嫉妬の法則と、苦しみの受容
悟は再び辺境居住区アルカディアを訪れた。しかし、前回とは空気が違った。
前回は「小さな嘘」という可愛らしい非合理だったが、今回は**「窃盗」**という、アガルタの平和主義的な社会規範を根底から揺るがす出来事だ。住民たちは不安と戸惑いに包まれていた。窃盗を犯したルカスは、共同アトリエの一角で、自責の念からか、顔を覆って座り込んでいる。
悟は、まず被害者である芸術家のコデリアに話しかけた。
「コデリアさん、ルカスさんがあなたの作品を破損させた件について、あなた自身はどう感じていますか?」
コデリアは、粘土細工の作品の、一部が削り取られた箇所を静かに見つめた。
「悲しい、です。システムは、私が悲しむ必要はないと解析しています。修復はすぐにできるし、失われた粘土もすぐに補充される。でも…私の心臓のあたりが、ずきずきします」
**『悲しい』という感情。アガルタでは、感情サポートAIがネガティブな感情を「非効率な状態」として検知し、瞬時に介入して解消するよう設計されていた。しかし、悟が不確実性を導入した結果、この種の『魂の痛み』**が初めて表面化したのだ。
「その痛みは、あなたが『傑作になる可能性』を奪われたことへの怒りですか?」悟は尋ねた。
「怒り、ではないかもしれません。ただ、**『私の作品が、他者の心を動かし、その結果として歪みを生んだ』という事実に、言い表せない感情を覚えます。ルカスさんが、私の作品を平均点だと思っていれば、こんなことは起きなかった。彼の行動は…私の作品に『真の価値』**が生まれた証拠なのかもしれない、と」
コデリアの言葉は、悟の予測を超えていた。彼女は、嫉妬が生み出した破壊を、自己の価値の証明として捉え始めていた。
(コデリアは、競争のない世界で得られなかった**『他者との絶対的な差異』**を、ルカスのネガティブな感情によって確認した。人間は、他者との比較なしには、自己を定義できないのか…)
次に、悟はルカスの前に座った。
「ルカスさん。なぜ、あえてシステムで満たされている粘土を盗み、コデリアさんの作品を傷つけたのですか?動機はシステムログで把握していますが、あなたの言葉で聞きたい」
ルカスは顔を上げず、震える声で答えた。
「私は、凡庸なんです。エデンヴァレーのライナスのようにはなれない。コデリアのように、システム評価を超えた**『希望』を生み出すこともできない。私に残されたのは、完璧な世界で、『自分が無価値だ』**という事実だけでした」
「そして、コデリアさんの作品が、ルカスさんから見て『傑作』になる可能性を帯び始めたことが、嫉妬を生んだ、と」
ルカスは深く頷いた。
「はい。私は、その粘土を盗むことで、彼女の**『特別さ』を自分のものにしたかったのかもしれない。あるいは、『特別さ』を壊すことで、すべてを『平均』**に戻したかった」
悟は、ルカスが感じているこの感情が、かつて彼が生きていた世界で、戦争や差別、犯罪の根源となってきた**『人間の業』**そのものであると認識した。これを消すには、ルカスの記憶を消去するか、彼の感情を永久に抑制するしかない。だが、それはユートピアではない。
悟は、神の権能ではなく、プロジェクトマネージャーとしての冷静な論理で語りかけた。
「ルカスさん、聞いてもらいたい。あなたは**『凡庸であること』に苦しんでいる。コデリアさんは『感情的な痛み』に苦しんでいる。この苦しみは、私が創世時に除去しようとした、最も非効率で、非合理な感情です。しかし、今日、私はこの苦しみが、あなた方にとって『必要』**だと悟りました」
ルカスは顔を上げた。
「なぜ、苦しみが必要なんですか?神が創った世界なのに」
「苦しみとは、**『現状と理想のギャップ』です。凡庸であることに苦しむのは、あなたが『非凡な存在になりたい』という理想を持っているからだ。悲しむのは、あなたが『その作品に価値がある』**と、心から認めているからだ」
悟は、アガルタの社会規範に、新しい哲学を導入することを決意した。
「今から、創造主の新しい法則を伝えます。それは**『苦しみの受容の法則』**です」
悟は、神の権能を使い、その哲学を、ルカスとコデリア、そして周辺の住民たちの潜在意識に深く刻み込んだ。
