不信の連鎖と、神の顔の見せ方
エデンヴァレーの中心広場は、創世以来、初めて**『熱狂』**に包まれていた。
しかし、それは歓喜の熱狂ではない。建築家ライナスが設計した共同住宅の前に集まった住民たちは、システムが発表した**「崩壊リスク0.01%増加」**という情報にパニックを来していた。
「我々は神によって『永遠の安全』を約束されたはずだ!」
「たった0.01%でも、リスクはリスクだ!元の完璧な状態に戻せ!」
住民たちの間では、不確実性の導入によって天候予報が曖昧になり、資源供給にも変動が生じたことが、**「神の設計の破綻」**の証拠として囁かれ始めていた。
悟は、この状況を伊勢崎サトルとして観察していた。ライナスは顔面蒼白で、住民に説明しようと試みるが、彼の論理的な説明は、集団の**『恐怖』**という感情の前では無力だった。
「待ってくれ!このリスクは、私たちが協力し、設計を強化することで乗り越えられる、**『挑戦』**なんだ!」
「挑戦だと?我々は苦労するために生まれたのではない!安全が第一だ!」
住民たちの要求はシンプルだ。「完璧な安定」への回帰。彼らにとって、ユートピアとは**「何もしなくても満たされ、絶対に安全が保証される世界」**だったのだ。
悟は理解した。このままでは、彼は住民の不信によって、神としての権威、ひいてはアガルタの統治基盤を失う。
(サラリーマン時代、どんな危機的プロジェクトでも、顧客やチームの**『信頼』が崩壊したら終わりだった。今は、この不信を『乗り越える意義』に変える、最初で最大のプレゼンテーション**が必要だ)
悟は、広場の中央へ一歩踏み出した。
彼の周りの空気が一瞬にして変わった。単なる隣人である伊勢崎サトルの存在が、突然、巨大な**『権威』を帯び始めたのだ。これは、悟が神の権能を使い、自身の存在を「神の代理人」**として、住民の潜在意識に訴えかけた結果だった。
「皆さん、静粛に」
悟の声は大きくなかったが、広場の騒音を一瞬で飲み込んだ。
「私は、あなた方と生活を共にしてきた伊勢崎サトルです。そして、あなた方の創造主である神の意図を、今、ここに伝えます」
彼の言葉は、システムメッセージのような絶対的な響きを持っていた。住民たちの顔には、恐怖から一転、絶対的な存在に対する畏敬の念が浮かぶ。
「創造主は、あなた方に**『危険』を与えたのではない。創造主は、あなた方に『真の幸福への道』**を提示されたのです」
悟は、落ち着いた口調で話し始めた。彼は、かつて生前の世界で、絶望的な状況にあるプロジェクトチームを鼓舞し、顧客に未来へのビジョンを提示した時のように、論理と感情を織り交ぜた最高のプレゼンテーションを開始した。
「あなた方は、戦争も苦しみもない世界に生きている。それは真実だ。しかし、この十年、あなた方の多くが心の中で感じていたはずだ。『私は何のために生きているのか?』と」
住民たちはざわめいた。悟が、誰もが胸の奥にしまい込んでいた「退屈」や「虚無感」を指摘したからだ。
「完璧な安全とは、**『成長の終焉』を意味します。あなた方は、安全な檻の中で、ただ生きるという『作業』**を繰り返すだけの存在になりかけていた。創造主は、それを望まない」
悟は、ライナスを指差した。
「ライナスは、建築家として**『完璧な設計』を達成した。しかし、彼がその設計を『乗り越え』、人類史上誰も見たことのない『究極の安全性』を達成しなければ、彼の人生は『システムが定めた最適解』で終わってしまう。創造主は、ライナスに『自己実現の機会』**を与えたのです」
悟は、神の権能を使い、ライナスの潜在意識に直接語りかけた。
(ライナス。このリスクは、君が神の法則を超える、最高の建築を完成させるための唯一の試練だ。君の仕事に、意味を与えよ)
