、5年前のこと、20年分の記憶の箱をひっくり返して考えた。
あゝ、そういうことか。バラバラのピースが急に綺麗にはまった。彼女は鞄もスマホも何もかもほったらかしにして、一直線にトイレに向かった。上に乗って扉の縁にベルトをかけた。恐怖も安堵も感じない。ただ、50kgの人間が乗って壊れないか、それだけが心配だった。彼女はスッと頭を通し、足元を軽く蹴った。気道が塞がり、脳に酸素が届かなくなる。寝起きのようなふわふわとした感覚だった。
その時、黄色い万寿菊が黄金色になり、静かに枯れた。




