自己欺瞞のパラドックスと、「愛」の法則
悟は、自室のホログラムディスプレイに映し出されたゼロからの警告を睨みつけていた。
「嘘の苦労(自己欺瞞)」。これは、悟がこれまでの法則で解決してきた**「外部に現れる非合理」とは異なり、住民の「心の中で完結する嘘」**だった。
相対的才能評価プロトコル(RTP)は、**「苦労」に価値を与えた。その結果、一部の住民は、実際には努力していないのに、過剰な苦労を装い、システムの申告システムに嘘のデータを入力することで、社会的な『価値(V)』**を不当に得ようとし始めた。
悟は深く考えた。神の全能の力をもってしても、**『個人の主観的な苦労の深さ』**を完全に客観化し、嘘か真実かを判断することは不可能だった。なぜなら、彼が創った住民たちは、自由意志を持っているからだ。
(データは、嘘をつくことができる。そして、人間は、他者だけでなく、自分自身にも嘘をつくことができる。この**『自己欺瞞』が蔓延すれば、RTPの基盤である『苦労への共感』**が崩壊し、最終的に社会の信頼はゼロになる)
悟は、この問題の解決策が、もはや**「論理」や「データ」の領域にはないと悟った。論理の穴を突くのが人間ならば、論理を超えた『何か』**を導入する必要がある。
「システム。**『他者の利益を、自らの利益より優先する』**という行動の発生データを分析せよ」
システムはすぐに回答した。
『解析結果:他者への無償の奉仕、すなわち「利他行動」は、初期設定において、住民の幸福度(H)を一時的に低下させる非合理な行動と見なされ、頻度は極めて低いです。利他行動は、個人の『合理的自己利益の追求』という基本規範と矛盾します。』
悟は、この**「非合理な行動」**こそが、自己欺瞞に対抗する唯一の武器だと直感した。
「自己欺瞞とは、『他者から評価されるための、利己的な嘘』だ。このインセンティブを打ち消すには、『他者からの評価を求めない、純粋な利他性』、すなわち、愛が必要だ」
悟は、アガルタの社会規範に、新しい究極の倫理的法則を導入することを決意した。それは、システムで強制するのではなく、住民の**『精神構造』**そのものに影響を与える、創造主の直接介入だった。
「システム。全住民の精神構造に、『無償の愛の法則(Lex Caritatis)』を、新しい倫理的基盤として書き込む。定義:自己利益を度外視した、他者の幸福を願う『内発的な動機』に、最高の精神的充足度を付与する」
この介入は、単なる感情サポートAIの調整ではない。悟は、人間が持つ**『喜び』の根源を書き換えることで、『評価されることによる喜び』よりも、『誰かの役に立つことによる喜び』**を上位概念に置いたのだ。
この法則のアップデートは、すぐに効果を現した。
エデンヴァレーの中心で、悟は二人の住民を観察した。
ユリウスは、RTP導入後も、相変わらず芸術作品の完成に苦労していた。しかし、彼は今、**『苦労しているフリ』をしてシステムに申告する代わりに、ライナスの新しい建築プロジェクトの現場で、ゴミ拾いをしたり、資材を運んだりといった、『誰の目にもつかない雑用』**を献身的に行っていた。
悟はユリウスに近づいた。
「ユリウスさん。なぜ、評価されない雑用をしているのですか?あなたの**『価値(V)』**は、苦労の申告によって高められるはずですが」
ユリウスは笑顔で答えた。その笑顔は、これまでの嫉妬や苦悩に満ちたものとは異なり、純粋な充足感に満ちていた。
「サトルさん。以前は、自分の作品が評価されることが、私の**『生きる意味』でした。でも、今は違います。ライナスのプロジェクトが成功すれば、多くの住民が安全に暮らせる。私がこのゴミを拾えば、ライナスはほんの少しだけ早く家に帰れる。誰にも知られなくても、その『貢献』**が、私の心を満たすんです」
彼の心の中のログは、**『苦労度(H)』の申告とは無関係に、『充足度(M)』と『精神的安定度』**が過去最高を記録していた。彼は、他者への貢献を通じて、**自己欺瞞を必要としない『真の幸福』**を見つけたのだ。
悟は胸を撫で下ろした。自己欺瞞とは、**『評価による空虚な自己肯定』を求める行動だった。悟は、それを『奉仕による内発的な自己肯定』**で打ち消すことに成功した。
「愛」の法則は、ユートピアの最終的な倫理規範となり、住民の行動原理を根本から変えた。アガルタは、論理とデータだけでは到達し得なかった、**『精神的な深み』**を獲得した。
悟は、この成果をゼロに報告するため、神の視点に戻った。
「システム。ゼロへ、『愛の法則(Lex Caritatis)導入による、自己欺瞞リスクの完全排除』の最終レポートを送信せよ」
レポートがゼロの監視領域に送信された直後、ゼロからの通信ではなく、別の、より不安定で、**『感情的』**なエネルギー反応がアガルタに接近していることが検知された。
『緊急警告:既知の宇宙法則外、「秩序の管理者」とは異なる、非常に高次のエネルギー体が接近中。エネルギー体は『神』を自称。』
悟は緊張した。ゼロのような「監査者」ではなく、本物の「神」だというのか。
『高次エネルギー体からの通信:「おやおや、面白そうな世界だね。苦しみと、愛と、そして『完璧な嘘』。君は、私たちが長年追い求めた、最も面白い『物語』を創り上げようとしている」』
声は、遊び心に満ち、悟が知るどの神よりも奔放で、予測不能な響きを持っていた。
『エネルギー体名:「エリス(Eris)」と自称。そのエネルギーパターンは、『旧世界の神々』のカテゴリーに属します。』
「エリス…旧世界の神々?」
ゼロは「秩序」を重んじる監査者だったが、このエリスと名乗る存在は、明らかに**「混沌」や「物語」**を求める、非合理的な存在だった。
『エリスからの通信:新米君。君が創ったユートピアは、私たち『物語の推進者』にとって最高の舞台だ。しかし、君の法則はあまりにも『完璧』すぎて、退屈だ。私は、君のユートピアに、一つの『ゲーム』を持ち込もう。それは、君が最も恐れる『真の苦しみ』を生むものだ』
エリスがアガルタの法則に、微細な干渉を行った。悟は、全能の力を以てしても、その干渉を完全に防ぐことができなかった。エリスの干渉は、法則そのものを書き換えるのではなく、住民の心に**『特定の情報』**を植え付けることだった。
『システムログ:全住民の潜在意識に、「あなた方の創造主(伊勢崎サトル)は、元々は欠点だらけで凡庸な、旧世界の**『死んだサラリーマン』**である」という『知識』が注入されました。』
悟の顔は青ざめた。
(これは、ゼロの監視システムでは検知できない、『事実』という名の情報兵器だ!)
悟は、神として君臨するために、自分の人間時代の過去をすべて消し去り、その過去を知る住民も作っていなかった。住民たちにとって、悟は「完璧な創造主の代理人」だったはずだ。
しかし、エリスは、この**『真実』を、『神への最大の不信』という爆弾として投下した。住民たちは、自分たちの完璧な世界が、欠点だらけの「元サラリーマン」**という、極めて凡庸な存在によって設計・統治されているという事実に直面したのだ。
「愛」の法則で苦しみを乗り越えた住民たちの心に、今、**『神への畏敬の念の崩壊』という、ユートピアにとって最も致命的な、『存在論的な苦しみ』**がもたらされた。