ライナスの顔つきが変わった。パニックの色が消え、燃えるような闘志が瞳に宿った。
「サトルさんの言う通りだ!私は、システムが示した0.01%のリスクを、必ずや**0%にする!それどころか、マイナスのリスク、すなわち、永遠に崩壊しない建築を達成してみせる!それが、私がこの世界で生きる『意義』**だ!」
ライナスの言葉は、集団の感情を揺さぶった。恐怖はまだ残っているが、彼の熱意が、住民の心に**『試練への共感』**を生み出し始めた。
悟は続けた。
「創造主は、あなた方から安全を奪ったのではない。あなた方に、**『安全を自らの手で勝ち取る権利』を与えられたのです。雨の予報が曖昧になれば、隣人と協力して作物を守る知恵が生まれる。資源の配分に競争が生まれれば、新しい発明が生まれる。これらの『試練』こそが、あなた方一人ひとりの人生を『物語』**にする鍵なのだ」
そして、悟は、神としての最後の言葉を付け加えた。
「創造主は、あなた方がこの試練に打ち勝つことを確信している。なぜなら、あなた方には、それを乗り越える**『能力』と、『協力し合う心』**が、既に備わっているのだから」
プレゼンテーションは成功した。住民たちの表情は、不信感から**「挑戦者としての意欲」**へと完全に変化した。抗議集会は解散し、彼らはライナスの周りに集まり、どうすれば0.01%のリスクを克服できるかの議論を始めた。
その夜、悟は自室で、システムログをチェックしていた。幸福度グラフ(H)は、不確実性導入直後にわずかに低下したが、今は安定を取り戻し、**意欲値(S)**がわずかに上昇していることを確認した。
(ひとまず、最初の危機は乗り越えた。**『恐怖』を『挑戦』**として定義し直すことで、神への不信を回避できた)
しかし、悟は、自分の介入が根本的な問題を解決していないことに気づいていた。
「私は、**『神の権威』を借りて、恐怖を抑えつけたに過ぎない。彼らが自発的に『苦しみ』**を受け入れるレベルには達していない」
そして、システムが新しいログを提示した。
『ログ:辺境居住区アルカディア。事象:「小さな窃盗」の発生。』
「窃盗?」
アガルタでは、すべての物資が満たされているため、窃盗という概念自体が成立しないはずだった。
『解析結果:住民ルカス(隣人)が、コデリア(芸術家)の作品から、意図的に粘土の一部を少量抜き取りました。動機:コデリアの作品の『曖昧な評価』に対する嫉妬。』
悟は驚愕した。
「嫉妬だと?システムは、感情サポートAIで、住民間に負の感情が生まれるのを防いでいたはずだ!」
『解析結果:不確実性の導入により、コデリアの作品が「傑作になる可能性」を得た結果、ルカスの心に、「自分は傑作を生み出せない」という、システムでは制御不能な『感情的な格差』が発生しました。ルカスは、コデリアの作品を物理的に毀損することで、この格差を埋めようと試みた模様です。』
悟の顔は、初めて深い苦悩に歪んだ。
彼は、戦争と飢餓を消し、物理的な苦痛を消した。しかし、**『不確実性』を導入した結果、人間の中に、「感情的な優劣」という、最も根深く、最も醜い『苦しみ』**の種を植え付けてしまったのだ。
物理的な資源は無限でも、**『才能』や『名声』といった精神的な資源は有限であり、そこには必ず「嫉妬」**という感情が生まれる。
「私は、**『競争』と『連帯』を生み出すために不確実性を導入した。しかし、同時に、ユートピアの最大の敵である『人間の業』**までも復活させてしまった…」
悟は、これが真のユートピア創造の試練だと悟った。物理的な法則を操るだけでは、人間の心の闇には勝てない。彼は、今度こそ、直接介入者として、この感情的な問題の核に触れる必要があった。