1. 苦しみは、価値の証明である: 嫉妬、悲しみ、怒りなどの負の感情は、あなたが**『重要だと感じる何か』を失うリスクがある証拠であり、あなたの『意欲』**の源である。システムはこれらの感情を抑制しない。
2. 負の感情は、創造の燃料である: 凡庸さへの苦しみは、努力のベクトルとなり、コデリアの悲しみは、作品を修復し、より偉大なものへと進化させる**『意志』**となる。
3. 解決は、システムではなく、人間が行う: ルカスさんの犯した**『過ち』は、システムによる罰則ではなく、コデリアさんが『許す』、あるいは『乗り越える』**という、人間同士の対話でのみ解決される。
悟はコデリアとルカスに目を向けた。
「コデリアさん、システムはルカスさんを罰することを推奨していません。あなたはどうしますか?」
コデリアは、壊れた作品を指でなぞりながら、静かに言った。
「ルカスさん、私はあなたの**『嫉妬』に価値を感じた。でも、それは私の作品の価値であって、あなたの苦しみの価値ではない。あなたが本当に非凡になりたいなら、私の作品を壊すのではなく、『あなたの作品で私を超えてください』**」
ルカスは、その言葉に、罰を受けるよりも重い、深い衝撃を受けた。彼はコデリアに向かって、顔を上げ、初めて心からの感情を露わにした。
「コデリアさん…ごめんなさい。そして、ありがとう。私は、あなたの言葉で、私がすべき**『本当の努力』**が何かを知りました」
彼は立ち上がり、共同アトリエの隅にある、自分の凡庸な作品群の前に向かった。彼の顔には、自責の念ではなく、**『乗り越えるべき目標』**を見つけた者の、強い決意が浮かんでいた。
この一件は、アルカディア、そしてアガルタ全域に、静かな波紋を広げた。
「苦しみは、許された」
「負の感情は、非効率ではない」
悟の介入により、アガルタの住民は、感情の多様性という、人間の本質的な要素を再獲得した。幸福度データは、以前のように高安定ではなくなったが、代わりに**『人生の意義(Meaning of Life)』**を示す指標が、緩やかに上昇を始めた。
悟は、この日のログを、**「倫理的法則のバージョン1.1アップグレード」**と名付けた。
(人類は、**『苦しみが、さらなる苦しみを生む連鎖』に陥らなければ、『苦しみを、成長の糧』**にできる。この境界線を、神として維持し続けなければならない)
しかし、この悟の「苦しみの受容」という新しい法則が、ユートピアの外側で、予期せぬ存在を覚醒させることになる。
その夜、悟が神の視点に戻り、アガルタを俯瞰していた時、システムのメインログに、緊急警告が表示された。
『警告:既知の宇宙法則外の、高次元エネルギー反応を検知。接近速度、極めて高速。』
悟の心臓が、人間の心臓としてはあり得ない速さで脈打った。
「なんだ、これは?私が創世時に排除した、**『外部干渉リスク』**か?」
『解析結果:このエネルギー体は、アガルタの法則アップデート、特に「苦しみの受容」プロトコルの発動に、強く共鳴しています。エネルギー体は、自らを「秩序の管理者」と称しています。』
悟は背筋に冷たいものを感じた。この世界は、元の神に**「飽きられた」結果として自分に委ねられた。つまり、宇宙には、他にも多くの「神」、あるいは「管理者」**が存在するということだ。
『管理者からの通信:「そこの新米。お前の創った世界は、非効率な矛盾を許容し始めた。それは、我々が長年排除してきた**『混沌』の種だ。直ちに介入を停止せよ。さもなくば、強制排除を行う」』
悟のユートピア・プロジェクトは、創世直後の内部崩壊の危機を乗り越えたばかりで、今度は、**『外部の神々』**という、予測不能で圧倒的な力の脅威に直面することとなった。
彼は、プロジェクトマネージャーとして、新たなリスクを分析した。
(この管理者は、私が**『苦しみ』を許容したことに怒っている。これは、「ユートピアの定義」を巡る、神と神の『哲学戦争』だ。私のユートピアは、力による強制的な管理ではなく、『自由な成長』**を目指している。このビジョンを、外部のステークホルダーに理解させるか、戦うか…)
悟は、戦闘態勢に入りながらも、冷静に次の一手を模索した。




